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第10話 髪を褒められた姫と、幼馴染の秘密

雨が続くと、二年三組の教室は少しだけ湿った匂いになる。 窓の外は白くけぶっていて、校庭には細い水たまりができていた。昼休み前の教室では、黒瀬陸斗が弁当を片手に、なぜかもう試合前みたいな顔をしている。 「花宮!」 「黒瀬、今日は何に燃えてるの」 「部活大会!」 「雨でも燃えるね」 「体育館だからな!」 「なるほど。天気に勝った」 黒瀬は嬉しそうにうなずいた。 「応援来るよな?」 「試合時間、花の生徒会とかぶってなければ」 「かぶるな!」 「俺に言われても」 「花宮が来たら、勝てる気する」 「俺、部活の御守りじゃないよ」 「赤組の花だったし!」 「それ言うの早い」 篠宮怜央が、黒瀬の横で部活大会の組み合わせ表を見ながら静かに言った。 「黒瀬、まず初戦の相手を見た方がいい」 「見る!」 「あと、花宮を呼ぶ前に集合時間」 「篠宮、冷静!」 「必要だから」 依央は笑った。 鷹宮蓮は窓際で、濡れた傘のしずくを払ってから依央を見る。 「花宮が応援に来るなら、体育館の空気も明るくなりそうだね」 「鷹宮、体育館まで褒めに使うの?」 「本当にそう思ったから」 「じゃあ、行けたら明るくします」 教室の男子たちが軽く笑う。依央はその空気を受けて、いつもの姫顔を整えた。 (はい、雨の日でも二年三組は元気。黒瀬は燃えるし、篠宮は整えるし、鷹宮は褒める。俺もちゃんと笑える。……前髪のことは忘れろ。窓際のことも忘れろ。無理だけど) 窓の水滴。 旧校舎の近さ。 顔、隠れてる。 見えないから。 その言葉が、雨を見るたびに少しだけ戻ってくる。 依央は前髪に触れかけて、やめた。 (触るな。思い出す。やば。久我くんに直された場所、まだ自分で確認しそうになるの、ガチできつい) **** 昼休みの終わり、依央は花の生徒会へ向かった。 委員会室では、地域ボランティア参加案内と学校見学の掲示準備が進んでいた。紙束、付箋、クリップ。雨の日でも、白石千紘は相変わらず場を静かに整えている。 「花宮くん、こっちお願いできる?」 「はい」 依央は掲示カードを受け取り、色ごとに並べた。千紘は横からそれを見て、やわらかく笑う。 「花宮くん、髪、今日きれいに流れてるね」 依央の手が止まった。 「え」 「雨の日なのに、ちゃんと整ってる」 千紘はただ自然に言った。何も知らない顔で。もちろん、何も知らない。けれど依央の中では、旧校舎の雨が一気に戻ってきた。 燈真の指。 前髪。 見えないから。 (待て。今それ褒める? 白石先輩、今その話題は強い。俺の前髪、昨日の件で完全に大渋滞なんだけど。いや、顔には出すな。ここは花の生徒会。俺、姫。保て) 依央はどうにか笑顔を作った。 「ありがとうございます。湿気に勝てるように頑張りました」 「ふふ。努力が見えるね」 「白石先輩に言われると、ちょっと自信つきます」 「本当に似合ってるよ」 キュン♡ 依央はカードの端を少しだけ強く押さえた。 (勝った) 何に勝ったのかは分からない。白石千紘は勝負をしていない。そもそも、今のは先輩が後輩を褒めただけだ。 それでも、先輩姫に髪を褒められた。 しかも、自分だけ勝手に大事件にしていた前髪を。 (これは勝ち寄りの勝ち。何に? 知らん。でも今、俺の髪は白石先輩公認。強い。めちゃくちゃ強い) **** 放課後、依央はその勢いのまま雑部へ向かった。 部室には、晴臣と燈真がいた。晴臣は古いクリップの箱を閉じ、燈真は掲示物の確認表を見ている。 依央は扉を開けるなり、机に紙束を置いた。 「白石先輩に勝ったかもしれない」 晴臣がものすごく嫌そうな顔をした。 「最初の一言がこわい」 燈真は確認表から顔を上げる。 「何で」 「髪を褒められた」 「それで勝ち?」 「白石先輩だぞ? あの清楚の権化みたいな人に、髪、きれいに流れてるねって言われたんだぞ? これはもう勝ち。かなり勝ち」 晴臣は一瞬、口を開きかけて、妙な顔で止まった。 「千紘さんは、そういう勝ち負けで見てないだろ」 部室の空気が止まった。 依央は、机に置いた手をそのままにした。 燈真も、確認表を持つ手を止めた。 晴臣だけが、自分の口から出た言葉に数秒遅れて気づいた顔をしている。 「……今、なんて? 千紘さんって、下の名前だけど……」 依央がゆっくり聞くと、晴臣は視線を横へずらした。 「いや」 「晴臣」 「その」 「榎本」 燈真の声は短かった。 晴臣は、観念したように椅子へ腰を落とした。 「……白石先輩と付き合ってる。去年の秋から」 依央は目を細めた。 「誰が」 「俺が」 「誰と」 「白石先輩と」 「白石千紘先輩と?」 「そう」 「花の生徒会の?」 「そう」 「清楚型姫の?」 