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第1章 男子校の姫と、地味男の雑部

四月の白鷺坂高校は、朝から少し浮いていた。 新しいクラス、新しい席、新しい係。廊下には笑い声と上履きの音が混ざり、二年三組の窓からは、白鷺坂駅前の桜並木がまだ少しだけ見えている。 花宮依央(はなみや・いお )は、窓際の席に鞄を置いた。 「花宮!」 朝一番に声を張ったのは、黒瀬陸斗(くろせ・りくと) だった。スポーツ万能、声が大きい、まっすぐすぎて廊下まで熱が漏れる男。黒瀬は机の間を抜けてきて、依央の前に立った。 「係決め、花宮も前出るよな?」 「なんで俺が前提なの」 「花宮が言うと、みんな聞くから」 「黒瀬が言った方が声は届くよ」 依央は少しだけ目元をやわらかくして笑った。 朝の光に合わせて、声は軽め。相手を乗せるけれど、やりすぎない。名づけるなら、朝焼けスマイル。 黒瀬は一瞬固まり、それから分かりやすく顔を赤くした。 「お、おう。じゃあ俺、声出す」 「頼りにしてる」 「任せろ!」 (はい、黒瀬は今日も素直。ちょろ……いや、いい子。朝から治安いい。俺の姫営業、ガチで調子いい) 黒瀬が自席へ戻ると、今度は篠宮怜央(しのみや・れお) がプリントの束を持ってきた。成績トップの優等生で、手元がいつもきれいな男だ。 「花宮、これ、後ろに貼る委員会一覧。確認してもらえる?」 「もちろん。篠宮、もうまとめたの? 早いね」 「昨日のうちに少しだけ」 「そういうところ、ほんと助かる。篠宮がいると教室が整う」 篠宮は眼鏡の位置を直し、わずかに目をそらした。 「……大げさ」 「本気で言ってるよ」 篠宮の耳が少し赤くなる。依央はにこりと笑って、プリントを受け取った。 (はい、刺さった。優等生には努力を褒める。俺、分かってる。姫、うま。今日の俺、かなりいい) 廊下側では、鷹宮蓮(たかみや・れん) が落ちた消しゴムを拾っていた。何をしても所作がきれいで、消しゴムまでやたら上品に見える。 「花宮、これ、君の?」 「ありがとう。たぶん俺の」 「落とし物まで似合うね」 「褒める場所、そこ?」 鷹宮がさらっと笑うと、近くの男子が小さくざわついた。 王子と姫が並んでる、という声が聞こえる。依央は聞こえなかったふりで、消しゴムを受け取った。 「鷹宮が拾うと、消しゴムも高級品に見えるね」 「君に返るなら、役目としては十分だ」 「朝から台詞が強い」 (鷹宮、今日も天然で花束投げてくる。つよ。だけど俺も姫なので受け取れます。はい、完璧。世界、俺にやさしすぎ) その時、教室後ろの掲示板で、委員会一覧の端がふわりと浮いた。 依央が動くより早く、窓際後方の席から一人の男子が立つ。 久我燈真(くが・とうま) 髪は少しだけ寝ぐせが残り、制服の着方も力が抜けている。声も低く、教室の中心に立つことはない。景色の端にいるような、地味な男子。 燈真は無言で掲示板へ行き、浮いた紙を押さえた。机の上にあった予備の画鋲を取り、角度を直して留める。動きに無駄がない。 ただ、それだけ。 それだけなのに、依央は見てしまった。 (え、何。今のちょっと早くない? いや画鋲だぞ。画鋲で「おっ」てなるの、だいぶやばい。俺、落ち着け) 燈真が席へ戻ろうとして、依央の視線に気づいた。 目が合う。 依央はすぐに外向きの笑顔を作った。さっきより少しだけ甘く、けれど近づきすぎない。相手に「自分だけに向けられた」と思わせる、軽めのお願いスマイル。 「久我くん、ありがとう。掲示、助かった」 燈真は依央を見た。 一秒。 二秒。 「それ、いつもの?」 「……え?」 「その顔」 燈真はそれだけ言って、自分の席へ戻った。 依央は笑顔の形のまま固まった。 キュン♡ (終わった。いつものって言われた。俺の姫営業、コンビニの定番商品みたいに扱われた。は? 雑。久我くん、雑。なのに何で刺さるんだよ) 黒瀬が首をかしげる。 「花宮? いつものって何?」 「何でもないよ。普通にお礼を言っただけ」 「そうなのか?」 「うん。黒瀬は気にしなくて大丈夫」 「分かった!」 (分かるな。助かるけど分かるな。今の俺、だいぶ顔が危ない) 依央はもう一度、燈真を見た。燈真は机に頬杖をつき、窓の外を見ている。さっきの会話など、もう終わったみたいな顔だ。 効かなかった。 朝焼けスマイルも、優等生向けの褒めも、王子への返しも、ちゃんと周りには通じている。なのに燈真だけは、雑に見て、雑に流した。 (久我燈真、何。