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第6話 答案返却と、隠れた手際

中間テストの答案返却日は、教室の空気が分かりやすく二つに割れる。 点数を見て静かに息を吐く側と、紙を裏返したまま机に伏せる側。 二年三組で後者の代表を務めていたのは、黒瀬陸斗だった。 「花宮」 「何」 「俺、答案と目が合わない」 「紙だから目はないよ」 「でも見てくる」 「黒瀬の心が負けてる」 「点数にも負けてる」 黒瀬は机に突っ伏した。答案用紙は裏返しのまま、机の端に追いやられている。 依央は自分の答案を机にそろえながら、軽く笑った。 「見せて」 「怒らない?」 「怒らない」 「ほんとに?」 「黒瀬がちゃんと見直すなら」 黒瀬はおそるおそる答案を差し出した。 依央は点数より先に、解答欄を見た。空欄は少ない。途中式もある。最後の数字だけ盛大に違うところがいくつかある。 「黒瀬、思ったより書けてる」 「ほんとか!?」 「うん。ここ、途中まで合ってる」 「途中まで!」 「そこを喜べるのは強い」 (はい、黒瀬復活。点数に死んでた男、途中式で蘇生。中間テスト後の救済姫、今日も稼働中。俺、かなり頼れる。いける。今日はいける) 篠宮怜央が横から黒瀬の答案を見て、静かにうなずいた。 「見直しすれば、次は取れると思う」 「篠宮が言うと本当に取れそう!」 「取れるかは黒瀬次第」 「急に厳しい!」 「でも事実」 依央は赤ペンを取り出し、黒瀬の答案の端に小さく印をつけた。 「じゃあ放課後、解き直ししよっか。篠宮、範囲ごとに分けてもらえる?」 「もう分けてある」 「さすが」 篠宮は少しだけ目をそらした。 「花宮が説明するなら、その方が早いと思った」 「頼られてるね、俺」 「実際、黒瀬が聞くから」 黒瀬が大きくうなずく。 「花宮の説明、やさしいからな!」 近くの男子も「俺も聞きたい」と集まってくる。鷹宮蓮は答案をしまいながら、依央のノートを見た。 「花宮、解き直しの字もきれいだね」 「答案返却日に褒める場所、そこ?」 「字が整ってると、見直しも嫌になりにくい」 「鷹宮が言うと、答案まで少し上品に見える」 「それは花宮の方じゃない?」 周りの男子が軽く笑った。 依央は外向きの笑顔で受け取った。 (はい、空気は取れた。黒瀬は復活、篠宮は神、鷹宮は花束。俺は頼れる姫。答案返却の荒れた教室をまとめる男。勝った。かなり勝った) 依央は、教室後方の席へ視線を流した。 久我燈真は、返された答案を机の上に置いたまま、特に喜ぶでも沈むでもなく、シャーペンを回している。 点数は見えない。 ただ、燈真の顔からは何も読めない。 (久我くん、答案返却でも温度低い。黒瀬みたいに死なないし、篠宮みたいに正しく受け取る感じでもない。何その無風。点数どうだったんだろ。気になる。いや、教える側として。赤点救済姫として) **** 放課後の空き教室には、前より少し人数が少なかった。 答案を持ち寄った黒瀬、篠宮、鷹宮、それから数人。依央は黒瀬の隣に座り、答案の解き直しを始めた。晴臣は廊下側から顔を出し、いつものように見物している。 「依央、今日も姫先生?」 「晴臣、廊下で静かにしてて」 「姫先生、怖」 「お前だけ減点」 「科目は?」 「態度」 「赤点だな」 「自覚あるなら直せ」 晴臣は笑って、廊下の壁にもたれた。 依央は黒瀬の答案を指さした。 「ここ、式は悪くない。問題は、最後に何を聞かれてるか見落としたこと」 「最後、見てなかった」 「黒瀬、途中で勝った気になるの早い」 「分かる!」 「分かるなら直そう」 周囲が笑う。 黒瀬はうなずいて、もう一度式を書き始めた。 依央はその横で、赤ペンを持つ。説明はゆっくり、言葉は短め。黒瀬が聞きやすい速度に合わせる。みんなが見る。依央が書く。場が整う。 (よし。今日もいける。教えられる頼れる姫、だいぶ板についてきた。黒瀬もちゃんとついてきてる。これは勝ち。完全に勝ち) 燈真は少し離れた席にいた。 答案を広げてはいるが、自分から質問には来ない。点数も見せない。何となく、低いわけではなさそうだが、篠宮みたいに高得点の空気でもない。 依央は赤ペンを置き、燈真の席へ近づいた。 「久我くん」 「何」 「答案、見直します?」 「別に」 「分からないところがあるなら、教えますよ」 「花宮が?」 「はい」 依央は少しだけ笑った。 やわらかく、でも頼れる感じ。テスト前の安心スマイルとは少し違う。教えてあげる側の余裕を混ぜた、解き直し姫スマイル。 燈真は依央を見た。 一秒。 二秒。 「今の、先生っぽい」 キュン♡ 依央は笑顔のまま、一瞬だけ止まった。 「……そう見えたなら、成功です」 「成功なんだ」 「勉強会なので」 「うん」 (先生っぽい、来た。何その雑な褒め。いや、褒め? たぶん褒め。俺、教える側で来た。勝ってる。勝ってるはず。なのに久我くんに先生っぽいって言われただけで、ちょっと調子崩れるの何。やば) 依央は燈真の答案をちらりと見た。 点数は、目立たない。 高すぎない。低すぎない。クラスの中で話題になるほどではない点数だ。 けれど、解答欄の直し方に妙な違和感があった。間違えているところの途中式が、やけにきれいに切れている。分からなくて崩れたというより、最後まで詰めなかったみたいな形。 (ん? 何これ。点数は普通。だけど途中までの形、普通じゃなくない? ここ、分かってなかったらこの式まで来ないよな。え、何。久我くん、わざととか……いや、さすがに考えすぎ?) 点数よりも、そっちが気になった。 どうしてここまで書けるのに、最後だけ空いているのか。 どうして、できなかった顔も、悔しそうな顔もしないのか。 教える側として気になる。そう言えば通るはずだった。けれど、その言葉だけでは少し足りない気がした。 (何でこの人、できるのに普通の顔してるんだろ。そこが気になる。点数より、そっち。やば。これ、答案見直しの顔じゃないかも) 「花宮」 「はい」 「見すぎ」 「すみません。答案なので」 「俺の」 「はい。久我くんの答案です」 「そう」 燈真は答案を軽く引いた。 その時、黒瀬が後ろから声を上げた。 「花宮! ここまた分からん!」 依央は振り返る。 「どこ?」 「この最後!」 「最後だけ?」 「たぶん!」 燈真が立ち上がった。 依央より先に黒瀬の答案を見て、短く言う。 「そこ、式は合ってる」 黒瀬が顔を上げる。 「え、マジ?」 「最後だけずれた」 燈真はシャーペンで、解答欄の一行を軽く指した。 「こっち見れば早い」 「こっち?」 「問題文の最後」 「……あ、面積じゃなくて長さだ!」 「うん」 黒瀬は一気に顔を明るくした。 「分かった! 久我、すげえ!」 燈真は何でもない顔で席へ戻ろうとする。 依央は固まっていた。 (早。何今の。答案見て三秒くらいじゃなかった? 式は合ってる、最後だけずれた、こっち見れば早い。短すぎるのに全部刺さってる。黒瀬にも届いてる。俺、今から説明しようとしてたんだけど。教える側の顔で立ってた俺、どこ行った?) 篠宮が、黒瀬の答案を見た。 「確かに。久我の指摘が一番早い」 燈真は少しだけ肩をすくめた。 「見えたから」 依央はその言い方に、さらに引っかかった。 見えたから。 いつもの感じだ。掲示物も、窓鍵も、ノートの字も、全部「見えたから」みたいな顔で言う。 (いや、見えたからで済む? その見え方、こっちと違くない? 地味男、点数低い顔して中身が低くない。何それ。まじで分からん) 依央は燈真の席の横に戻った。 「久我くん」 「何」 「本当に、分からないところないんですか?」 「ある」 「あるんですか?」 