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第9話 梅雨入りと、濡れた前髪の距離

週明けの白鷺坂高校は、朝から雨の音がしていた。 校庭の白線は薄くなり、窓の外の木々は濡れて濃い緑になっている。二年三組の教室では、黒瀬陸斗が机に突っ伏していた。 「花宮、雨ってテンション下がるな」 「黒瀬、雨の日でも声は下がらないね」 「そこは元気」 「いいことだよ」 「褒めた?」 「たぶん」 黒瀬は少しだけ復活した。 篠宮怜央は、窓際でプリントをそろえながら、湿気で少し反った紙を見ている。 「掲示物、浮きそうだね」 「旧校舎、もっと浮きそう」 「雑部の仕事が増えるかも」 「増えたら、久我くんが静かに見つけそう」 言ってから、依央は自分で少し止まった。 久我燈真の名前が、かなり自然に出た。 (今の、自然すぎた。やば。雑部の仕事イコール久我くん、になってる。俺の脳内、地味男との接続が早い。終わった) 鷹宮蓮が濡れた傘を傘立てに入れ、依央の方を見た。 「花宮、雨の日も雰囲気あるね」 「鷹宮、天気まで褒めに使うの?」 「本当にそう思ったから」 「じゃあ、雨の日仕様として受け取る」 近くの男子が小さく笑った。依央はいつもの顔で受け止める。 雨の日でも、見られることは変わらない。 ただ、前髪が少し重い。 登校中、傘から外れた雨粒が髪の先に残っている。依央は指先で軽く払った。 (雨の日の姫、難易度高い。前髪、湿気、制服の袖。全部ちょっとずつ敵。今日の俺、ちゃんと保ててる? 保ててる。たぶん。いや、久我くんに見られたら怪しい) **** 放課後、花の生徒会では梅雨向けの掲示物を入れ替えていた。 白石千紘は、窓際で湿気を含んだ紙束を手に、落ち着いた声で指示を出している。雨の日の先輩姫は、光が少なくても強かった。髪も声もやわらかいのに、場が整っていく。 「花宮くん、旧校舎の掲示も確認してもらえる?」 「はい。雑部の方で見てきます」 「ありがとう。雨の日は、紙が浮きやすいから」 「ですよね」 千紘は依央の前髪を見て、ふっと笑った。 「少し濡れた?」 依央は指で前髪に触れた。 「傘が負けました」 「ふふ。花宮くんでも雨には勝てないね」 「今日は引き分けくらいにしたいです」 「十分かわいいよ」 キュン♡ 依央は掲示物の紙束を受け取る手を一瞬だけ止めた。 (白石先輩のかわいい、今日も強い。雨の日にそれ言うのずるい。清楚の攻撃力、湿気で増してない? いや増してる。絶対増してる) 依央は外向きの笑顔で礼を言い、旧校舎へ向かった。 **** 雨の旧校舎は、音が近い。 窓に当たる雨粒。廊下の端で落ちる水滴。少しだけ湿った木の匂い。雑部の部室の前まで来ると、中から晴臣の声が聞こえた。 「久我、これ、紙浮いてるどころじゃないな」 「窓」 「そっちか」 依央は扉を開けた。 「お疲れさまです」 晴臣が振り返る。 「依央、前髪しっとり姫」 「晴臣、第一声がそれ?」 「雨の日っぽい」 「もっと他にあるだろ」 「濡れ髪営業?」 「黙れ」 晴臣は笑って、窓際を指した。 「廊下の掲示、雨で端が浮いてる。あと窓からちょっと入ってる」 「窓から?」 「旧校舎クオリティ」 「言い方」 燈真は窓際にいた。 手には、濡れかけた掲示紙と画鋲の箱。窓枠には細い水の筋ができていて、木の端に水が少したまっている。 「来た」 「来ました」 燈真は依央を見る。 視線が、顔で止まった。 「前髪」 「え?」 「濡れてる」 依央は反射で前髪を押さえた。 「傘が少し足りなかっただけです」 「足りないの、傘?」 「……たぶん」 「ふうん」 (ふうん、じゃない。前髪見られた。雨の日の弱点を即回収された。無理。久我くん、顔を見る時だけ妙に近い。いや距離は近くない。視線が近い。何それ。やば) 晴臣がにやにやする。 「依央、前髪に弱点あり」 「晴臣、今日の湿気と一緒に黙れ」 「湿気扱いされた」 燈真は掲示紙を机に置き、窓の方を見る。 「このままだと、紙が濡れる」 「じゃあ、先に窓ですね」 「うん」 依央は花の生徒会から預かった掲示物を抱えたまま、窓際へ寄った。窓の木枠は湿っていて、外から入った細かい雨が内側に少し散っている。 燈真が窓の鍵に手をかける。 「花宮、紙」 「あ、濡れますか」 「そっち持ってて」 「はい」 依央は掲示物を胸元に抱え、窓際から少し離れようとした。 その瞬間、燈真が短く言った。 