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第4話 旧校舎の窓と、近すぎる地味男
放課後の旧校舎は、春なのに少し冷えていた。
本校舎では部活に向かう声が跳ねているのに、こちらは足音までゆっくり響く。窓の木枠は古く、廊下の端には、誰も使っていない机が壁に寄せられている。
花宮依央は、雑部の部室前で一度だけ制服の袖を払った。
「依央、気合い入ってる?」
隣の晴臣が、にやにやしながら言う。
「入ってない」
「袖、二回払った」
「旧校舎のほこり対策」
「顔も整えた」
「晴臣、ほんと黙れ」
「はいはい。雑部の姫、今日も出勤」
「その呼び方、まじで腹立つ」
依央は扉を開けた。
「お疲れさまです」
部室には、久我燈真がいた。机の上には工具箱と、古い鍵の束。黒板には、窓鍵確認、棚のがたつき、工具箱整理、とだけ書いてある。
地味だった。
もう見慣れてきたのが怖いくらい、ちゃんと地味だった。
(はい来た。今日の地味セット。窓鍵、棚、工具箱。映え、ゼロ。男子校の姫が戦う相手として渋すぎる。いや戦うな。作業しろ俺)
燈真は顔を上げた。
「来た」
「来ました」
「窓、見る」
「はい」
「花宮はこっち」
「俺、窓係ですか?」
「うん。背、届くから」
晴臣が横で笑った。
「姫、窓係」
「晴臣、工具箱に詰めるぞ」
「物騒」
燈真は工具箱から小さな布を取り出し、依央に渡した。
「鍵まわり、軽く拭いて」
「分かりました」
「強くやらなくていい」
「はい」
「花宮、丁寧そうだから」
依央は布を受け取る手を一瞬止めた。
(出た。丁寧そう。雑な褒め。なのにちょっと残るやつ。何その低温火力。久我くん、何でもない顔で言うな。こっちは今、布一枚で若干やられてる)
晴臣がすかさず覗き込んだ。
「依央、布で負けた?」
「負けてない」
「布、握りしめてる」
「すべっただけ」
「布が?」
「晴臣の口もすべってる」
「うまい返しみたいにするな」
窓枠は思ったより古かった。鍵の根元にほこりがたまり、少しだけ動きが固い。依央が布で拭くと、燈真が隣で鍵を回して確認する。
距離が近い。
肩が触れるほどではない。けれど、同じ窓をのぞき込むには近い。燈真の袖が視界の端に入る。指が鍵にかかる。動きが静かで、迷いがない。
(近い。普通に近い。窓を見る距離ってこんな近かった? いや、窓は悪くない。窓はただそこにあるだけ。悪いのは距離感。あと久我くんの手元。何でそんな静かに動く。音を出せ。こっちの心臓だけうるさい)
「花宮」
「はい」
「そこ、もう少し下」
「ここですか?」
「うん」
燈真の指が、依央の指のすぐ横を示した。
触れてはいない。触れてはいないのに、近い。布を持つ指先が、急に自分のものじゃないみたいにぎこちなくなる。
「……こうですか?」
「そう。上手い」
キュン♡
依央は布を窓枠に押しつけたまま、少しだけ固まった。
(はい無理。上手い、来た。しかも近距離。窓枠相手に何で俺がやられてる? 意味分かんない。俺は今、木を拭いている。木。なのに心臓がガチでうるさい)
燈真が顔を向ける。
「強い」
「え?」
「押しすぎ」
「あ」
布の下で、古い木枠が少しだけきしんだ。
依央は慌てて力を抜く。
「すみません」
「壊れてない」
「よかったです」
「顔、焦ってる」
「旧校舎の備品を壊したら大変なので」
「うん」
その「うん」が、どこか笑いを含んでいた。
(今ちょっと笑った? 笑ったよな? 俺が窓枠に本気出しすぎたから? やば。窓枠相手に力みすぎる姫、だいぶ終わってる)
晴臣は少し離れた棚で、がたつきを見ていた。
「依央ー、こっちの棚も姫の力で直して」
「姫に棚を直させるな」
「雑部の姫だし」
「その肩書き、絶対に認めない」
「でも窓拭いてるぞ」
「作業として」
「顔は恋してるけど」
「してない。晴臣、ほんと一回黙れ」
