9 / 23
第9話 梅雨入りと、濡れた前髪の距離
週明けの白鷺坂高校は、朝から雨の音がしていた。
校庭の白線は薄くなり、窓の外の木々は濡れて濃い緑になっている。二年三組の教室では、黒瀬陸斗が机に突っ伏していた。
「花宮、雨ってテンション下がるな」
「黒瀬、雨の日でも声は下がらないね」
「そこは元気」
「いいことだよ」
「褒めた?」
「たぶん」
黒瀬は少しだけ復活した。
篠宮怜央は、窓際でプリントをそろえながら、湿気で少し反った紙を見ている。
「掲示物、浮きそうだね」
「旧校舎、もっと浮きそう」
「雑部の仕事が増えるかも」
「増えたら、久我くんが静かに見つけそう」
言ってから、依央は自分で少し止まった。
久我燈真の名前が、かなり自然に出た。
(今の、自然すぎた。やば。雑部の仕事イコール久我くん、になってる。俺の脳内、地味男との接続が早い。終わった)
鷹宮蓮が濡れた傘を傘立てに入れ、依央の方を見た。
「花宮、雨の日も雰囲気あるね」
「鷹宮、天気まで褒めに使うの?」
「本当にそう思ったから」
「じゃあ、雨の日仕様として受け取る」
近くの男子が小さく笑った。依央はいつもの顔で受け止める。
雨の日でも、見られることは変わらない。
ただ、前髪が少し重い。
登校中、傘から外れた雨粒が髪の先に残っている。依央は指先で軽く払った。
(雨の日の姫、難易度高い。前髪、湿気、制服の袖。全部ちょっとずつ敵。今日の俺、ちゃんと保ててる? 保ててる。たぶん。いや、久我くんに見られたら怪しい)
****
放課後、花の生徒会では梅雨向けの掲示物を入れ替えていた。
白石千紘は、窓際で湿気を含んだ紙束を手に、落ち着いた声で指示を出している。雨の日の先輩姫は、光が少なくても強かった。髪も声もやわらかいのに、場が整っていく。
「花宮くん、旧校舎の掲示も確認してもらえる?」
「はい。雑部の方で見てきます」
「ありがとう。雨の日は、紙が浮きやすいから」
「ですよね」
千紘は依央の前髪を見て、ふっと笑った。
「少し濡れた?」
依央は指で前髪に触れた。
「傘が負けました」
「ふふ。花宮くんでも雨には勝てないね」
「今日は引き分けくらいにしたいです」
「十分かわいいよ」
キュン♡
依央は掲示物の紙束を受け取る手を一瞬だけ止めた。
(白石先輩のかわいい、今日も強い。雨の日にそれ言うのずるい。清楚の攻撃力、湿気で増してない? いや増してる。絶対増してる)
依央は外向きの笑顔で礼を言い、旧校舎へ向かった。
****
雨の旧校舎は、音が近い。
窓に当たる雨粒。廊下の端で落ちる水滴。少しだけ湿った木の匂い。雑部の部室の前まで来ると、中から晴臣の声が聞こえた。
「久我、これ、紙浮いてるどころじゃないな」
「窓」
「そっちか」
依央は扉を開けた。
「お疲れさまです」
晴臣が振り返る。
「依央、前髪しっとり姫」
「晴臣、第一声がそれ?」
「雨の日っぽい」
「もっと他にあるだろ」
「濡れ髪営業?」
「黙れ」
晴臣は笑って、窓際を指した。
「廊下の掲示、雨で端が浮いてる。あと窓からちょっと入ってる」
「窓から?」
「旧校舎クオリティ」
「言い方」
燈真は窓際にいた。
手には、濡れかけた掲示紙と画鋲の箱。窓枠には細い水の筋ができていて、木の端に水が少したまっている。
「来た」
「来ました」
燈真は依央を見る。
視線が、顔で止まった。
「前髪」
「え?」
「濡れてる」
依央は反射で前髪を押さえた。
「傘が少し足りなかっただけです」
「足りないの、傘?」
「……たぶん」
「ふうん」
(ふうん、じゃない。前髪見られた。雨の日の弱点を即回収された。無理。久我くん、顔を見る時だけ妙に近い。いや距離は近くない。視線が近い。何それ。やば)
晴臣がにやにやする。
「依央、前髪に弱点あり」
「晴臣、今日の湿気と一緒に黙れ」
「湿気扱いされた」
燈真は掲示紙を机に置き、窓の方を見る。
「このままだと、紙が濡れる」
「じゃあ、先に窓ですね」
「うん」
依央は花の生徒会から預かった掲示物を抱えたまま、窓際へ寄った。窓の木枠は湿っていて、外から入った細かい雨が内側に少し散っている。
燈真が窓の鍵に手をかける。
「花宮、紙」
「あ、濡れますか」
「そっち持ってて」
「はい」
依央は掲示物を胸元に抱え、窓際から少し離れようとした。
その瞬間、燈真が短く言った。
「そのまま」
依央の足が止まった。