「うん」 「じゃあ、教えます」 「いい」 「何でですか」 「自分で見る」 「……そうですか」 燈真は答案の端を指で押さえながら、依央の赤ペンを見た。 「花宮は、黒瀬見てやれば」 「黒瀬は今、篠宮が見ています」 「じゃあ、休めば」 「俺、そんなに疲れて見えます?」 「字より顔」 依央は赤ペンを握る手を止めた。 「……顔ですか」 「うん」 「今日は顔に出してないつもりでした」 「出てる」 「どのあたりが」 「目」 答案を見ていたはずなのに、自分の方が読まれている。 その感じが、思ったより落ち着かなかった。 (待って。字から顔に進んだ。いや進んだって何。目? 目って言った? 久我くん、そこ見るのやめろ。答案見て、式見て、俺の目まで見るの、情報処理どうなってんの。無理) 晴臣が廊下から小声で言う。 「依央、答案より先に読まれてる」 「晴臣、廊下から参加するな」 「顔に出てるぞ、姫先生」 「帰れ」 「やだ」 燈真はほんの少しだけ笑った。 その笑い方が、また腹立つくらい軽い。 黒瀬の解き直しが進み、空き教室の空気は少し落ち着いてきた。 鷹宮は間違えた箇所を綺麗にまとめ、篠宮は黒瀬の答案に小さく印をつけている。黒瀬は一問解けるたびに、なぜか勝者みたいな顔をする。 依央はそれを見ながらも、意識の端で燈真の答案が気になっていた。 点数は目立たない。 けれど説明は早い。 間違い方も、普通に分からなかった時の崩れ方とは違う。 (何なんだろ。久我くん、できない顔してない。でもできる顔もしてない。点数だけ見ると普通。中身見ると、普通じゃない。何それ。隠れ方うますぎ。地味男っていうより、地味にしてる男じゃん) 「花宮」 篠宮が声をかけた。 「久我の解き方、少し変わってる」 燈真が顔を上げる。 依央も思わず見る。 篠宮は燈真の答案を勝手にのぞいたわけではなく、黒瀬の解き直しで燈真が書いた補助線を見ていた。 「その補助線、授業では使ってない。けど、分かりやすい」 「たまたま」 燈真は短く返した。 篠宮は少しだけ首を傾げた。 「たまたまにしては、選び方が早い」 空気が少し止まる。 燈真は何も言わない。 依央は、その沈黙を見てしまった。 (篠宮も気づいた) その瞬間、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなった。 別に、燈真の解き方は依央のものではない。答案も、補助線も、誰が気づいたっていい。依央が守っていたものでもない。 それなのに、先に見つけた場所を誰かにのぞかれたみたいで、変な感じがした。 (やっぱりそうだよな? 久我くん、何かあるよな? たまたまって顔じゃない。いや顔はたまたまみたいな顔してる。顔が強い。無風の顔、強い) 黒瀬が空気を破った。 「久我、頭いいのか?」 燈真は即答した。 「普通」 黒瀬は真顔で言った。 「普通って難しいな!」 「黒瀬、それは今かなり本質っぽい」 依央が言うと、教室に笑いが戻った。 燈真もほんの少しだけ口元を動かした。 依央はその笑いを見て、胸の奥が少しだけざわつく。 (面白がってる。絶対ちょっと面白がってる。俺が疑ってるのも、篠宮が引っかかったのも、分かってる顔。久我くん、性格ちょっと悪い。なのにそこがまた気になるの、俺の負けでは? いや負けてない) 勉強会の最後、黒瀬は解き直した答案を掲げた。 「俺、三問直した!」 「よく頑張った」 依央が言うと、黒瀬は素直に笑った。 「花宮と篠宮と久我のおかげだな!」 「黒瀬もちゃんと考えたからだよ」 「俺も偉い!」 「うん。偉い」 鷹宮が机を戻しながら、依央に言った。 「今日の花宮、先生というより、保健室の前にいる優しい先輩みたいだった」 「それ、だいぶ限定的じゃない?」 「安心する感じ」 「じゃあ褒め言葉として受け取る」 「もちろん」 依央は笑って受け取った。 