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第7話 赤組の姫と、地味男の本気一秒前
答案返却のざわつきがようやく落ち着いた頃、二年三組の後ろの黒板には、赤い紙が一気に増えた。
体育祭の種目表。集合時間。応援位置。係分担。
その全部の前で、黒瀬陸斗が立っていた。赤組の腕章をつけ、すでに本番三秒前みたいな顔をしている。
「花宮!」
「声でか」
「赤組の準備、いくぞ!」
「黒瀬、朝のホームルーム前だよ」
「朝からやるから勝つんだろ!」
「熱量がもう校庭」
黒瀬は黒板に貼られた種目表を叩きかけ、篠宮怜央に止められた。
「黒瀬、紙が破れる」
「おっと」
「勢いで資料を倒すと、準備が戻る」
「篠宮、今日も冷静!」
「冷静じゃないと回らないから」
依央はその二人を見て、軽く笑った。
教室中の視線が自然と依央へ向く。黒瀬の熱を受け止め、篠宮の冷静さを拾い、場を明るくする役。中間テスト前の勉強会とは違うけれど、ここでも依央が立つ場所はある。
「じゃあ、黒瀬の熱は使うとして、まずは種目の確認からね」
「おう!」
「声量はあとで少し落とそう」
「落とすのか!?」
「今のままだと、赤組じゃなくて鼓膜が勝つ」
教室が笑った。
鷹宮蓮が窓際で腕章を手に取り、依央へ差し出した。
「花宮、これ、君がつけると赤組っぽくなりそう」
「鷹宮、物を渡すだけで台詞が強い」
「似合うと思っただけだよ」
「ありがとう。赤組の見栄え担当として受け取ります」
依央は腕章をつけ、少しだけ笑った。
(はい、体育祭モード突入。黒瀬は燃えてる。篠宮は段取り神。鷹宮は王子。俺は赤組の姫。ここまでは分かる。問題は、あっち)
教室の後ろで、久我燈真が種目表を見ていた。
目立たない。熱くもない。けれど、依央はもうその無風の顔をそのまま受け取れない。
答案返却の日。普通の点数。普通の顔。なのに、黒瀬の間違いを一瞬で見抜いた説明。篠宮が少し引っかかった補助線。
あれからずっと、燈真の「普通」が信用できない。
(点数は普通。顔も普通。なのに中身が普通じゃない。地味男、だいぶ怪しい。勉強があれなら、運動は? いや、気になるのは攻略のため。久我燈真、本気確認作戦。脳内で発動。実物は作らない。俺は賢い)
燈真が顔を上げた。
「花宮」
「はい」
「顔、作戦中」
「……何の話ですか」
「考えすぎてる顔」
依央は腕章の端を押さえた。
「体育祭の段取りを考えていただけです」
「そう」
「そうです」
「ふうん」
(バレるの早。作戦開始一秒で顔に出た。無理。久我くん、答案だけじゃなく顔も見るな。いや、見るなっていうか、雑に拾うな)
黒瀬が種目表をのぞき込み、声を上げた。
「久我、障害物競走じゃん!」
「うん」
「走れるのか?」
「普通」
黒瀬は真顔になった。
「お前の普通、最近なんか信用できねえ」
依央は思わず黒瀬を見た。
(黒瀬、たまに鋭い。いや、本人はたぶん何も考えてないけど。分かる。すごく分かる。久我くんの普通、まじで信用できない)
燈真は特に反応しない。
「必要なら動く」
「必要ならって何だよ! 本番は全部必要だろ!」
「黒瀬は全部本気すぎ」
「それが体育祭だろ!」
依央は笑いながらも、燈真の横顔を見ていた。
必要なら動く。
その短さが、変に残る。
(必要なら、って何。必要じゃない時は出さないってこと? じゃあ必要になったら何が出るんだよ。見たい。……待って、早い。見たいって思うの早い)
****
昼休み、赤組の準備は空き教室へ移った。
