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逃行〈1〉
俺は中学三年生。生まれた時から母子家庭だ。普通以下の暮らしではあるが食うに困る極端な貧困家庭というわけでもない。でも高校進学はできそうにない。母親から、中学卒業したら働くのよ、ってずっと言われ続けてきた。だから、俺はそういうもんだと思っていた。
三年生の時、進路についての三者懇談の席で、俺が働くことを知った担任の先生はかなり驚いていた。母親は、金銭的に余裕がありませんから、と一言で終わらせた。余裕がないという理由で俺は修学旅行にも行っていない。それでも、担任は、せめて高校は卒業させてあげてほしい、と食い下がる。色々な支援があることも説明してくれた。何より俺の才能が勿体無いと言われた。
俺は、頭が良かった。定期試験の成績は学年のトップもしくは上位五番には必ず入っていた。塾に通ったことも家庭教師をつけてもらったこともない。学校が終わると家でひたすら教科書を読んでいた。それは小学校に入学した時から始めたことだ。教科書をほぼ丸暗記しているとテストは難しいものではなかった。
俺は、携帯どころかゲーム機やおもちゃらしいものは一切与えられなかった。うちは貧乏だから、というのが理由だ。俺の遊びは教科書を読むことと、国語の教科書に書かれている文字をいかにそっくりに書くか、というものだった。だから当然、字も上手くなる。中学生になると、どの教科の先生よりも字は上手く、採点した答案用紙の端っこには、先生の字が下手ですいません、と情けないコメントが書かれていることもあった。
こんなにも才能があるのに、と言われたところで、俺自身が進学には特段、興味はなかった。そもそも進学というより、生きていくこと自体に興味がない。
母親は酔い潰れては、何でアンタを産んじゃったんだろう、って泣きながら愚痴ることはしょっちゅうの事で、シラフの時も、アンタさえいなかったら私はもっといい暮らしをしてたのに、本当に何で産んだのかしら、と普通に言う。俺なんか産まなければよかったって四六時中思っている。俺は、母親の人生を台無しにした張本人ってわけだ。あまりに幼い頃から言われ続けていたせいで、俺は自分の命や生きるということにたいして執着はなかった。けれど俺の細胞は増やして大きくなろうと俺に食い物を要求する。そして俺はその要求に従ってきた。ただそれだけの十五年間だ。
俺は父親と一度も会ったことがない。どこの誰だかも分からない。たぶん母親自身もわかってないと思う。ほぼ毎日違う男とやってたんだからそうなるだろう。
妊娠に気付いた時はもう堕すことが出来なかったらしい。未婚で誰との子かもわからない子、つまり俺を産んだ。産んだらすぐに里子にでも出せばよかったものを、その辺りの事情はよく分からないまま、俺は母親と暮らしている。
母親は売春婦だ。昼間はスーパーのレジのパートをして、夜になると売春婦になった。何人かの固定客を相手にして自宅で営んでいた。自宅は公営団地の一階の端部屋だったから、ご近所さんからは気付かれにくいのだろう。まだ幼い頃の俺は、家にやって来る男は一体何者なのだろうと不思議に思っていた。ケーキを買って来てくれる優しい男もいれば、何も言わずにすぐにズボンを下ろす男もいた。そもそも父親の概念もなかった俺は、ケーキを買って来てくれて母親と仲良く喋っている男が父親なんだろうかと漠然とした思いがあった。だとしたら、ただ黙って母親の体の上で尻を動かしている男は、一体何なんだろうと、よく一人で考えていた。そもそも母親がやってること自体、それが何なのかも分からなかったから仕方のないことなのだが。ただ今でも男達のベルトを緩めるカチャカチャ音だけはまだ耳に残っている。
そしてそれが違法行為であることを知ったのは中学生になってからだ。学校の先生や近所のお巡りさんにも話したことはない。別に俺は母親を責めるつもりもなかった。母親が春を売ってくれていたお陰で俺は毎日飢えることなく食事にありつけていたのだから。お金はお金だ。綺麗も汚いもない。
客の中には、母親が昼間にレジのパートをしているスーパーの店長や、商店街の八百屋の大将もいた。客が顔見知りの時は俺は絶対に姿を見られない様に注意した。出来るだけ物音を立てずに自分の部屋で宿題をしたり古本屋でただ同然で買った小説を読み漁っていた。
半年に一回くらい常連客の紹介で新規の客が来る時だけは、もしもの時の合言葉を母親が発した時だけ警察に通報する役目を担っていた。が、実際には通報したことはなかった。もし、警察が駆け付けるようなことが起こっていたら、俺の生活は変わっていたのだろうか…。
三者懇談を終えたその日の夜、母親は俺が卒業して働いたら売春はもう辞めるつもりだから、と言った。俺も十五歳にもなれば母親もそこそこの歳だ。だが、母親にとって春売は生きる糧のようなものだ。辞められるわけはない。性交がない暮らしは絶対に無理だろう。決まった人がいるようにも思えないし。
ある日の夜、客ではない年若い男がやってきた。どう見てもホストみたいな男だった。客が来た時は俺を部屋から出すことはないのに、その日だけはその男の前に連れ出された。まさか、コイツが決まった男なのか?と思っていたら、男は俺を値ぶみするような目でじっと見た。俺は肌の色が白く、髪と瞳は薄茶色だ。小顔で顔の造りはどこか西洋人っぽい。俺の父親はおそらく外国人なのだろう。今までその容姿で揶揄われたことはなかったが、親友もできなかった。
男は、ふぅん、いいんじゃない、と言った。気を良くした母親は、卒業したらお願いって、しなだれ声を出していたが、男は、俺が十五歳と知ると、ダメだと断った。すると母は、初めは店の掃除とかでもいいからと縋り付くように頼んでいた。何がなんでも俺に実入のいい水商売をさせたかったようだ。
だが、俺はこんな母親の計画通りにするつもりもなく、その頃から家を出ようと考え始めた。
まずは中学校という義務教育を問題なく終えてからでないと、ガキの家出は行方不明の事件にされかねない。俺は、卒業のその日まで息を潜めるようにして毎日を過ごした。
そして、卒業式を終えた次の日、俺は決行した。
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