燈真が窓鍵を回しながら、ぼそっと言った。
「うるさいの、いつもの?」
依央は布を握ったまま、振り返った。
「今のは晴臣が悪いです」
「うん」
「俺は普通です」
「そう」
「流しましたね」
「少し」
(またそれ。少しって何。無関心っぽいくせに、刺すとこだけ雑に近い。腹立つ。しかも俺、普通って言った直後に全然普通じゃない。終わった)
窓の確認が終わると、次は棚だった。
古い棚は、扉が少しだけ浮いている。中には余った掲示紙、古いクリップ、何に使うのか分からない紐が入っていた。燈真は工具箱からドライバーを取り出し、蝶番のねじを確認する。
依央は横で棚の扉を押さえた。
「これ、押さえてればいいですか?」
「うん。手、ここ」
燈真が短く言い、依央の手元の位置を直す。
今度は、指の背がほんの少しだけ触れた。
一瞬。
本当に一瞬だった。
けれど依央の中では、棚の扉どころではなくなった。
(触った。今、触った。事故。作業。棚。分かってる。分かってるけど、指。指だぞ。何でこんな一瞬で心臓が走るんだよ。ガチでだるい)
燈真は何も気にしていない顔で、ねじを回している。
「動かすなよ」
「はい」
「危ないから」
「分かってます」
「花宮、力入りそう」
「入りません」
「さっき窓で入ってた」
「……今度は大丈夫です」
晴臣が後ろで笑いをこらえた。
「依央、窓に本気出したの?」
「晴臣」
「はい」
「棚の中に入る?」
「無理」
「じゃあ黙って」
燈真はねじを締め直し、棚の扉をゆっくり動かした。さっきより音が軽い。
「直った」
「早いですね」
「これくらいなら」
「久我くん、こういうの慣れてますね」
「まあ」
「雑部っぽい」
「花宮も慣れる」
「俺も?」
「うん」
燈真は工具箱を閉めながら、何でもない顔で言った。
「手、きれいだから、細かいの向いてる」
ズキュン♡♡
依央は、棚の扉を押さえたまま完全に止まった。
(待って。手、きれい。今、手きれいって言った? 言ったよな? 細かいの向いてるの前に、手きれいって言ったよな? 無理。やば。今のはダメ。久我くん、それは普通にダメ)
晴臣が、すごく楽しそうな顔で依央を見た。
「依央」
「何」
「顔、棚よりゆるんでる」
「黙れ」
「手、きれいだって」
「聞こえてる!」
言ってから、依央は自分の声が思ったより大きかったことに気づいた。
燈真がこちらを見る。
「聞こえてたならいい」
「……そうですね」
「うん」
(よくない。全然よくない。何でそんな普通に受ける。俺だけ大事件みたいになってるの、まじで腹立つ。久我くん、省エネで爆弾置くな)
作業が一段落すると、部室の机に三人分のマドレーヌが置かれた。燈真が購買でもらってきた余りだという。依央は前のことを思い出して、少しだけ袋を警戒した。
晴臣がすぐ取る。
「久我、今日も余り?」
「うん」
「ありがと」
依央も一つ手に取った。
「ありがとうございます」
「うん」
燈真は自分の分を開けながら、ふと依央の手元を見た。
「今日、手、赤い」
依央は反射で指を隠しかけた。
「窓を拭いたので」
「痛い?」
「痛くないです」
「ならいい」
その言い方は、さっきまでより少しだけ静かだった。
依央は袋を開ける手を止めた。
燈真の声が普通にやさしかったからだ。近くもない。甘い台詞でもない。ただ、痛いかどうかを見ているだけ。
それなのに、胸の奥がじわっと熱くなる。
「……ありがとうございます」
「うん」
晴臣はマドレーヌを食べながら、珍しく何も言わなかった。茶化すには、少しだけ空気が違っていた。
依央は指先を見た。たしかに少し赤い。たいしたことはない。けれど燈真は見ていた。
(何でそういうとこ見るんだよ。雑に見て、雑に刺してくるくせに、こういう時だけちゃんと見る。やば。これは笑いにしづらい。腹立つのに、ちょっと……いや、考えるな)
沈黙を破ったのは、晴臣だった。
