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1 重き伝統(1)

 書斎の南側の壁に大きく穿たれた窓では、薄く真っ白なカーテンが地中海からの生ぬるい風に揺れ、蒼穹を照らす太陽は大地を灼いていた。  オペラ「ミニョン」で歌われる、オレンジの花咲く国、イタリア。九月下旬とはいえローマの日差しは衰えを知らず、枝を広げた木々は青々と草の茂った大地へと濃い陰影を落としている。  エドアルド・ディ・ジブリオは一人、黒皮のリクライニングチェアにどっかりと腰を落とし、肘掛に腕を乗せたまま昼寝(シェスタ)を貪っていた。思いがけず深い眠りだった。  次第に周囲というものが脳裏に甦り始め、うっすらと目を開けると、湯気の立つエスプレッソが手元のサイドテーブルで飲まれるのを待っている。  エドアルドが起きる頃合いだと予測したロレンツォが置いたものだろう。部屋を出る彼の足音で目覚めたのかもしれなかった。  眠気を払うように首をひとつ振る。 小さなエスプレッソカップを指につまみ、一口で飲み干した。凝縮された渋味と旨みが一気に口腔内から喉へと流れこみ、見事なほど素早く意識が回復する。  窓から注ぎこんでくる日差しが眩しい。不快に室温をあげているのも同じ陽光のせいだった。  そのふてぶてしさにつと腹が立ち、やおら立ちあがると、エドアルドは厚いカーテンを閉じにゆっくりと窓辺へ寄った。  窓の外の広大な裏庭は周りをオレンジの木々で囲まれ、小さな噴水と幾重もの花壇からなる古風でシンメトリーなイタリア式庭園だ。直線と円弧を多用し、見る者に豪傑で簡潔な印象を与える。それは、車寄せのある正面玄関の石畳でできた閑散とした前庭とはまったく違う趣きで、一年中、色鮮やかな景色を添えて見る者を愉しませてくれる。  ローマから南西五十キロほどに位置する港湾都市オステア。  市街地から外れた静かな小村に、ローマ屈指の名家であるジブリオ家の居城、オステア城は位置している。地中海世界を制覇したアレクサンドロス大王率いる古代ローマ帝国の末裔らしく、質実剛健な、余計な装飾などない堅固な城である。  しかし、かつては隆盛を誇ったこのローマの栄港も、今となっては朽ち果てた数々の遺跡に囲まれる化石に等しかった。もっとも、歴史という遺物に重きを置いてはるばる遠方から来訪する観光客には、一年を通して事欠かないでいた。  エドアルドは遊歩道と花壇が見事に組まれた人工庭園を眺めた。噴水のあたりで数羽の鳥が戯れているが、無声映画のように鳴き声も水音もここには届かない。  夏の名残の熱い風が吹き込み、エドアルドの黒い短髪を揺らす。その乾きに刺激されるようにエドアルドはカーテンの端を握った。  心は空虚に冷えているのに体だけが熱い。全身の血管が煮えたぎり、埋まることのない虚しさを紛らわせてくれるものを求めていた。 (ガナー……)  夢から覚めても、彼の陰影が脳裏でゆらめいていて誘われているようだ。 だが腕を伸ばし、いくら思考で追いかけても、この手で掴むことはできない。そういう繰り返しに苛立ちを感じることに、いい加減、厭いていた。  前に抱いてから、何十の夜を離れて過ごしているだろう。  次にこの腕に彼を抱くには、あといくつの夜を過ごせばいい。  いつまで、こんなことを自分達は繰りかえす?  いつまで続けられるのか…?  とめどない問いが次から次へと胸に湧いてきては、己を責めたてる。背中の真ん中で、どす黒い塊が膨れあがってくる。  忙しくしている間はいい。忘れていられる。 しかし、こんなふうに思いがけないときに、じつに不意に、彼の肉体を思いだす瞬間がある。同時に、体の奥底が熱い渇望に灼けつくのだ。  目を閉じ、カーテンから手を離す。虚無に意識を漂わせた。  …忘れねばなるまい。  遠く離れた恋人との情事を思い出して焦燥に囚われるには、今はまだ時間が早すぎる。

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