応援用の団扇、赤い布、旗の確認表。黒瀬は声を出し、篠宮は集合時間を確認し、鷹宮は自然に一年生の列を整えている。
依央は中央で団扇の見本を持った。
「こっちは赤い面を前にして、振る時は少しだけ角度をそろえよっか。ばらばらだと、黒瀬の声だけが目立つから」
「何で俺!?」
「黒瀬の声は何もしなくても目立つ」
「強みだ!」
「うん、使いどころを選ぼうね」
一年生たちが笑いながらうなずく。依央が笑えば、緊張がほどける。手を上げれば、視線が集まる。
体育祭準備でも、見られるのは得意だ。
(赤組の応援、空気は取れてる。俺、ちゃんと姫。中間テストは救済姫、今日は赤組の姫。職種が多い。忙し……いや、言い方。まあでも、悪くない)
その一方で、燈真は空き教室の後ろにいた。
赤い布の端を短くまとめ、ほどけそうな紐を結び直している。誰に言われたわけでもない。盛り上がっている輪からは少し離れて、必要なところだけ触っている。
依央は団扇を持ったまま、そちらを見てしまった。
燈真は布の端を押さえ、ほどけないか軽く引く。
短い動作。無駄がない。
(またやってる。こういうの。目立つところには来ないくせに、崩れそうなところを先に直す。答案の時もそう。最後だけずれたって見抜いた。何だよ。見える場所が違うの、ずるい)
その時、燈真が顔を上げた。
目が合う。
依央は反射で背筋を伸ばした。
団扇を持つ指の角度を整えて、腕章の位置まで少しだけ直す。見られるのは慣れている。教室でも廊下でも、黒瀬にも鷹宮にも下級生にも、いくらでも見られてきた。
でも、燈真が見ている時だけ、ちゃんとしたいと思う場所が少し違う。
笑顔の角度ではなく、声の高さでもなく、もっと奥の、変なところ。
(待て。今、何で姿勢直した? 赤組の中央だから。見本だから。そう。そうだけど、久我くんに見られた瞬間だった。やば。見られるの得意なはずなのに、そこだけ変になる)
「花宮先輩?」
一年生が声をかける。
依央はすぐ笑顔を戻した。
「ごめん。団扇の角度、こっちの方がきれいかなって」
「はい!」
(危な。見てた。普通に見てた。俺、観察作戦のつもりだったけど、もうただ見てない? やば)
****
準備が一段落したあと、依央は赤い布の箱を持って、雑部の部室へ向かった。
廊下で晴臣と合流する。
「依央、赤組の姫やってきた顔」
「晴臣、出会って一秒でいじるな」
「だって腕章つけっぱなし」
「え」
依央は手首を見た。
赤い腕章がまだついていた。
(うわ。外し忘れた。赤組に染まりすぎ。いや、違う。準備の流れ。普通に。たぶん)
晴臣がにやにやする。
「本番前から仕上がってるな」
「うるさい」
「で、久我の本気確認作戦は?」
依央は足を止めた。
「何でその名前を知ってる」
「名前つけてそうな顔してた」
「幼馴染、こわ」
「実物は?」
「ない」
「よし」
「お前に言われる筋合いない」
晴臣は笑いながら、雑部の扉を開けた。
部室では燈真が工具箱を棚へ戻していた。机の上には、体育祭で使う予備の紐と、赤組の確認表が置かれている。
「来た」
「来ました」
「腕章」
「今外します」
「似合ってるのに」
依央は腕章を外す手を止めた。
「……赤組のものなので」
「うん」
「俺個人への評価ではないですよね」
「何回それ聞くんだ」
「久我くんが何回も変な言い方をするので」
燈真は少しだけ笑った。
(うわ、また笑った。似合ってるのに、じゃない。軽い。軽すぎる。こっちは赤い布一枚で心臓が走ってる。体育祭前から体力減らすな)
晴臣が部室の机に座りかけ、依央に止められた。
「座るな」
「雑部なのに?」
「雑部でも机は机」
「姫、細かい」
