6 / 23
第6話 答案返却と、隠れた手際
中間テストの答案返却日は、教室の空気が分かりやすく二つに割れる。
点数を見て静かに息を吐く側と、紙を裏返したまま机に伏せる側。
二年三組で後者の代表を務めていたのは、黒瀬陸斗だった。
「花宮」
「何」
「俺、答案と目が合わない」
「紙だから目はないよ」
「でも見てくる」
「黒瀬の心が負けてる」
「点数にも負けてる」
黒瀬は机に突っ伏した。答案用紙は裏返しのまま、机の端に追いやられている。
依央は自分の答案を机にそろえながら、軽く笑った。
「見せて」
「怒らない?」
「怒らない」
「ほんとに?」
「黒瀬がちゃんと見直すなら」
黒瀬はおそるおそる答案を差し出した。
依央は点数より先に、解答欄を見た。空欄は少ない。途中式もある。最後の数字だけ盛大に違うところがいくつかある。
「黒瀬、思ったより書けてる」
「ほんとか!?」
「うん。ここ、途中まで合ってる」
「途中まで!」
「そこを喜べるのは強い」
(はい、黒瀬復活。点数に死んでた男、途中式で蘇生。中間テスト後の救済姫、今日も稼働中。俺、かなり頼れる。いける。今日はいける)
篠宮怜央が横から黒瀬の答案を見て、静かにうなずいた。
「見直しすれば、次は取れると思う」
「篠宮が言うと本当に取れそう!」
「取れるかは黒瀬次第」
「急に厳しい!」
「でも事実」
依央は赤ペンを取り出し、黒瀬の答案の端に小さく印をつけた。
「じゃあ放課後、解き直ししよっか。篠宮、範囲ごとに分けてもらえる?」
「もう分けてある」
「さすが」
篠宮は少しだけ目をそらした。
「花宮が説明するなら、その方が早いと思った」
「頼られてるね、俺」
「実際、黒瀬が聞くから」
黒瀬が大きくうなずく。
「花宮の説明、やさしいからな!」
近くの男子も「俺も聞きたい」と集まってくる。鷹宮蓮は答案をしまいながら、依央のノートを見た。
「花宮、解き直しの字もきれいだね」
「答案返却日に褒める場所、そこ?」
「字が整ってると、見直しも嫌になりにくい」
「鷹宮が言うと、答案まで少し上品に見える」
「それは花宮の方じゃない?」
周りの男子が軽く笑った。
依央は外向きの笑顔で受け取った。
(はい、空気は取れた。黒瀬は復活、篠宮は神、鷹宮は花束。俺は頼れる姫。答案返却の荒れた教室をまとめる男。勝った。かなり勝った)
依央は、教室後方の席へ視線を流した。
久我燈真は、返された答案を机の上に置いたまま、特に喜ぶでも沈むでもなく、シャーペンを回している。
点数は見えない。
ただ、燈真の顔からは何も読めない。
(久我くん、答案返却でも温度低い。黒瀬みたいに死なないし、篠宮みたいに正しく受け取る感じでもない。何その無風。点数どうだったんだろ。気になる。いや、教える側として。赤点救済姫として)
****
放課後の空き教室には、前より少し人数が少なかった。
答案を持ち寄った黒瀬、篠宮、鷹宮、それから数人。依央は黒瀬の隣に座り、答案の解き直しを始めた。晴臣は廊下側から顔を出し、いつものように見物している。
「依央、今日も姫先生?」
「晴臣、廊下で静かにしてて」
「姫先生、怖」
「お前だけ減点」
「科目は?」
「態度」
「赤点だな」
「自覚あるなら直せ」
晴臣は笑って、廊下の壁にもたれた。
依央は黒瀬の答案を指さした。
「ここ、式は悪くない。問題は、最後に何を聞かれてるか見落としたこと」
「最後、見てなかった」
「黒瀬、途中で勝った気になるの早い」