「そのまま」 依央の足が止まった。 「……そのまま?」 「動くと紙、窓枠に当たる」 「あ、はい」 燈真は依央のすぐ横へ来た。 本当に、すぐ横。 窓を閉めるためには仕方ない距離だ。依央が掲示物を持っているから、燈真が前を通るしかない。そう分かっている。 分かっているのに、近い。 雨の匂いと、湿った制服の匂いと、燈真の袖が視界の端に入る。 (そのまま、って何。いや、紙。掲示物。窓枠に当たるから。分かってる。分かってるけど、動くなって言われるの、だいぶきつい。近い。雨より近い。無理) 燈真が窓に手を伸ばした。 依央の肩のすぐ横を、燈真の腕が通る。触れてはいない。けれど、腕の動きに合わせて空気が少し動く。前髪の先が、雨を含んで頬に触れた。 窓が、ぎ、と小さく鳴って閉まる。 雨の音が、少し遠くなった。 「閉まった」 「ありがとうございます」 依央は掲示物を抱えたまま、息を吐こうとした。 その時、燈真が依央を見た。 「濡れた」 「窓ですか?」 「花宮」 依央は一瞬、返事を忘れた。 燈真の視線は、前髪にある。いつもの適当な顔ではない。少しだけ真剣な顔。雨で光の少ない廊下の中、その顔が妙にはっきり見えた。 依央の胸の奥が、変な音を立てた気がした。 「……俺ですか」 「うん」 「大丈夫です。少しなので」 「顔、隠れてる」 依央は固まった。 燈真は近づいたまま、依央の前髪を見ている。ふざけた声ではない。からかう感じでもない。真剣な顔のまま、短くそう言った。 顔、隠れてる。 その言い方が、依央の頭の中でうまく処理できなかった。 (え。何、今の。顔? 隠れてる? 何でそんな顔で言うの。待って。近い。真剣。今どういうこと? 前髪? 顔? 俺、何される? いや、前髪だろ。分かれ。分かれ俺) 燈真の指が、依央の前髪に触れた。 軽く。 濡れて頬にかかっていた髪を、横へ流すだけ。 数秒もなかった。 けれど依央は、何もできなかった。目をそらすことも、笑うことも、いつもの外向きの顔を作ることもできなかった。 燈真の指が離れる。 「見えないから」 依央は、さらに混乱した。 「……見えない、から」 「うん」 「顔が、ですか」 「うん」 燈真は当たり前みたいにうなずいた。 甘い意味ではない。 たぶん、本当に顔がよく見えなかっただけだ。前髪で隠れていたから、直した。燈真の中ではそれだけ。 それだけなのに、依央の中では何かが大きくずれている。 (見えないから。そう。見えないから。顔が見えないから直しただけ。分かる。分かるけど、それ言う? そんな真剣な顔で? 無理。俺だけ大事件になってる。やば。まじで何これ) 「……ありがとうございます」 やっと声が出た。 思ったより小さかった。 燈真は少しだけ目をそらした。 「うん」 依央は、しばらく燈真の方を見なかった。 見たら、さっきの真剣な顔を思い出す。前髪に触れた指の軽さも、見えないから、という声も、また全部戻ってくる。 なのに、掲示物を抱え直しながら、視界の端で燈真の動きを探している自分がいた。 見られるとやばい。 見られていないのも、少しだけ気になる。 (どっちだよ、俺。顔見られたら終わるのに、見てないと落ち着かないって何。雨の日の俺、処理がだいぶ終わってる) 晴臣は後ろにいたが、何も言わなかった。 珍しく。 雨音だけが、廊下に落ちる。 依央は掲示物を抱えたまま、動けずにいた。 紙が少しだけ胸元で鳴った。その音で、ようやく自分が力を入れていたことに気づく。 「花宮」 燈真が低く呼んだ。 「はい」 「紙、しわになる」 「……あ」 依央は慌てて力をゆるめた。 燈真はほんの少しだけ笑った。 「そっちは見えてない」 依央は掲示物を持ち直した。 「今のは、窓の確認に集中していたので」 「窓、もう閉めた」 「掲示物の安全確認です」 「そっか」 (そっか、じゃない。絶対ちょっと笑った。今のは助かったけど、さっきのが残ってる。前髪、まだ変な感じする。久我くんの指、軽かったのに重い。意味分かんない) 晴臣が、そこでようやく口を開いた。 「雨の日の雑部、たまに黙るな」 「お前が黙ってたからだろ」 依央が返すと、晴臣はにやっとした。 「今の茶化したら、俺でも空気読めなさすぎだろ」 「自覚あったんだ」 「たまにはある」 「たまには」 「何だよ」 燈真は掲示物をまとめながら、短く言った。 「榎本、古い紙」 「はいはい」 「花宮、新しい方」 「はい」 そのまま、三人で廊下の掲示を直していく。 **** 晴臣の軽口が戻ると、少し空気も戻った。依央は掲示物を渡す。燈真は受け取り、浮いた端を直す。窓は閉まっているのに、依央の前髪のあたりだけ、まだ雨の気配が残っている気がした。 「花宮」 「はい」 「そこ、押さえて」 「ここですか」 「うん」 依央が紙の端を押さえると、燈真がそのすぐ横に画鋲を刺した。 近い。 さっきよりは近くない。けれど、一度距離を詰められたあとだと、普通の作業距離まで変に意識してしまう。 (だめだ。距離感バグった。さっきのせいで、掲示紙の横にいるだけでも近く感じる。雨、ずるい。窓、ずるい。前髪、もっとちゃんと働け。いや働くな) 燈真が、ふと依央の前髪をもう一度見た。 依央は反射で自分の髪に触れた。 「また変ですか」 「いや」 「じゃあ見ないでください」 「無理」 依央は紙を押さえる手を少しだけ止めた。 「……無理、ですか」 「目に入る」 「目に」 「うん」 「それは、前髪がですか」 「花宮が」 依央は今度こそ何も言えなかった。 燈真はすぐ、画鋲の箱へ視線を落とす。 「押さえて」 「……はい」 (待って。花宮が目に入る? 何それ。何その言い方。たぶん物理。視界にいるってこと。分かってる。分かってるけど、順番が悪い。今日の久我くん、言葉の置き方がえぐい) 晴臣が横から、小さく吹き出した。 「依央、雨の日の処理能力よわ」 「晴臣」 「はい」 「水たまりに沈める」 「物騒」 「今日の俺は湿気で荒れてる」 「それは分かる」 「分かるな」 掲示物の確認が終わる頃、雨は少し弱くなっていた。 旧校舎の窓には細い水滴が残っている。廊下の端から見える校庭は、白く煙っていて、いつもの広さより少し遠く見えた。 **** 依央は部室に戻り、濡れた掲示紙を机に置いた。 燈真は窓際の水を雑巾で軽く拭き取り、窓の鍵をもう一度確認した。依央はその手元を見る。 「久我くん」 「何」 「窓、古いですね」 「うん」 「よく気づきましたね。水、入ってたの」 「音」 「音?」 「ぽたって」 「それで分かったんですか」 「うん」 依央は窓枠を見る。小さな水たまり。気にしなければ見過ごしそうな量。 燈真はそれを見つけて、閉めて、前髪まで見た。 (見つけすぎ。音も、水も、紙も、前髪も。久我くん、見えてる範囲が広すぎる。俺はさっき、自分の心臓すら見失ってたのに。差がえぐい) 燈真が雑巾を置いた。 「花宮」 「はい」 「顔、まだ赤い」 依央は即座に窓の外を見た。 「湿気です」 「湿気で?」 「雨の日なので」 「そっか」 「その顔、絶対信じてないですよね」 「少し」 (出た。少し。雨の日でも通常運転。よかった。いや、よくない。顔赤いのバレてる。湿気のせいで通したい。通れ。頼む) 晴臣が古い紙をまとめながら言う。 「湿気で顔赤くなる姫、なかなか珍しいな」 「晴臣」 「はい」 「お前はカビる」 「俺、湿気に負けるの?」 「負けろ」 「ひど」 少しだけ笑いが戻った。 そのおかげで、依央もやっと息がしやすくなった。 **** 帰る頃には、雨はほとんど霧みたいになっていた。 傘を差すほどではない。けれど差さないと少し濡れる。そんな中途半端な雨。 依央は昇降口で傘を開いた。燈真も隣で、黒い傘を広げる。晴臣は少し先で、別の友人に呼ばれて手を振っていた。 「花宮」 「はい」 「前髪、また濡れる」 「傘をちゃんと差します」 「うん」 「窓際にも立ちません」 燈真が少しだけ笑った。 依央は傘の柄を握り直した。 「今日の窓はもう十分です」 「そう?」 「はい」 「俺は、顔見えたからいいけど」 依央は足を止めた。 燈真は、言ってから特に何も足さない。傘を差して、普通に雨の中へ出ていく。 依央だけが、昇降口に一瞬取り残された。 (顔見えたからいい。何それ。言い方。言い方がもうアウト。いや、本人は前髪の話。見えなかったから直して、見えたからいい。それだけ。分かってる。分かってるのに、無理。今日の久我くん、雨でバグってる。俺もバグってる) 「依央ー」 先に出た晴臣が振り返る。 「置いてくぞ」 「今行く」 依央は傘を差して、雨の中へ出た。 旧校舎の窓には、まだ雨粒が残っている。 依央は前髪に触れ、燈真に流された場所を指先で確かめかけて、すぐにやめた。 そのかわり、傘を少し深く差す。 雨の音が、さっきより少しだけ近く聞こえた。

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