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1 重き伝統(2)

 エドアルドは踵を返すと、まっすぐに書斎を出て、通路を挟んだ斜め前の階段を下りた。何か夢中になれることに打ちこまねば、落ちた気分はそう簡単に切り替わりそうにない。  城の階下への階段は、二階分を降りたところで通路が開けて、三手に分かれる。味気ない蛍光灯が並んでいる廊下を右に曲がった。  城の地上階の内装は、豪奢なシャンデリアや高級インテリアが溢れかえっているが、地下は全ての設えが簡素で、さながら研究所か病院のようだ。 書斎より五度は低い冷え冷えとした廊下を、エドアルドの靴が無機質な音をたてて響く。書斎で寝ている間に汗をかいていたのだろう、背中や首元で汗が乾くときの冷たい感覚がした。  トレーニングルームの先、廊下の一番奥に目的の場所はあった。『射撃訓練室』と彫られたプレートが取りつけてある。  防音処理が施された重いドアを開けると、強い白色の室内灯が自動で点く。これでドアの外にある標識も「使用中」と赤く点灯したはずである。  ジブリオ家の手の者達なら誰でも、自由に射撃訓練ができる部屋だった。思いたったときに空いているとは限らないので使用は予約制だが、今、空いていたのは幸運だった。  ジブリオ家はマフィアではない。しかしその莫大な資産と名門ならではの影響力を面白く思わない組織は、イタリア国内に数多く存在する。当主であるエドアルドは、幼いころから暗殺対策と自己防衛のための射撃訓練を怠らないでいた。  射撃訓練室には腰の高さほどの発射台が手前にあり、その奥に三十メートルの射程をとって、人間大の的が三台立っている。空気はぴんと張り詰め、エドアルドはここに佇むだけで、澄んだ緊張感に包まれるのだ。 (不毛な恋への苦悩を忘れるには、うってつけの場所だな)  軽く自嘲しながら発射台前の左手を進んで、奥の扉を開けた。  奥の間の壁面には巨大なガラスケースが備えつけられており、ずらりと並んだピストルが手に取られるのを待っている。下段にはライフルが十数挺、並べられていた。  お気に入りのリヴォルバー『コルトローマン』と、オートマチックの『グロック17』の二つを手に取る。  手入れされ、丁寧に磨かれたそれらは、従順さを装ってエドアルドの手中におとなしく納まった。  どちらが好きかと問われれば、不発や弾詰まりのないリヴォルバーと迷わずに答えるが、すばやく射撃できるという手軽さを考えるとオートマチック銃も捨てがたい。結局、いざというときにどちらも使いこなせねば実戦に役立たない。  発射台に戻ると耳栓をつけ、まずは射程距離を五メートルに設定した。至近距離での実戦を想定した距離だ。コンピューターで管理された的が、ぐんと近づいて止まる。  リヴォルバーを手に取り、弾を装てんする。装弾数は六発。  コルトローマンは小型ながらマグナム弾が使用できる優れたピストルだ。今、エドアルドが込めた弾も、.357マグナム弾薬。撃たれた生物を行動不能にするストッピングパワーが並外れて優れている。  六十年代に作られたコルトローマンは渋い形状をしているが、エドアルドが手にしているものは茶色のグリップが美しい拳銃だ。人を殺すための道具だが、それ以上に鑑賞的価値が高い。  右手で側板深くグリップを握ると、トリガーに人差し指を掛けた。  台尻に左手を当て、右手をしっかりと包みこんで支える。そのまま腕を伸ばし、下半身の重心を落とす。利き目に集中し、後部照準装置(リアサイト)の谷間から先端照準装置(フロントサイト)を覗き、人型の的に狙いを定めた。  ゾクゾクする瞬間だった。体の芯から灼熱が吹きあがってくるような感覚がする。  トリガーを引く。  ダブルアクション。  反動が腕から肩へと突きぬけた。  爆音と共に、的の心臓部分に穴が開く。  ダブルアクションではトリガーを最後まで引ききらねば弾は発射されない。引ききることで撃鉄が倒れ、弾が発射される。そのぶん、トリガーを引くという動作に固い決意が要求され、半端な気持ちでは撃ちそこなう。そこが面白い。  狙いを崩してからもう一発。体勢を変えて二発。片手で二発。計六発。穴は心臓付近に固まり、ほぼ一点に集中していた。満足な出来栄えだ。  続けて的を替え、三十メートル先へ。同じように六発射撃すると、さすがに弾の貫通は的の上半身の心臓付近ではあるものの、かなりのばらつきがあった。  