「分かる!」
「分かるなら直そう」
周囲が笑う。
黒瀬はうなずいて、もう一度式を書き始めた。
依央はその横で、赤ペンを持つ。説明はゆっくり、言葉は短め。黒瀬が聞きやすい速度に合わせる。みんなが見る。依央が書く。場が整う。
(よし。今日もいける。教えられる頼れる姫、だいぶ板についてきた。黒瀬もちゃんとついてきてる。これは勝ち。完全に勝ち)
燈真は少し離れた席にいた。
答案を広げてはいるが、自分から質問には来ない。点数も見せない。何となく、低いわけではなさそうだが、篠宮みたいに高得点の空気でもない。
依央は赤ペンを置き、燈真の席へ近づいた。
「久我くん」
「何」
「答案、見直します?」
「別に」
「分からないところがあるなら、教えますよ」
「花宮が?」
「はい」
依央は少しだけ笑った。
やわらかく、でも頼れる感じ。テスト前の安心スマイルとは少し違う。教えてあげる側の余裕を混ぜた、解き直し姫スマイル。
燈真は依央を見た。
一秒。
二秒。
「今の、先生っぽい」
キュン♡
依央は笑顔のまま、一瞬だけ止まった。
「……そう見えたなら、成功です」
「成功なんだ」
「勉強会なので」
「うん」
(先生っぽい、来た。何その雑な褒め。いや、褒め? たぶん褒め。俺、教える側で来た。勝ってる。勝ってるはず。なのに久我くんに先生っぽいって言われただけで、ちょっと調子崩れるの何。やば)
依央は燈真の答案をちらりと見た。
点数は、目立たない。
高すぎない。低すぎない。クラスの中で話題になるほどではない点数だ。
けれど、解答欄の直し方に妙な違和感があった。間違えているところの途中式が、やけにきれいに切れている。分からなくて崩れたというより、最後まで詰めなかったみたいな形。
(ん? 何これ。点数は普通。だけど途中までの形、普通じゃなくない? ここ、分かってなかったらこの式まで来ないよな。え、何。久我くん、わざととか……いや、さすがに考えすぎ?)
点数よりも、そっちが気になった。
どうしてここまで書けるのに、最後だけ空いているのか。
どうして、できなかった顔も、悔しそうな顔もしないのか。
教える側として気になる。そう言えば通るはずだった。けれど、その言葉だけでは少し足りない気がした。
(何でこの人、できるのに普通の顔してるんだろ。そこが気になる。点数より、そっち。やば。これ、答案見直しの顔じゃないかも)
「花宮」
「はい」
「見すぎ」
「すみません。答案なので」
「俺の」
「はい。久我くんの答案です」
「そう」
燈真は答案を軽く引いた。
その時、黒瀬が後ろから声を上げた。
「花宮! ここまた分からん!」
依央は振り返る。
「どこ?」
「この最後!」
「最後だけ?」
「たぶん!」
燈真が立ち上がった。
依央より先に黒瀬の答案を見て、短く言う。
「そこ、式は合ってる」
黒瀬が顔を上げる。
「え、マジ?」
「最後だけずれた」
燈真はシャーペンで、解答欄の一行を軽く指した。
「こっち見れば早い」
「こっち?」
「問題文の最後」
「……あ、面積じゃなくて長さだ!」
「うん」
黒瀬は一気に顔を明るくした。
「分かった! 久我、すげえ!」
燈真は何でもない顔で席へ戻ろうとする。
依央は固まっていた。
(早。何今の。答案見て三秒くらいじゃなかった? 式は合ってる、最後だけずれた、こっち見れば早い。短すぎるのに全部刺さってる。黒瀬にも届いてる。俺、今から説明しようとしてたんだけど。教える側の顔で立ってた俺、どこ行った?)
