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第5話 中間テストと、見られる姫
五月の教室は、中間テストでざわついていた。
二年三組の後ろの黒板には、試験範囲のプリントが貼られている。休み時間になるたび、誰かがその前に立ち、英単語の量に沈み、数学の範囲に叫び、古典の活用表を見て無言になる。
その中心で、黒瀬陸斗が机に突っ伏していた。
「花宮、終わった」
「まだ始まってないよ」
「始まる前に終わることってあるだろ」
「黒瀬、言葉だけ賢そう」
「点も賢くなりたい」
「そこは自力で頑張ろうね」
依央が軽く笑うと、黒瀬は顔を上げた。周りの男子も、自然と依央の方を見る。いつもの姫営業とは少し違う。今は、頼られる先輩でも、赤組の花でもなく、テスト前の救済係みたいな立ち位置だ。
篠宮怜央が、まとめたプリントを机に置いた。
「放課後、空き教室を使える。短時間なら勉強会できると思う」
「篠宮、準備が早すぎる。助かる」
「範囲を絞っただけ」
「その絞る作業ができる人、貴重」
篠宮は少しだけ目をそらした。
「……花宮が説明した方が、黒瀬は聞くと思う」
「篠宮が言うと内容が正確。俺が言うと黒瀬が起きる。役割分担だね」
黒瀬が手を上げた。
「俺、起きる!」
「そこは胸張るところじゃない」
教室が笑う。
依央はその空気を見て、内心で軽く腕を組んだ。
(来た。中間テスト前の救済姫、降臨。黒瀬は死にかけ、篠宮は神プリント、鷹宮はたぶん褒めてくる。俺は場を明るくして、みんなを机に向かわせる。完璧。今日の俺、頼れる姫でいける)
鷹宮蓮は依央のノートをのぞき込み、さらっと笑った。
「花宮のノート、見やすいね」
「鷹宮、褒めるの早い」
「本当に見やすいから。字もきれいだし、余計なところが少ない」
「それは篠宮のプリントを見習ってる」
「でも、花宮の字はやわらかい」
近くにいた男子が、なぜか「分かる」とうなずいた。
依央は外向きの笑顔を整える。
「じゃあ、この字で黒瀬を救います」
「頼む!」
黒瀬の声が大きい。教室の端で、久我燈真が顔を上げた。
燈真は机に肘をつき、教科書を開いている。やる気があるのかないのか分からない顔。点数の話にも騒がない。範囲表を見ても、黒瀬みたいに死なない。
依央は少しだけ目を細めた。
(久我くん、テスト前でも温度低いな。焦ってる顔、まるでなし。まあ、地味男だし? ここは俺が頼れる顔で行けば、ちょっとは揺れるかもしれない。いける。たぶん)
****
放課後、空き教室には思ったより人が集まった。
黒瀬、篠宮、鷹宮、ほか数人。机を寄せ、篠宮のプリントを中心に、依央が黒瀬の横へ座る。燈真は少し離れた席で、窓際に座っていた。
晴臣は廊下から顔だけ出した。
「依央、勉強会の姫やってる?」
「晴臣、用がないなら帰れ」
「用はある。依央が調子乗ってる顔を見に来た」
「帰れ」
「黒瀬、依央の説明どう?」
黒瀬はシャーペンを握ったまま、真剣に言った。
「分かりやすい!」
「じゃあ調子乗るな」
「晴臣、ほんと一回帰れ」
晴臣は笑って、廊下側の壁にもたれた。完全に見物する気だ。
依央は黒瀬のノートを見ながら、ゆっくり説明した。
「ここは公式を覚えるより、まず何を聞かれてるか見る。黒瀬、ここの問題文、最後だけ読んで」
「最後?」
「そう。何を求めるか、先に見る」
「……面積?」
「そう。じゃあ使うのはこっち」
「おお!」
黒瀬の顔が明るくなる。周囲の男子も身を乗り出す。依央が解くのではなく、黒瀬が解けそうなところまで持っていく。そこを褒める。
「今のいい。黒瀬、式まで行けた」
「行けた!」
「その調子」
黒瀬は分かりやすくやる気を出した。
(はい、入った。勉強でも姫営業は効く。黒瀬、単純だけど伸びる。俺、教え方もいける。勝った。今日はかなり勝ってる)
周りもほっとしたように笑っていた。黒瀬が一問進んだだけで、空き教室の空気が少し軽くなる。
依央も笑った。
いつもなら、それで十分だった。
頼られて、見られて、場が明るくなる。自分の笑顔で男子たちの肩の力が抜ける。それは依央の得意な場所で、ちゃんと手応えもある。
なのに、その手応えを受け取った直後、依央は窓際の席を見ていた。
燈真がこちらを見ていた。
黒瀬ではなく、依央を。
ただそれだけで、さっきまで自分のものだった空気が、少しだけ手元からずれた。
(……何で今、久我くん見た? 黒瀬が解けた。みんな笑った。俺、勝った。それで終わりでいいはずじゃん。なのに、久我くんの顔を確認した。やば。俺、何を待ってた?)