的を十メートルに戻し、今度はグロック17を手にする。  リヴォルバーの後のオートマチックは暴発させやすい。発射する直前まで人差し指は前に伸ばしておき、トリガーには掛けない。早撃ちを想定し、体を横に向ける。弾倉(マガジン)を装填して、すぐに片手撃ちで連打した。 こちらもダブルアクションで最後まで引ききる。的の心臓部の、ほぼ一点を抜けながら弾が貫通した。 「お見事です」  はっとして振りかえった。  ロレンツォだった。  声というよりも鳴り響いた彼の拍手に驚いたのだが、それは、ロレンツォが耳栓を通してでもエドアルドに分かるようにわざと大きく手を叩いたからだ。エドアルドは耳栓を外した。  ロレンツォ・カセッラは、エドアルドの右腕にあたる当家の家令である。  家令は主人一家の財産や家計の管理のみならず、土地や建物といった資産管理から従業員の監督までを行う、使用人の中で最上級の地位である。  エドアルドに劣らぬほどの長身に、厳つい体格、ダンヒルのブリティッシュ・スーツをピシッと着こなす、ダンディを絵に描いたような男だ。  その表情はめったに感情を面に出さず、三十代後半とは思えぬ徹底した落ち着きのある佇まいを見せる。加えて、底抜けに仕事ができるわりにそれをひけらかさない思慮深さをも併せ持っていた。 「オリンピックに挑戦したらいかがですかな。しかしいま私が敵ならば、あなたは後ろから殺されていましたよ、エドアルド様」  腹に響くような重低音の声は、いつも通り穏やかだったが、内容には隠しきれない棘があった。ドアの鍵を掛けずに射撃に夢中になっていたエドアルドへの痛烈な皮肉である。 「三色旗(トリコローレ)を振って愛想を振りまく気はないな」  グロックの弾倉を外し、新しいのと取り替えようとしたところで、ロレンツォがしかつめらしく続けた。   「猛練習のところ恐縮ですが、バルトロ司祭がお越しになっています。例の礼拝堂の壁画について、話に進展があったと。至急、お伝えしたいことがあるとのことです。突然の訪問で申し訳ない、ともおっしゃっておられました。とり急ぎ、青の間でお待ち頂いています」  もう少し撃ちこみたかったが、そういう話ならしかたがない。良心の権化であるようなバルトロ司祭には、頭のあがらないエドアルドであった。 「わかった。かまわない、すぐに行こう」  ロレンツォが一礼をもって退室する。けして余分に留まりはせず、用が済めば引きさがる。それは一種、彼の美学でもあった。  二挺の銃をしまいにかかる。  どんなに忙しくても、使ったあとの銃の手入れだけは充分にして戻す。それがいざというときに役だってくれる銃への最低限の礼儀だと、幼い頃に教わった。エドアルドに射撃を教えたのはロレンツォだった。  しまいながら、深く溜め息を吐く。  エドアルドにとって礼拝堂の壁画ほどどうでも良いものはない。  なぜ領地内に教会という面倒なものがあって、その面倒を大昔ならいざ知らず、現代に至ってもジブリオ家が見続けなくてはならないのか、いっそ、自分の代で縁切りしてしまいたい代物であった。  彼にとって今の関心事は、彼の隠れ家であるマンハッタンのペントハウスに戻り、夜も昼もなくガナー・ブラウンと愛し合うことだった。  さっきもシェスタで夢を見た気がした。  整った美貌を包む美しい金髪も、細身で感じやすい体躯も、喘ぐ声すら見事な、彼の陰影を。  忘れかけていた情欲に、再度、身体が痺れるように疼く。  ひとつしたたかにかぶりを振って、エドアルドはその情動を吹き飛ばそうと試みた。けれど、ぽかりと空いたような胸の冷たい痛みは、すでに凍傷となっていてなかなか癒えない。 そのやるせなさに、再び吐息する。  抱こうと思えば、誰だって抱ける。  地位と財産、高級車にハイブランドの服、宝石や最高級ホテルでの食事。 そんなものを目前にちらつかせて誘えば、たいていの女も男も、エドアルドの前で喜んで足を開いてみせる。もっともそこまでしなくとも、エドアルドの精悍な体つきと端正な相貌だけでも、ことは簡単だった。しかし、その後に残るものは、さらに深まる孤独と虚しさだけだ。  有り余るある金も人を幸せにはできない。  それに気付いたのはそう最近のことではなく、逆に思いだせないくらい昔のことだった。

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