地味男なのに、こっちの顔だけ雑に回収してくるの何。腹立つ。ちょっと面白いのも腹立つ) **** 昼休み、依央は校内交流委員会の部屋へ向かった。 白鷺坂高校で「花の生徒会」と呼ばれている場所だ。正式な生徒会とは少し違う。掲示、行事補助、交流イベントの手伝い。そういう細かい仕事をする委員会なのに、人気者や場を明るくする生徒が集まりやすい。 依央にとっては、表の居場所だった。 委員会室に入ると、三年の白石千紘(しらいし・ちひろ) が紙束を整理していた。清楚で、静かで、声までやわらかい。上級生の姫という言葉があるなら、たぶんこの人用だ。 「花宮くん、来てくれてありがとう」 「白石先輩。何か手伝いますか?」 「この掲示物、旧校舎の同好会棟まで届けてもらえる? 校内生活改善同好会。通称、雑部って呼ばれてるところ」 「雑部?」 名前の力の抜け方に、依央は少しだけ瞬きをした。 「うん。地味だけど、校内の細かいところを見てくれてるんだ。久我くんがいるよ」 「久我くん?」 さっきの声が、頭の中で勝手に戻ってきた。 それ、いつもの? (出た。俺の顔を定番扱いした男。旧校舎の雑部にいるの、似合いすぎ。地味男、旧校舎、雑部。セット売りかよ。強いな) 千紘は依央の顔を見て、少しだけ笑った。 「同じクラス?」 「はい。さっき、掲示板を直してくれて」 「久我くんらしいね」 「らしい、ですか」 「目立たないけど、よく見てる子だよ」 依央の中で、小さな引っかかりが残った。 目立たないけど、よく見てる。 (よく見てる、か。たしかに見てた。雑に。俺の顔、雑に見られて雑に処理された。無理。あれで無関心っぽいの、逆にずるい) **** 放課後、依央は廊下で晴臣を捕まえた。 榎本晴臣(えのもと・はるおみ) は依央の幼馴染で、別クラスのくせに、休み時間や放課後になるとよく二年三組の前に来る。今日は購買のメロンパンをくわえたまま、スマホを見ていた。 「晴臣」 「何、その顔。誰か落としに行く顔?」 「雑部に行く」 「急に地味」 「久我くんがいる」 「急に分かった」 依央は晴臣の腕をつかんだ。 「来て」 「なんで俺まで」 「一人で旧校舎行ったら、俺が久我くんを気にしてるみたいになる」 「気にしてるじゃん」 「黙れ。幼馴染なら空気読め」 「はいはい。姫の遠征ね」 「遠征って言うな。視察」 「言い換えたら急に偉そう」 **** 旧校舎は、本校舎より空気が古かった。窓の木枠は色が薄くなり、廊下の端には使われていない傘立てが並んでいる。放課後の光が床に長く伸び、足音が少し響いた。 校内生活改善同好会、と手書きの紙が貼られた部屋の前で、依央は一度だけ深呼吸した。 (よし。勝った。まだ何もしてないけど勝った。これは視察。ガチ視察。久我くんを見に来たとかじゃない。……いや、ちょっと見に来た。ちょっとだけ。セーフ。たぶん) 依央は扉を開けた。 「失礼します。校内交流委員会から掲示物を届けに来ました」 部室の中は、想像以上に地味だった。 古い机。少し傾いた棚。丸まった掲示紙。窓際の工具箱。黒板には、傘立て、掲示板、窓鍵、と白い字で書かれている。 その真ん中で、久我燈真が一人、椅子に座っていた。 「来たんだ」 「来ました。白石先輩に頼まれたので」 「そこ置いて」 「はい」 依央は紙束を机に置いた。晴臣が後ろから部室をのぞき込み、素直に感想を言う。 「うわ、思ったより雑部」 「晴臣、失礼」 「いや、名前に合ってる」 燈真は怒るでもなく、黒板横のクリップを取った。 「人、足りてないから」 「え?」 「貼るの、手伝って」 あまりに自然に言われて、依央は一瞬返事が遅れた。 「俺が?」 「うん」 「俺は届けに来ただけですけど」 「届いたから、次」 晴臣が隣で吹き出した。 「姫、初仕事じゃん」 「笑うな」 「雑部デビューおめでとう」 「祝うな。まだ入ってない」 燈真は掲示物を一枚、依央へ渡した。 「花宮、字きれいそう」 「……まあ、汚くはないですけど」 「じゃあ位置見る係」 短い。雑。なのに、妙に自然に役が渡される。 依央は紙を受け取ってしまった。 (待って。なんで俺、働いてる? 届けて終わりじゃないの? しかも字きれいそうって何。雑なのにちょっと嬉しいの何。だる。久我くん、褒め方が省エネすぎ) 晴臣が窓際で笑っている。 「依央、顔」 「晴臣、黙れ」 「落とす顔して、仕事もらってる」 「今のは潜入。作戦の一部」 「作戦、初手から働かされてるけど」 「うるさい」 燈真は依央の手元を見て、少しだけ首を傾げた。 