燈真は何も言わない。
ただ、少しだけ目を細めて、依央のノートへ視線を落とした。
その沈黙が、妙に気になる。
鷹宮が依央のノートに視線を落とす。
「花宮、赤ペンの入れ方もやさしいね」
「やさしい赤ペンって何?」
「怒ってない赤」
「それはよかった。黒瀬に怒ってる赤を出したら机の下に消えそうだから」
「俺、消えねえよ!」
「じゃあ残って」
「残る!」
依央は笑った。
その笑顔に、周囲の男子がまた少し和らぐ。中間テスト前の空気が、依央を中心に回っていく。頼られている。見られている。助けている。
この感じは、嫌いじゃない。
(頼れる姫、かなりあり。かわいいだけじゃない。教えられる。整えられる。これは強い。久我くんも見てる? ……見てる?)
依央は、ふと燈真の方を見た。
燈真は黒瀬の方ではなく、依央のノートを見ていた。
いや、正確には、ノートの端。
何度か消した跡のある計算式の横。強めに書き直した文字。依央がさっきから、黒瀬に合わせて何度も同じ説明を書き直している部分。
目が合った。
燈真は低い声で言った。
「字、疲れてる」
キュン♡
依央は赤ペンを持ったまま止まった。
「……字が、ですか」
「うん」
「字は疲れません」
「花宮が疲れてる」
教室の音が、一瞬だけ遠くなった。
(待って。そこ見る? 笑顔じゃなくて? 説明じゃなくて? 字? 俺の字が疲れてるって何。やば。見られるのは慣れてる。ノート褒められるのも平気。でもそこは違う。久我くん、そこ見るな。いや、見るなっていうか、何で見えるんだよ)
黒瀬が心配そうにのぞき込む。
「花宮、疲れてんのか?」
依央はすぐ笑った。
「大丈夫。黒瀬が一問解けたから元気出た」
「俺、役に立った?」
「立った」
「よし!」
黒瀬は単純に喜んだ。助かる。とても助かる。
晴臣が廊下から口元を押さえている。依央は目だけでにらんだ。晴臣はわざと視線をそらした。
燈真は何も追わない。言っただけで、自分の教科書へ目を戻す。
その温度差が、また刺さる。
(言いっぱなし。久我くん、言いっぱなしやめろ。こっちは今、わりと深めに刺さったんだけど。しかも字。字でバレるの、きつい。俺、どんだけ手元に出てんだ)
勉強会が進むにつれ、黒瀬の質問はどんどん雑になった。
「花宮、ここ分からん!」
「どこ」
「このへん!」
「範囲が広い」
「全部!」
「黒瀬、欲張り」
篠宮が静かに助け舟を出す。
「黒瀬、まずこの問題だけ。全部と言うと頭が止まる」
「分かった! この問題だけ!」
「素直でいい」
依央は黒瀬の横に座り直し、問題文を指さした。けれど、さっきから少しだけ手元が気になる。字を丁寧にしようとして、逆に力が入る。消し跡を見られたことが頭から離れない。
(やば。字、意識すると字が変になる。久我くんのせい。いや違う、俺の手のせい。でも久我くんのせいでいい。心の中では何でも久我くんのせいにできる)
燈真が立ち上がり、黒瀬のノートを横から見た。
「そこ、式は合ってる」
黒瀬が顔を上げる。
「え、合ってんの?」
「最後だけずれた」
燈真はシャーペンで、黒瀬の式の最後を軽く指した。
「ここ。足す方」
「おお! そこか!」
依央は固まった。
燈真の説明は短い。短すぎる。でも黒瀬には届いている。問題全体を見て、どこでずれたかだけを言った。無駄がない。
(え、早。今の、見ただけ? 俺が説明する前に終わったんだけど。待って。教える側の顔で座ってた俺、どこ行った? 久我くん、点数低そうな顔して中身が低くない。地味男、何その低燃費解説)
黒瀬は嬉しそうに式を直した。
「解けた!」
「よかったね」
依央はどうにか笑う。
燈真は何事もなかったように席へ戻ろうとした。
「久我くん」
「何」
「今の、すぐ分かったんですか?」
「見たら」
「見たら」
「うん」
「……すごいですね」
燈真は少しだけ目をそらした。
「別に」
(別に、じゃない。今の普通にすごい。もっと言い方あるだろ。俺が褒めてるのに受け取り温度低すぎ。腹立つ。なのに、ちょっと照れた? 照れたよな? え、何。かわ……いや、待て。今のなし)
晴臣が廊下から小さく言った。
「依央、教える顔で来たのに教えられてる」