「……そのまま?」
「動くと紙、窓枠に当たる」
「あ、はい」
燈真は依央のすぐ横へ来た。
本当に、すぐ横。
窓を閉めるためには仕方ない距離だ。依央が掲示物を持っているから、燈真が前を通るしかない。そう分かっている。
分かっているのに、近い。
雨の匂いと、湿った制服の匂いと、燈真の袖が視界の端に入る。
(そのまま、って何。いや、紙。掲示物。窓枠に当たるから。分かってる。分かってるけど、動くなって言われるの、だいぶきつい。近い。雨より近い。無理)
燈真が窓に手を伸ばした。
依央の肩のすぐ横を、燈真の腕が通る。触れてはいない。けれど、腕の動きに合わせて空気が少し動く。前髪の先が、雨を含んで頬に触れた。
窓が、ぎ、と小さく鳴って閉まる。
雨の音が、少し遠くなった。
「閉まった」
「ありがとうございます」
依央は掲示物を抱えたまま、息を吐こうとした。
その時、燈真が依央を見た。
「濡れた」
「窓ですか?」
「花宮」
依央は一瞬、返事を忘れた。
燈真の視線は、前髪にある。いつもの適当な顔ではない。少しだけ真剣な顔。雨で光の少ない廊下の中、その顔が妙にはっきり見えた。
依央の胸の奥が、変な音を立てた気がした。
「……俺ですか」
「うん」
「大丈夫です。少しなので」
「顔、隠れてる」
依央は固まった。
燈真は近づいたまま、依央の前髪を見ている。ふざけた声ではない。からかう感じでもない。真剣な顔のまま、短くそう言った。
顔、隠れてる。
その言い方が、依央の頭の中でうまく処理できなかった。
(え。何、今の。顔? 隠れてる? 何でそんな顔で言うの。待って。近い。真剣。今どういうこと? 前髪? 顔? 俺、何される? いや、前髪だろ。分かれ。分かれ俺)
燈真の指が、依央の前髪に触れた。
軽く。
濡れて頬にかかっていた髪を、横へ流すだけ。
数秒もなかった。
けれど依央は、何もできなかった。目をそらすことも、笑うことも、いつもの外向きの顔を作ることもできなかった。
燈真の指が離れる。
「見えないから」
依央は、さらに混乱した。
「……見えない、から」
「うん」
「顔が、ですか」
「うん」
燈真は当たり前みたいにうなずいた。
甘い意味ではない。
たぶん、本当に顔がよく見えなかっただけだ。前髪で隠れていたから、直した。燈真の中ではそれだけ。
それだけなのに、依央の中では何かが大きくずれている。
(見えないから。そう。見えないから。顔が見えないから直しただけ。分かる。分かるけど、それ言う? そんな真剣な顔で? 無理。俺だけ大事件になってる。やば。まじで何これ)
「……ありがとうございます」
やっと声が出た。
思ったより小さかった。
燈真は少しだけ目をそらした。
「うん」
依央は、しばらく燈真の方を見なかった。
見たら、さっきの真剣な顔を思い出す。前髪に触れた指の軽さも、見えないから、という声も、また全部戻ってくる。
なのに、掲示物を抱え直しながら、視界の端で燈真の動きを探している自分がいた。
見られるとやばい。
見られていないのも、少しだけ気になる。
(どっちだよ、俺。顔見られたら終わるのに、見てないと落ち着かないって何。雨の日の俺、処理がだいぶ終わってる)
晴臣は後ろにいたが、何も言わなかった。
珍しく。
雨音だけが、廊下に落ちる。
依央は掲示物を抱えたまま、動けずにいた。
紙が少しだけ胸元で鳴った。その音で、ようやく自分が力を入れていたことに気づく。
「花宮」
燈真が低く呼んだ。
「はい」
「紙、しわになる」
「……あ」
依央は慌てて力をゆるめた。
燈真はほんの少しだけ笑った。
「そっちは見えてない」
依央は掲示物を持ち直した。
「今のは、窓の確認に集中していたので」
「窓、もう閉めた」
「掲示物の安全確認です」
「そっか」
(そっか、じゃない。絶対ちょっと笑った。今のは助かったけど、さっきのが残ってる。前髪、まだ変な感じする。久我くんの指、軽かったのに重い。意味分かんない)
晴臣が、そこでようやく口を開いた。
「雨の日の雑部、たまに黙るな」
「お前が黙ってたからだろ」
依央が返すと、晴臣はにやっとした。
「今の茶化したら、俺でも空気読めなさすぎだろ」
「自覚あったんだ」
「たまにはある」
「たまには」
「何だよ」
燈真は掲示物をまとめながら、短く言った。
「榎本、古い紙」
「はいはい」
「花宮、新しい方」
「はい」
そのまま、三人で廊下の掲示を直していく。