でも、燈真の方を見ると、また違うものが引っかかる。 燈真は答案を鞄にしまっていた。何の感情も見せないまま、普通の点数の答案を、普通に片づけている。 依央は我慢できずに声をかけた。 「久我くん」 「何」 「本当は、もっと取れたんじゃないですか」 言ってから、少しだけ踏み込みすぎたかと思った。 燈真は鞄を閉じ、依央を見る。 「花宮は、そう思うんだ」 「……思います」 「何で」 「解き方が、早いから」 「点、普通だけど」 「だから変なんです」 燈真は一瞬だけ、目元をゆるめた。 「見てるな」 依央は呼吸を忘れかけた。 「答案を、です」 「うん」 「解き方を見ただけです」 「うん」 「その顔、流してますよね」 「少し」 (出た、少し。絶対面白がってる。俺が久我くんを見てるの、バレてる。いや答案を見てる。答案。解き方。なのに何でこんなに動揺してるんだよ。無理) 晴臣が廊下から拍手しそうな顔をしていたので、依央はにらんだ。 晴臣は笑いながら両手を下げた。 燈真は鞄を肩にかける。 「花宮」 「はい」 「教えるの、うまいと思う」 依央は赤ペンを落としかけて、ぎりぎりで止めた。 「……ありがとうございます」 今のは、騒いで流すには少しだけまっすぐだった。 「黒瀬、分かってたし」 「黒瀬が頑張ったので」 「それを言うところも」 燈真は短く言って、少しだけ笑った。 「花宮っぽい」 依央は返す言葉を探した。 すぐには見つからなかった。 さっきまで、答案の違和感を見抜いて勝った気でいた。燈真の隠れた中身に近づけた気がしていた。 なのに最後に、教える自分のことをさらっと見られている。 (何それ。俺が見てるつもりだったのに、また見られてる。しかも褒め方が雑にやさしい。腹立つ。やば。久我くん、ほんと読めない) 「久我くんも、次は分からないところがあったら聞いてください」 「考えとく」 「考えるんですね」 「うん」 「じゃあ、少しは期待します」 「少し?」 「少しです」 燈真は笑った。 「花宮っぽい」 「それ、今日二回目です」 「そうだっけ」 「そうです」 「じゃあ、まあいいか」 「よくないです」 けれど、依央は少しだけ笑ってしまった。 **** 帰り道、晴臣が隣に並んだ。 「依央、今日、教える側で行ったのに久我にだいぶ持ってかれたな」 「持ってかれてない」 「顔」 「晴臣、顔って言えば勝てると思うな」 「勝てるだろ」 「腹立つ」 晴臣はけらけら笑った。 「でも、久我のあれ、気になるな」 「……でしょ」 「点は普通なのに、説明だけ早い」 「そう」 「何か隠してそう」 依央は少しだけ黙った。 旧校舎の窓鍵、工具箱、赤い旗の紐。そういう手際のよさは見てきた。そこに、答案の違和感が加わった。 ただの地味男ではない。 その言葉が、頭の中で形になる。 (やっぱり気になる。何で隠すのかも、どれくらいできるのかも、あの普通って顔の中身も。やば。知りたい。これは攻略。うん、攻略。……でも、ちょっと普通に知りたいのが厄介) 廊下の向こうで、燈真が空き教室の鍵を返しに歩いていく。 依央はその背中を見てしまった。 燈真がふと振り返る。 目が合う。 「花宮」 「はい」 「答案、見すぎ」 依央はすぐに笑顔を整えた。 「見直しは大事なので」 「俺のも?」 「……全体の流れとして」 「ふうん」 「その顔、絶対分かってますよね」 「少し」 依央は赤ペンを鞄に押し込んだ。 (少しって言うな。もうその少しが強い。久我燈真、点数普通の顔して中身が普通じゃない。絶対に何かある。見たい。もっと見たい。……あ、これもうだいぶ危ない) 答案返却の日の廊下は、まだあちこちで点数の話が飛んでいた。 その中で依央は、自分の答案より、燈真の途中式のことばかり考えていた。

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