「晴臣、廊下から刺すな」
「刺さってる?」
「刺さってない」
「顔に出てる」
「帰れ」
「帰らない」
燈真は席へ戻る途中、依央のノートをちらっと見た。
「花宮」
「はい」
「そこ、消さなくていい」
「え?」
「説明、合ってた」
依央は赤ペンを持ったまま、もう一度固まった。
「……でも、少し回りくどくなって」
「黒瀬にはその方がいい」
黒瀬が大きくうなずく。
「俺、花宮の説明、分かりやすい!」
燈真も短くうなずいた。
「合ってる」
依央は赤ペンのキャップを閉めようとして、少しだけ手元を止めた。
短い。
短すぎる。
でも、さっきより手の力が抜けた。
(……そういう言い方、ずるい)
「ありがとうございます」
声はどうにか整えた。
燈真は「うん」とだけ返し、自分の席へ戻った。
****
勉強会の終わり際、空き教室には消しゴムのかすと、少しだけやり切った空気が残っていた。黒瀬は三問解けて、本人の中では大勝利らしい。篠宮はプリントをまとめ、鷹宮は机を戻している。
「花宮、今日ありがとな!」
「黒瀬がちゃんと座ってたからね」
「俺、座れた!」
「そこから褒める必要があるの、逆にすごい」
黒瀬は笑って、ノートを鞄にしまった。
鷹宮が依央の前を通る時、軽く声をかける。
「花宮、教えてる時もきれいだったよ」
「鷹宮は、すぐそういうこと言う」
「本当だから」
「ありがとう」
その褒め方は、ちゃんと受け取れる。まっすぐで、花束みたいで、いつもの場所に置ける。
でも燈真の「字、疲れてる」は違った。
花束じゃない。もっと小さい。ノートの隅に落ちた消しゴムのかすみたいなところを、ひょいと拾われた感じ。
依央は自分のノートを見た。
消し跡。強く書いた文字。黒瀬用に大きく書き直した式。
(見られてる。みんなが見る俺じゃなくて、もっと変なところ。字とか、手元とか、疲れたところ。やば。そこ見られるの、なんか恥ずい。でも嫌じゃないのが、もっとやばい)
空き教室を出る前、燈真が机を戻しながら言った。
「花宮」
「はい」
「無理するなら、字に出る」
依央は少しだけ息を止めた。
「……字、そんなに分かりやすかったですか」
「うん」
「それ、ちょっと恥ずかしいですね」
「でも、ちゃんと見やすい」
軽さはなく、静かに置かれた言葉だった。疲れているところも見て、その上で、見やすいと言われた。
依央はノートを抱え直した。
「……次は、もう少し力を抜きます」
「うん」
「久我くんも、分からないところがあれば聞いてください」
燈真は少しだけ笑った。
「あるかな」
「今、ちょっと腹立ちました」
「顔、出てる」
「出してません」
「出てる」
依央はノートで口元を隠した。
(最後にそれ言うな。静かに終わるかと思ったのに、ちゃんと刺してくる。久我くん、まじで油断できない)
廊下に出ると、晴臣が横に並んだ。
「依央、今日かなり姫だったな」
「当然」
「でも久我に字で負けた」
「負けてない」
「ノート抱えてる」
「落とさないように」
「顔、守ってる」
「晴臣」
「はい」
「テスト前に幼馴染を減点したい」
「何の科目で?」
「性格」
「赤点だな」
「自覚あるんだ」
晴臣は笑った。
依央はノートの角を親指でなぞる。少しだけ、消し跡のところがざらついている。
みんなに見られるのは慣れている。
頼られるのも、褒められるのも、笑顔を向けられるのも、いつものことだ。
でも、燈真はそこを見ていない。
いや、そこも見ているのかもしれない。けれど、それだけではない。笑顔の下、ノートの端、手元の力。依央が整えきれなかったところまで、雑に、静かに、見てくる。
(無理。そこ見られるの、ほんと無理。なのに、また見られてもいいかもって思ってる俺が一番無理。中間テスト、敵多すぎ。黒瀬、数学、久我くん。全部強い)
廊下の向こうで、燈真が空き教室の電気を消した。
依央は、その小さな動きまで見てしまった。
(……見てるの、俺もじゃん)
ノートを抱える手に、少しだけ力が入る。
今度は、字には出なかった。
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