篠宮が、黒瀬の答案を見た。
「確かに。久我の指摘が一番早い」
燈真は少しだけ肩をすくめた。
「見えたから」
依央はその言い方に、さらに引っかかった。
見えたから。
いつもの感じだ。掲示物も、窓鍵も、ノートの字も、全部「見えたから」みたいな顔で言う。
(いや、見えたからで済む? その見え方、こっちと違くない? 地味男、点数低い顔して中身が低くない。何それ。まじで分からん)
依央は燈真の席の横に戻った。
「久我くん」
「何」
「本当に、分からないところないんですか?」
「ある」
「あるんですか?」
「うん」
「じゃあ、教えます」
「いい」
「何でですか」
「自分で見る」
「……そうですか」
燈真は答案の端を指で押さえながら、依央の赤ペンを見た。
「花宮は、黒瀬見てやれば」
「黒瀬は今、篠宮が見ています」
「じゃあ、休めば」
「俺、そんなに疲れて見えます?」
「字より顔」
依央は赤ペンを握る手を止めた。
「……顔ですか」
「うん」
「今日は顔に出してないつもりでした」
「出てる」
「どのあたりが」
「目」
答案を見ていたはずなのに、自分の方が読まれている。
その感じが、思ったより落ち着かなかった。
(待って。字から顔に進んだ。いや進んだって何。目? 目って言った? 久我くん、そこ見るのやめろ。答案見て、式見て、俺の目まで見るの、情報処理どうなってんの。無理)
晴臣が廊下から小声で言う。
「依央、答案より先に読まれてる」
「晴臣、廊下から参加するな」
「顔に出てるぞ、姫先生」
「帰れ」
「やだ」
燈真はほんの少しだけ笑った。
その笑い方が、また腹立つくらい軽い。
黒瀬の解き直しが進み、空き教室の空気は少し落ち着いてきた。
鷹宮は間違えた箇所を綺麗にまとめ、篠宮は黒瀬の答案に小さく印をつけている。黒瀬は一問解けるたびに、なぜか勝者みたいな顔をする。
依央はそれを見ながらも、意識の端で燈真の答案が気になっていた。
点数は目立たない。
けれど説明は早い。
間違い方も、普通に分からなかった時の崩れ方とは違う。
(何なんだろ。久我くん、できない顔してない。でもできる顔もしてない。点数だけ見ると普通。中身見ると、普通じゃない。何それ。隠れ方うますぎ。地味男っていうより、地味にしてる男じゃん)
「花宮」
篠宮が声をかけた。
「久我の解き方、少し変わってる」
燈真が顔を上げる。
依央も思わず見る。
篠宮は燈真の答案を勝手にのぞいたわけではなく、黒瀬の解き直しで燈真が書いた補助線を見ていた。
「その補助線、授業では使ってない。けど、分かりやすい」
「たまたま」
燈真は短く返した。
篠宮は少しだけ首を傾げた。
「たまたまにしては、選び方が早い」
空気が少し止まる。
燈真は何も言わない。
依央は、その沈黙を見てしまった。
(篠宮も気づいた)
その瞬間、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなった。
別に、燈真の解き方は依央のものではない。答案も、補助線も、誰が気づいたっていい。依央が守っていたものでもない。
それなのに、先に見つけた場所を誰かにのぞかれたみたいで、変な感じがした。
(やっぱりそうだよな? 久我くん、何かあるよな? たまたまって顔じゃない。いや顔はたまたまみたいな顔してる。顔が強い。無風の顔、強い)
黒瀬が空気を破った。
「久我、頭いいのか?」
燈真は即答した。
「普通」
黒瀬は真顔で言った。
「普通って難しいな!」
「黒瀬、それは今かなり本質っぽい」
依央が言うと、教室に笑いが戻った。
燈真もほんの少しだけ口元を動かした。
依央はその笑いを見て、胸の奥が少しだけざわつく。
(面白がってる。絶対ちょっと面白がってる。俺が疑ってるのも、篠宮が引っかかったのも、分かってる顔。久我くん、性格ちょっと悪い。なのにそこがまた気になるの、俺の負けでは? いや負けてない)
勉強会の最後、黒瀬は解き直した答案を掲げた。
「俺、三問直した!」
「よく頑張った」
依央が言うと、黒瀬は素直に笑った。
「花宮と篠宮と久我のおかげだな!」
「黒瀬もちゃんと考えたからだよ」
