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第38話 フェロモンが判らない
「本当に……? 本当に……渚……?」
俺の肩に顔を埋めたまま、少しくぐもった声で何度も確かめる様に言う大和。
「うん、俺。匂い、判らない?」
俺は妊娠しているけれど、発情期が一時的に止まるだけでフェロモンが止まる訳じゃない。だから、俺達はαとΩだし、何より『運命』なんだからお互いの匂いは感じる筈だ。けれど、大和は変わらず俺の肩に伏せたまま、首を横に振った。
「……匂い……判らない……」
「……え? 」
そして俺も気付く。
大和のフェロモンの匂いが感じられない事に。
いや、多分俺が感じないんじゃなくて、大和からフェロモンが出ていないんだ。
それを言おうとしたら、大和が顔を上げた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。
「……渚、もう「番になって」なんて言わないから……結婚したいなんて言わないから……望まないから……友人としてでもいいから……傍にいて……。何処にも行かないで……」
「大和……」
なりふり構わない大和の姿だった。そこにはカッコよさも凛々しさも無い。αのプライドや威厳なんてもっと無い。
そこにいたのは、恥も外聞も捨てて俺に縋る、一人の『男』だった。俺の『愛しい男』だった。
可愛い可愛い、愛しい人——。
俺は大和の顎に両手を添えると、震える濡れた唇に、触れるだけのキスをした。
涙と鼻水で濡れた大和の唇は、少ししょっぱかった。
俺は大和の顎に手を添えたまま、おでこ、瞼、左右の頬に一つずつキスを落とし、最後にもう一度唇を奪ってから、大和と視線を合わせた。
「うん。もう何処にも行かない。ごめんね、独りにして。大好きだよ」
俺はもう一度、大和を抱き締めた。
「うん……」
可愛い。甘えてくる大和が可愛くて堪らない。
自分より大きい男に『可愛い』と思うなんて、俺も大概、惚れた弱みだと思う。
抱き締めた大和の背中を幼子をあやす様にトントンと軽く叩いていると、不意に大和の体が重くなった。
もしかして…と思い、少し体を放して顔を覗き込めば、うつらうつらと今にも瞼がくっつきそうだ。
「大和、眠いの? 横になろうか」
「……だいじょう……ぶ……」
とても大丈夫そうには見えない。
力の入らない大和の体を、そっとベッドに横たえる。俺でも簡単に動かせるくらい軽かった。
横になって俺を見る大和の目は、閉じかけては開き……を繰り返している。眠るまいとしている様だ。
「我慢しないで寝ていいよ」
「……寝ない。渚がいなくなる」
どうやら、寝ている間にまた俺がいなくなると思っているらしい。六年前、俺が突然姿を消した事がトラウマになっている……。少しでも目を離したら俺がまた消えるんじゃないか、と。
「いなくならないから、安心して寝よう?」
「本当に……いなくならない……?」
「ん、約束。一番に『おはよう』って言うよ」
俺は左手で布団の下の大和の左手を握り、右手で大和の頭を何度も撫でる。やがて大和の瞼が完全に閉じ、静かな寝息を立て始めた。
俺は少しの間、大和の寝顔を見つめてから、左手は大和の手を握ったまま右手でスマホを操作して、唯一連絡先を交換していた門脇さんに、部屋に入って良いと伝えた。部屋の前の廊下で待機してくれていると判っていたから呼びに行けば早いのだろうけれど、手を放す事で折角寝た大和を起こしたくはなかった。
「大和は寝たのか」
眠る大和を見て、お兄様が安堵の息を吐く。
「大和、寝てないんですか?」
「いや、寝るには寝てる。が、安眠は出来ていない様でな。体力が落ちているからか、日中も眠そうにうつらうつらはよくしているし、いつの間にか寝ている事もあるが、熟睡は出来ていないだろう。深く眠る事に怯える様に。夜の見回りの看護師もそう言っていた。こんなに穏やかな寝顔の大和を見たのは、いつぶりだろうか」
「……本当に」
お兄様の言葉に、門脇さんも涙ぐみながら同意する。
ああ、本当にこの人達は大和が可愛いんだな。そりゃあ、大和を傷付けた俺に牙を剥く訳だ。
「そうですか……」
俺は眠る大和の頬を撫でた。この短時間で熟睡モードに入ったのか、身動ぎ一つしない。
「あ……あの……」
俺は大和を起こさない様に、小声でお兄様に切り出した。
「大和、俺の匂いが判らないって言いました。俺は妊娠してますから発情期は来ないですけど、それでもΩですから微量のフェロモンは出ている筈です。抑制剤も飲んでいませんし。けど、大和は『判らない』って言いました。それだけじゃないんです。俺、大和からのフェロモンも感じません。多分、大和からフェロモンが出ていない。お兄様と門脇さんはαですよね? お二人からは微かにフェロモンが感じられるから、俺の鼻が悪い訳ではないと思います。大和は抑制剤を飲んでいますか?」
「いや、入院してからは飲ませてない」
「「「「…………」」」」
暫し、室内に沈黙が落ち……。
「αの専門医を呼んでいます」
丹羽先生はそう言って退出し、五分程で一人の男性医師を連れて戻って来た。彼はαの様だ。
彼も丹羽先生と同じバース専門医だという。ただ、バース専門科はα科とΩ科があり、α科はα性の、Ω科はΩ性の、その性に特化したカウンセリングや診察、治療を行う科で、大きな病院にはたいていある。
丹羽先生が連れて来た先生はα科の先生だ。
挨拶が終わった後、俺が簡潔に状況を説明すると、先生は考える様な仕草をした後、
「詳しく検査しないと断言は出来ませんが、恐らく、極度の衰弱により一時的にフェロモンを発する器官が眠った状態になっているのだと思われます。例えば…ですが、栄養不良、発育不良で、一般的に訪れる筈の時期に、精通しない、初潮が来ない、発情期が来ない少年少女、Ωの子供がいます。一度始まったそれらが、後の生活環境によって止まる事もあります。原因は体の衰弱、精神的要因など、様々ですが。バース科には、そういう問題を抱える患者が毎年一定数、来院します」
そう判断した。断言は出来ないというけれど、俺はそれが正しい診断の様な気がした。
「それは治るのだろうか?」
お兄様が先生に訊く。
「栄養不良、体力低下が原因なら、栄養をしっかり摂り、体力が回復すれば、徐々にフェロモンも発する様になるでしょう。ただ、心因性の場合は、少し時間が必要かも知れません」
心因性……。
心因性だとしたら、原因は……。
「どうしても気になる様でしたら詳しく検査しますので、バース科を受診して下さい」
「分かりました。わざわざご足労下さり、ありがとうございました」
お兄様がわざわざ来てくれた先生に挨拶している声で我に返った俺は、今にも退室しようとしていた先生の背中に、頭を下げた。
ドアの閉まる音に反応したかの様に、大和がゆっくりと目を覚ました。
そして、ずっと繋いでいた俺の手をぎゅっと握るから、俺もそっと握り返した。
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