****
晴臣の軽口が戻ると、少し空気も戻った。依央は掲示物を渡す。燈真は受け取り、浮いた端を直す。窓は閉まっているのに、依央の前髪のあたりだけ、まだ雨の気配が残っている気がした。
「花宮」
「はい」
「そこ、押さえて」
「ここですか」
「うん」
依央が紙の端を押さえると、燈真がそのすぐ横に画鋲を刺した。
近い。
さっきよりは近くない。けれど、一度距離を詰められたあとだと、普通の作業距離まで変に意識してしまう。
(だめだ。距離感バグった。さっきのせいで、掲示紙の横にいるだけでも近く感じる。雨、ずるい。窓、ずるい。前髪、もっとちゃんと働け。いや働くな)
燈真が、ふと依央の前髪をもう一度見た。
依央は反射で自分の髪に触れた。
「また変ですか」
「いや」
「じゃあ見ないでください」
「無理」
依央は紙を押さえる手を少しだけ止めた。
「……無理、ですか」
「目に入る」
「目に」
「うん」
「それは、前髪がですか」
「花宮が」
依央は今度こそ何も言えなかった。
燈真はすぐ、画鋲の箱へ視線を落とす。
「押さえて」
「……はい」
(待って。花宮が目に入る? 何それ。何その言い方。たぶん物理。視界にいるってこと。分かってる。分かってるけど、順番が悪い。今日の久我くん、言葉の置き方がえぐい)
晴臣が横から、小さく吹き出した。
「依央、雨の日の処理能力よわ」
「晴臣」
「はい」
「水たまりに沈める」
「物騒」
「今日の俺は湿気で荒れてる」
「それは分かる」
「分かるな」
掲示物の確認が終わる頃、雨は少し弱くなっていた。
旧校舎の窓には細い水滴が残っている。廊下の端から見える校庭は、白く煙っていて、いつもの広さより少し遠く見えた。
****
依央は部室に戻り、濡れた掲示紙を机に置いた。
燈真は窓際の水を雑巾で軽く拭き取り、窓の鍵をもう一度確認した。依央はその手元を見る。
「久我くん」
「何」
「窓、古いですね」
「うん」
「よく気づきましたね。水、入ってたの」
「音」
「音?」
「ぽたって」
「それで分かったんですか」
「うん」
依央は窓枠を見る。小さな水たまり。気にしなければ見過ごしそうな量。
燈真はそれを見つけて、閉めて、前髪まで見た。
(見つけすぎ。音も、水も、紙も、前髪も。久我くん、見えてる範囲が広すぎる。俺はさっき、自分の心臓すら見失ってたのに。差がえぐい)
燈真が雑巾を置いた。
「花宮」
「はい」
「顔、まだ赤い」
依央は即座に窓の外を見た。
「湿気です」
「湿気で?」
「雨の日なので」
「そっか」
「その顔、絶対信じてないですよね」
「少し」
(出た。少し。雨の日でも通常運転。よかった。いや、よくない。顔赤いのバレてる。湿気のせいで通したい。通れ。頼む)
晴臣が古い紙をまとめながら言う。
「湿気で顔赤くなる姫、なかなか珍しいな」
「晴臣」
「はい」
「お前はカビる」
「俺、湿気に負けるの?」
「負けろ」
「ひど」
少しだけ笑いが戻った。
そのおかげで、依央もやっと息がしやすくなった。
****
帰る頃には、雨はほとんど霧みたいになっていた。
傘を差すほどではない。けれど差さないと少し濡れる。そんな中途半端な雨。
依央は昇降口で傘を開いた。燈真も隣で、黒い傘を広げる。晴臣は少し先で、別の友人に呼ばれて手を振っていた。
「花宮」
「はい」
「前髪、また濡れる」
「傘をちゃんと差します」
「うん」
「窓際にも立ちません」
燈真が少しだけ笑った。
依央は傘の柄を握り直した。
「今日の窓はもう十分です」
「そう?」
「はい」
「俺は、顔見えたからいいけど」
依央は足を止めた。
燈真は、言ってから特に何も足さない。傘を差して、普通に雨の中へ出ていく。
依央だけが、昇降口に一瞬取り残された。
(顔見えたからいい。何それ。言い方。言い方がもうアウト。いや、本人は前髪の話。見えなかったから直して、見えたからいい。それだけ。分かってる。分かってるのに、無理。今日の久我くん、雨でバグってる。俺もバグってる)
「依央ー」
先に出た晴臣が振り返る。
「置いてくぞ」
「今行く」
依央は傘を差して、雨の中へ出た。
旧校舎の窓には、まだ雨粒が残っている。
依央は前髪に触れ、燈真に流された場所を指先で確かめかけて、すぐにやめた。
そのかわり、傘を少し深く差す。
雨の音が、さっきより少しだけ近く聞こえた。
ともだちにシェアしよう!

