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1 重き伝統(3)

「これはこれは、急がせしてしまいましたかの、エドアルド様? お忙しいお身のところ、すみませぬ」  エドアルドが青の間のドアを開けると、(よわい)八十六の小さな修道院長は、待っていた丸テーブルからおぼつかない調子で半腰に立ちあがり、穏やかなまなざしを向けながらエドアルドへ向けて腰を折った。 このまなざしは、まさに天からの贈り物であるかのように、いつでも司祭の人生の大半を占めているものだ。  そんな温和な彼の表情とは裏腹に、彼の背後には、二人の修道士が無表情を浮かべて護衛のように立っている。 「どうぞ、掛けたままで、司祭」 「相変わらずお優しい方ですの、我らのご当主様は」  皺だらけの顔を綻ばせたバルトロは、これまたおぼつかない様子でゆっくりと腰かける。 「射撃の練習をなさっておられたので?」  バルトロが目をきょろりとさせる。 「なぜ、分かるんだい?」 「火薬の匂いがしなさるので」 「ああ、なるほど」  坊主なのによく気が付くと、エドアルドは内心で笑った。 バルトロがただの司祭ではないことが分かろうものだった。オステアは昔からマフィアとの関係が浅からぬ土地なのだ。バルトロも柔和な微笑の下に、そういう者たちと渡り合う鋭さを秘めている。  エドアルドが正面に腰かけると、彼は滅多に見せない大仰な笑顔を浮かべた。 「さてさて、エドアルド様。ようやっと、我らの絵描きの天使が現れて下さいましてな。それを、ご報告にあがりました次第で」 「ほう。そうだったのか。それは、よかったね」  つい、ひとごとのように返してしまった。  礼拝堂の壁画を描かせる画家が見つかったという嬉しい報せだということは解ったものの、彼と同じ熱量で慶べない。  さすがにまずかったかなとバルトロを盗み見ると、喜びで胸がいっぱいなのか、エドアルドの冷めた返事を気にする様子もない。 「いや、まっこと。ようやくです。これはまさに主のお導きのほかありませぬ。キリストの花嫁をお(よこ)しくださるとは…!」 「キリストの花嫁? 女性なのかい?」  壁画家にしては珍しいと思って尋ねた。  司祭は満足そうな笑いを含みつつ、視線をエドアルドからテーブルへと落とす。今、彼は出されたカッフェに口をつけることも忘れているようだった。 「いえ、男なのでございますが、人生をキリスト様に捧げたような者でございましてそう呼ばれておるのです。彼は————ああ、まったく、すばらしいキリスト様を描く者で! あの者の描くキリスト様は、まさに天上のものでございます、エドアルド様。わたくしも、知人の修道院で祭壇画を一度拝したのみでございますが…、なんと申しますか——キリスト様のお顔が。ああ! あんなお顔があろうとは! 彼のことを、ラファエロの再来と呼ぶ者もおりますほどに————!」  司祭は、有り余る感激に口が利けなくなったとでもいうように、言葉を切った。 「まるで彼の描いたキリスト様に恋でもしたような顔をしているよ、司祭」  エドアルドが頬杖をつきながらクスっと鼻を鳴らすと、バルトロは我に返ったようにエドアルドを見あげ、恨み口調で返した。 「また、そのような罰当たりなことを……! 年寄りをからかうものではござりませぬ。ともかく、今のイタリアにおいて、あの者以外に我らが礼拝堂の壁画を頼むべき者はおりませぬし、また、それを成しうる者もございませぬ。そう、申しあげたかったのでございます」  エドアルドは手のひらを軽く振った。 「ああ、わかっている。ほんの冗談だ。しかし、当然、そこまで一流の絵描きに依頼するならば費用もかさむのだろうね。それに、それほどの人気者なら何年先までもスケジュールが埋まっているかしれない。いったい、いつとりかかってもらえるのだろうね?」  エドアルドの皮肉に気付いたか否か、司祭は真顔で答える。 「先程も申しあげたとおり、彼は信仰者としても一流の者でございます。彼は、自分の絵の才能を神からの賜物と考えておりますゆえ、絵の報酬は受けとりませぬ。制作に必要な実費と、仕事をしている期間の寝床と食事……しか、要求しませぬ。むろん、すぐにでも作業にとりかかれるというので、今日、あなた様にお知らせにあがった次第で。実は、数年前にも打診しておったのですが、先約がありましての。この夏にその仕事が終わったという知らせがございました」 「へえ。報酬はいらないねぇ」  エドアルドはうろんげに宙へと視線を投げかけた。  報酬が寝床と食事だけとは、なんだか胡散臭い。話が巧すぎる。 まるで日雇い労働者か娼婦のようではないか。もしくは洗礼者ヨハネみたいに、獣の毛衣を羽織った変人か。

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