「俺も偉い!」
「うん。偉い」
鷹宮が机を戻しながら、依央に言った。
「今日の花宮、先生というより、保健室の前にいる優しい先輩みたいだった」
「それ、だいぶ限定的じゃない?」
「安心する感じ」
「じゃあ褒め言葉として受け取る」
「もちろん」
依央は笑って受け取った。
でも、燈真の方を見ると、また違うものが引っかかる。
燈真は答案を鞄にしまっていた。何の感情も見せないまま、普通の点数の答案を、普通に片づけている。
依央は我慢できずに声をかけた。
「久我くん」
「何」
「本当は、もっと取れたんじゃないですか」
言ってから、少しだけ踏み込みすぎたかと思った。
燈真は鞄を閉じ、依央を見る。
「花宮は、そう思うんだ」
「……思います」
「何で」
「解き方が、早いから」
「点、普通だけど」
「だから変なんです」
燈真は一瞬だけ、目元をゆるめた。
「見てるな」
依央は呼吸を忘れかけた。
「答案を、です」
「うん」
「解き方を見ただけです」
「うん」
「その顔、流してますよね」
「少し」
(出た、少し。絶対面白がってる。俺が久我くんを見てるの、バレてる。いや答案を見てる。答案。解き方。なのに何でこんなに動揺してるんだよ。無理)
晴臣が廊下から拍手しそうな顔をしていたので、依央はにらんだ。
晴臣は笑いながら両手を下げた。
燈真は鞄を肩にかける。
「花宮」
「はい」
「教えるの、うまいと思う」
依央は赤ペンを落としかけて、ぎりぎりで止めた。
「……ありがとうございます」
今のは、騒いで流すには少しだけまっすぐだった。
「黒瀬、分かってたし」
「黒瀬が頑張ったので」
「それを言うところも」
燈真は短く言って、少しだけ笑った。
「花宮っぽい」
依央は返す言葉を探した。
すぐには見つからなかった。
さっきまで、答案の違和感を見抜いて勝った気でいた。燈真の隠れた中身に近づけた気がしていた。
なのに最後に、教える自分のことをさらっと見られている。
(何それ。俺が見てるつもりだったのに、また見られてる。しかも褒め方が雑にやさしい。腹立つ。やば。久我くん、ほんと読めない)
「久我くんも、次は分からないところがあったら聞いてください」
「考えとく」
「考えるんですね」
「うん」
「じゃあ、少しは期待します」
「少し?」
「少しです」
燈真は笑った。
「花宮っぽい」
「それ、今日二回目です」
「そうだっけ」
「そうです」
「じゃあ、まあいいか」
「よくないです」
けれど、依央は少しだけ笑ってしまった。
****
帰り道、晴臣が隣に並んだ。
「依央、今日、教える側で行ったのに久我にだいぶ持ってかれたな」
「持ってかれてない」
「顔」
「晴臣、顔って言えば勝てると思うな」
「勝てるだろ」
「腹立つ」
晴臣はけらけら笑った。
「でも、久我のあれ、気になるな」
「……でしょ」
「点は普通なのに、説明だけ早い」
「そう」
「何か隠してそう」
依央は少しだけ黙った。
旧校舎の窓鍵、工具箱、赤い旗の紐。そういう手際のよさは見てきた。そこに、答案の違和感が加わった。
ただの地味男ではない。
その言葉が、頭の中で形になる。
(やっぱり気になる。何で隠すのかも、どれくらいできるのかも、あの普通って顔の中身も。やば。知りたい。これは攻略。うん、攻略。……でも、ちょっと普通に知りたいのが厄介)
廊下の向こうで、燈真が空き教室の鍵を返しに歩いていく。
依央はその背中を見てしまった。
燈真がふと振り返る。
目が合う。
「花宮」
「はい」
「答案、見すぎ」
依央はすぐに笑顔を整えた。
「見直しは大事なので」
「俺のも?」
「……全体の流れとして」
「ふうん」
「その顔、絶対分かってますよね」
「少し」
依央は赤ペンを鞄に押し込んだ。
(少しって言うな。もうその少しが強い。久我燈真、点数普通の顔して中身が普通じゃない。絶対に何かある。見たい。もっと見たい。……あ、これもうだいぶ危ない)
答案返却の日の廊下は、まだあちこちで点数の話が飛んでいた。
その中で依央は、自分の答案より、燈真の途中式のことばかり考えていた。
ともだちにシェアしよう!