「旧校舎の窓、手強かったな」
「晴臣、急にまともなこと言うな」
「照れてんのをごまかした」
「台なし」
「ごめん」
燈真が少しだけ笑った。
その笑いで、空気が軽く戻った。
依央はマドレーヌを一口食べる。安い甘さなのに、作業後だと妙においしい。
「雑部、差し入れだけは悪くないですね」
「だけ?」
燈真が聞く。
依央は一瞬だけ考えて、外向きすぎない顔で笑った。
「作業も、少しだけ」
燈真は、マドレーヌの袋を丸めながらうなずいた。
「ならよかった」
依央はマドレーヌを持つ手を少しだけ止めた。
(はい出た。ならよかった。短い。軽い。なのに、ちょっと残る。さっきの静かなやつで油断したところにこれ。久我くん、まじでタイミングがえぐい)
晴臣がにやっとする。
「依央、今のはどっち?」
「何が」
「作業に刺さった? 久我に刺さった?」
「マドレーヌ」
「菓子のせいにした」
「今日はマドレーヌが強い」
「窓、棚、菓子。敵多いな」
「晴臣も追加で」
「俺も敵になった」
最後に、工具箱の中身を少しだけ整えることになった。
ドライバー、布、細い釘、古いメジャー。燈真が使えるものを分け、依央が箱の中へ戻す。晴臣は横で、いらない紙袋をたたんでいる。
依央がメジャーを戻そうとした時、先端が少し飛び出した。
「あ」
巻き戻る音がして、依央の指先をかすめる前に、燈真の手が上から押さえた。
近い。
また、近い。
燈真の手が、依央の手の上に重なるほど近い。今度は、ほんの少しだけ触れている。
燈真はすぐ離した。
「危ない」
「……すみません」
「手、出しすぎ」
「はい」
「気をつけろ」
その声は短かった。
けれど、さっきのようにからかっていない。心配が少し混じっている。
依央は何も言えなかった。
(うわ。今の、だめ。近いとか、触ったとか、そういうのもあるけど、それより声。普通に心配された。やば。何も返せない。俺、さっきまであんなに内心うるさかったのに、急に言葉どこ行った?)
燈真は工具箱を閉めた。
「終わり」
晴臣が空気を読んだのか読まないのか、軽く手を叩いた。
「おつかれー。今日の依央、窓と棚とメジャーに負けてたな」
「負けてない」
「久我にも負けてた」
「晴臣」
「はい」
「あとで覚えてろ」
「やっぱそれは言えるんだ」
依央は鞄を持ち、部室を出る前にもう一度だけ窓を見た。
さっきまで固かった鍵は、軽く回るようになっている。棚の扉も、変な音を立てずに閉まる。工具箱も、机の端できちんと収まっていた。
地味な変化だ。
けれど、ちゃんと変わっている。
「久我くん」
「何」
「窓、軽くなりましたね」
「うん」
「棚も」
「うん」
「こういうの、ちょっと気持ちいいですね」
燈真は少しだけ依央を見た。
「だろ」
たった二文字。
けれど、その短さに、依央は笑ってしまった。
「はい」
今度は、変な言い訳を探さなかった。
****
帰りの廊下で、晴臣が隣に並ぶ。
「依央、今日はまあまあやばかったな」
「何が」
「久我に近づかれるたび、顔が旧校舎の窓みたいになってた」
「意味分かんない」
「固まってた」
「うるさい」
「でも、ちょっと軽くなった?」
依央は足を止めかけた。
晴臣は前を向いたまま、わざと軽く言っただけの顔をしている。
依央は窓の方を見た。夕方の光が、古いガラスに薄く反射している。
「……知らない」
「出た」
「ほんと黙れ」
晴臣は笑った。
依央は歩き出す。
指先に、さっき燈真が近づいた時の熱が少しだけ残っている気がした。
(窓のせい。棚のせい。メジャーのせい。今日は旧校舎のせいで、全部ちょっと変だった。……ってことにしとく。無理。今はそれでいく)
旧校舎の階段を下りながら、依央は手を軽く握った。
まだ少し、指先が熱かった。
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