「そこ、曲がってる」 「分かってます」 「右、少し」 「はい」 「上手い」 「……え?」 「貼るの」 キュン♡ 依央の指先が、掲示紙の端で止まった。 燈真が見る。 「花宮?」 依央は慌てて紙を押さえ直した。 「紙が急にまっすぐになって、少し驚いただけです」 晴臣が口元を押さえた。 「紙に驚く姫、初めて見た」 「晴臣」 「はいはい」 燈真は、特に気にした様子もなく次の紙を取った。 その温度差が、逆に刺さる。 (貼るの。限定。俺じゃない。掲示紙。分かってる。分かってるけど、その短さで褒めるな。心臓がバグる。無関心っぽいのに、刺し方だけ雑にうまいのやめろ) 部室の窓から、夕方の光が差し込んでいた。古い机も、傾いた棚も、丸まった紙も、何もかも地味だ。男子校の姫がいる場所としては、かなり違う。 それなのに、依央は帰るタイミングを失っていた。 晴臣はいつの間にか傘立ての札を直している。燈真は短い言葉で次の作業を渡してくる。依央は文句を飲み込みながら、掲示物の位置を見て、紙を押さえて、たまに燈真の手元を見てしまう。 (何これ。地味。ガチで地味。なのに変に落ち着くの何。やば。俺、雑部になじむな。姫だぞ。花だぞ。今、掲示紙押さえてる場合か? 押さえてるけど) 最後の一枚を貼り終えると、燈真が黒板の端に短く線を引いた。 「終わり」 「これで全部ですか?」 「うん。助かった」 その一言は、静かに落ちてきた。 依央は反射で笑顔を作りかけて、途中で止まった。外向きの姫顔を出すより先に、胸の奥が妙に跳ねる。 キュン♡ (また来た。助かった、だけ。たった四文字。なのに刺さる。何それ。コスパよすぎ。腹立つ) 「どういたしまして」 声は、思ったより普通に出た。 燈真は依央を見て、また少しだけ笑った。 「花宮っぽい」 「何がですか」 「言いながら、ちゃんとやるとこ」 依央は返す言葉を一瞬探した。 見つからなかった。 「……必要なことだったので」 「うん」 「それだけです」 「そう」 晴臣が横から楽しそうに笑う。 「依央、今すごいきれいな顔で負けた」 「晴臣、あとで覚えてろ」 「さっきから覚えること多いな」 「全部覚えろ」 燈真は入部届らしき紙を机の引き出しから出した。準備がよすぎる。 「入る?」 「何にですか」 「雑部」 依央は固まった。 晴臣が身を乗り出す。 「入れよ、依央。久我の本拠地だぞ」 「晴臣、声」 「俺も入るわ。面白そうだし」 「お前、軽いな」 「幼馴染の自爆、近くで見たい」 「最低」 燈真は入部届を机の上に置いた。 「二人入れば、部として安定する」 「久我くん、もしかして最初からそれ狙ってました?」 「少し」 「少しって言うんですね」 依央は紙を見た。 校内生活改善同好会。 通称、雑部。 名前は地味で、部室も地味で、活動も地味。けれど、久我燈真が一人で守っていた場所。 そこに、自分と晴臣が入る。 (いやいやいや。これは作戦。ガチ作戦。久我くんを知るには近くにいるのが早い。俺は落とす側。……のはず。待って、初日からかなり怪しい。だいぶ押されてない?) 依央はペンを取った。 「分かりました。入ります」 晴臣がすかさず言う。 「声だけ上品。顔は負けてる」 「晴臣、ほんと黙れ」 「はいはい」 燈真が小さく笑った。 「似合うよ」 キュン♡♡ 依央はペン先を紙に押しつけたまま、数秒動けなかった。名前の一画目が、やけに濃くなる。 「……部の雰囲気に合うよう努力します」 晴臣が肩を震わせた。 「ペン圧で動揺出てる」 「出てない」 「紙、へこんでる」 「紙の質」 「紙のせいにした」 燈真は入部届を見て、依央の名前の欄を指で軽く押さえた。 「花宮依央」 「読まなくて大丈夫です」 「よろしく」 短い言葉だった。 たったそれだけなのに、依央の胸の奥で、さっきから騒がしい何かがまた跳ねる。 依央は外向きの笑顔を作ろうとして、少しだけ失敗した。 「……こちらこそ。久我くん」 夕方の旧校舎で、男子校の姫は、地味男の部室に名前を書いた。 (勝負開始。俺が落とす。絶対落とす。たぶん。いや、もう怪しい。初日から紙へこませてる。何してんの俺。やば。地味男、思ったよりえぐい) 窓の外で、部活帰りの声が遠く響いた。 雑部の黒板には、傘立て、掲示板、窓鍵、の文字。 その下に、燈真が白いチョークで小さく書き足した。 新入部員 二名。 依央はそれを見て、なぜか少しだけ笑ってしまった。

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