「今日の俺は赤組の品位も背負ってる」
「重いな」
燈真は確認表を見て、短く言った。
「障害物、明日確認ある」
「久我くんの?」
「全員」
「走るんですか?」
「少し」
依央は反射で聞いた。
「本気で?」
燈真は顔を上げる。
「見たいの?」
どきっ♡
依央は言葉に詰まった。
晴臣が横で、完全に面白がる顔をした。
依央はどうにか表の声を保つ。
「赤組の戦力確認として」
「戦力」
「はい。赤組の中央担当として、全体把握は大事なので」
「ふうん」
「その顔、絶対信じてないですよね」
「少し」
(また少し。強い。めちゃくちゃ強い。見たいの? じゃないんだよ。見たいけど。いや、言うな俺。赤組の戦力確認。ガチ確認。今はそれで通す)
燈真は確認表を畳んだ。
「必要なら動く」
「またそれ」
「何」
「久我くんの必要なら、範囲が分かりません」
「必要な分だけ」
「その必要な分が見たいんです」
言ってから、依央は自分で固まった。
部室の空気が、一瞬だけ止まる。
晴臣がゆっくりと依央を見た。
燈真も、依央を見ている。
(終わった。口に出た。見たいって言った。赤組の戦力確認とかじゃなく、普通に見たいって言った。やば。今の取り消……いや、取り消すのも変。どうする俺。詰んだ)
燈真は少しだけ目を細めた。
「花宮がそこまで見るなら」
「……はい」
「少しは動く」
依央は腕章を握りしめた。
「あ、赤組のために、ですね」
「うん」
「そうですよね」
「それもある」
「それも」
「うん」
それも。
たった三文字が、思ったより長く残った。
赤組のためだけじゃないみたいに聞こえる。けれど燈真は、それ以上何も言わない。依央も聞けない。
(それもって何。赤組以外にも何かあるみたいに言うな。久我くん、言葉を置く場所がえぐい。無理。これ、心臓が体育祭前に予選落ちする)
晴臣が、そこでやっと笑った。
「依央、観察する前から敗北してる」
「晴臣」
「はい」
「廊下に出ろ」
「部室なのに?」
「窓からでもいい」
「物騒」
燈真は工具箱のふたを閉めながら、何でもない顔で言う。
「花宮、応援するんだろ」
「します」
「なら、見える場所にいれば」
「……中央なので、見えると思います」
「じゃあ見とく」
「……何をですか」
「花宮」
依央は声を失った。
燈真はすぐ、付け足す。
「応援、合図になるから」
「……あ、そっち」
「何だと思った?」
「何でもありません」
花宮、と先に呼ばれたせいで、一瞬だけ全部止まった。
けれど今のは、応援の話だ。合図の話だ。分かっている。分かっているのに、喉の奥が少し詰まったまま戻らない。
(またそれ。何だと思ったって聞くな。俺が勝手に事故るやつ。応援。合図。分かってる。分かってるのに、花宮って先に言うな。順番が悪い。久我くん、順番が最悪。最高に最悪)
晴臣は机に突っ伏して肩を震わせていた。
「晴臣」
「ごめん、無理」
「笑うな」
「今のは無理」
「俺も無理だよ!」
叫んでから、依央はすぐに口を押さえた。
燈真がこちらを見て、少しだけ笑う。
「無理なんだ」
「今のは晴臣に対してです」
「うん」
「本当に」
「うん」
(信じてない。絶対信じてない。しかも楽しんでる。久我くん、最近ちょっと笑うの増えてない? 俺のせい? いや、何でそこで俺が出る。落ち着け)
****
放課後の校庭では、障害物競走の器具確認が始まっていた。
跳び箱、網、平均台、低いハードル。係の生徒が並び、体育委員が説明する。黒瀬は横で、なぜか自分の種目でもないのに燃えている。
「久我! いけるか!」
「確認だけだろ」
「確認から本気だ!」
「黒瀬はそうだな」
「おう!」
「褒めてないと思うよ」
依央が言うと、黒瀬は笑った。
燈真はスタート位置に立った。肩の力は抜けている。やる気が見えない。けれど、目は器具の並びを見ていた。
依央は応援団扇を持ったまま、少し離れた場所に立つ。
(これは確認。まだ本番じゃない。なのに、見る。めちゃくちゃ見る。久我くんの必要な分だけってやつ、ちょっとでも見えるかもしれない。やば。俺、完全に観客の顔してる)
合図が出た。
燈真は軽く走った。
本当に軽い。速さを見せつけるような走りではない。けれど、足の置き方が静かで、障害物の前で止まらない。網をくぐる時も、平均台を渡る時も、体が無駄に揺れない。
周囲の男子が「おっ」と声を漏らす前に、もう終わっていた。
派手ではない。
でも早い。
依央は団扇を握ったまま、動けなかった。
(え、今の何。軽くやっただけだよな? なのに早い。速いっていうか、無駄がない。答案の時と同じだ。必要なところだけ見て、必要な分だけ動く。何それ。かっこいいじゃん。……かっこいいじゃん? 待って、俺)
燈真は息も乱さず、係の説明を聞いている。
黒瀬が叫んだ。
「久我、やっぱいけるじゃん!」
「確認」
「本番、もっといけるだろ!」
「必要なら」
依央はその言葉に、胸の奥がまた跳ねるのを感じた。
燈真がこちらを見る。
距離はある。けれど、目が合った。
「花宮」
「はい」
「見えた?」
依央は団扇の柄を握り直した。
「……赤組の戦力として、確認しました」
「そっか」
「はい」
「じゃあ、本番も見てれば」
軽い言い方なのに、その奥に、依央が見ていることを受け取った温度が少しだけあった。
依央は、ほんの一瞬だけ返事に詰まった。
「……見ます」
燈真は少しだけ笑った。
「ならいい」
晴臣が後ろで小さく息を吐いた。
「依央、今のは言い訳しないんだ」
「晴臣」
「何」
「聞こえてる」
「聞こえるように言った」
「最低」
でも、依央は否定しなかった。
校庭の端で、赤い旗が風に揺れている。黒瀬はまだ騒いでいて、篠宮は集合時間を確認し、鷹宮は一年生の立ち位置を整えている。
体育祭の熱が、少しずつ近づいている。
その中で依央は、燈真がさっき走った場所を見ていた。
(見たい。普通に見たい。本番で、もっと。赤組のため。うん、それもある。でも、たぶん、それだけじゃない。やば。言い訳、だんだん弱い)
****
帰り道、晴臣が隣を歩いた。
「依央、明日忙しいな」
「何が」
「赤組の姫やって、久我の本気見て、自分の顔も保つ」
「最後いらない」
「一番大事だろ」
「晴臣、明日は静かにして」
「無理」
「即答するな」
晴臣は笑ったあと、少しだけ声を落とした。
「でも、楽しみなんだろ」
依央は返事をしなかった。
廊下の向こうで、燈真が倉庫の鍵を返しに歩いている。工具箱も答案も持っていない。ただの、力の抜けた地味な背中。
なのに、見つけてしまう。
(楽しみ。……なの、かも。最悪。認めたくないけど、明日、ちゃんと見たい)
燈真がふと振り返った。
目が合う。
依央は反射で姫の笑顔を作りかけて、少しだけやめた。ただ、小さく手を上げる。
燈真も軽く手を上げた。
それだけだった。
それだけなのに、明日の校庭の色が、さっきより少し濃くなった気がした。
依央は赤い腕章を鞄にしまいながら、心の中でそっとつぶやいた。
(久我燈真、本気確認作戦。続行。……いや、ただ見たいだけ説、濃くなってきた。やば)
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