「言い方」 依央は椅子を引いて座った。頭の中が、かなり騒がしい。 (待って。情報量えぐい。俺の幼馴染、いつの間に先輩姫と付き合ってんの。去年の秋? 何それ。俺の知らないところで青春してた? 晴臣が? 白石先輩と? 世界、急に知らない顔するじゃん) 晴臣は耳まで赤くして、机に片肘をついた。 「黙ってたのは悪かった。でも、学校では言えないし、千紘さんにも立場あるし」 「千紘さん」 依央はそこだけ拾った。 晴臣が肩を跳ねさせる。 「今そこ拾うな」 燈真は静かに晴臣を見ていた。 「ほんとに?」 「ほんと」 「白石先輩が、榎本を?」 「そこ疑うなよ、久我」 「いや」 燈真は少しだけ間を置いた。 「すごいなと思って」 晴臣は驚いたように顔を上げた。 依央も、少しだけ黙った。 白石千紘が、晴臣を選んだ。 その言葉を頭の中で転がすと、意外なほどすとんと落ちた。晴臣はうるさい。茶化す。余計なところまで見る。けれど、人の変化にはちゃんと気づくし、好きな相手を雑に扱うような奴ではない。 (そっか。白石先輩、ちゃんと見てるんだ。晴臣のそういうところ。俺の幼馴染、見る目ある人に選ばれてる。……なんか、こっちが変に照れる。照れるの俺じゃないのに。何これ) その時、ふと、いくつかの言葉が頭をよぎった。 顔。 字、疲れてる。 顔、隠れてる。 見えないから。 燈真が何気なく置いていった短い言葉ばかりだった。依央が整えた笑顔ではなく、ノートの端や、手元や、濡れた前髪や、変に固まった顔を拾ってきた言葉。 白石千紘が晴臣をちゃんと見ている。 それが分かった瞬間、依央はなぜか、燈真の視線まで思い出してしまった。 (……あれも、見てるってことなのかな。いや、違う。今は晴臣の話。白石先輩の話。混ぜるな俺。やば) 依央はわざと息を吐いた。 「分かった。いったん信じない」 「何でだよ!」 「だって晴臣だぞ。証拠がいる」 「幼馴染の信用、薄すぎる」 「相手が白石先輩だからだろ。釣り合いの問題」 「泣くぞ」 「泣く前に証明」 燈真が短く言った。 「帰り、聞けば」 晴臣は困った顔でスマホを見た。画面に指を置き、少し迷ってから、短く打つ。 「……今日、委員会終わりに門のとこ来るって」 「来るの!?」 「声でか」 「声も出るわ」 **** しばらくして、三人は校門へ向かった。 雨は止んでいたが、地面にはまだ細い水の跡が残っている。校門前の木は濡れていて、風が吹くたび葉の先から水滴が落ちた。 晴臣は門柱の近くで落ち着かない顔をしている。 依央と燈真は少し後ろに立った。 「久我くん」 「何」 「本当だと思います?」 「榎本があの顔するなら」 「顔」 「うん」 「久我くん、人の顔かなり見ますよね」 「花宮ほどじゃない」 依央は足元の水たまりを見た。 「……今、俺の話でした?」 「うん」 「なぜ」 「顔に出てるから」 「何が」 「気になってる」 「それは気になるでしょう。幼馴染と白石先輩ですよ」 「それだけ?」 依央は返事を止めた。 燈真は、ほんの少しだけ笑った。 「まあ、いいけど」 (それだけ? 何それ。何を聞いてる? 俺が他人の恋に反応してるだけじゃないって言いたい? いや、違う。久我くんはたぶん何も考えてない。考えてない顔で刺してくる。やば) その時、校舎側から白石千紘が歩いてきた。 傘を閉じたあとのように、手元に少しだけ水滴がついている。いつものように背筋がきれいで、穏やかな顔をしていた。けれど晴臣を見つけた瞬間、その目元がほんの少しやわらかくなる。 依央は、それを見た瞬間、口を閉じた。 (あ、ほんとだ) 委員会室で見る先輩の笑顔とは違う。 後輩に向ける顔でも、花の生徒会の中心にいる顔でもない。派手ではない。甘すぎもしない。でも、晴臣にだけ向けた、ほどけた顔。 晴臣が小さく手を上げる。 「千紘さん。言った」 千紘は一度だけ瞬きしてから、依央と燈真を見た。 少し申し訳なさそうに笑う。 「黙っててごめんね」 依央は、何を言うか一瞬だけ迷った。 けれど、いちばん素直なところを選んだ。 「びっくりしました」 「うん。そうだよね」 「でも、白石先輩が晴臣を選んだのは、なんか……分かる気がします」 晴臣が目を丸くする。 「依央?」 「うるさい。今いいこと言ってる途中」 千紘はやわらかく笑った。 「ありがとう。晴臣くんは、ちゃんと人を見てくれるから」 晴臣の顔が一気に赤くなる。 「千紘さん、外」 「あ、ごめん」 「いや、嬉しいけど」 「嬉しいんだ」 依央がすかさず拾うと、晴臣は片手で顔を覆った。 「お前、今だけ黙れ」 燈真が、ふと思い出したように言った。 「借り物で選んでたな……体育祭」 晴臣と千紘が同時に視線をそらした。 依央はそれを見て、少しだけ笑った。あの時は、晴臣が清楚系に弱いのかと思った。今見ると、なるほど、そういう顔だったのかと分かる。 けれど、長くいじる気にはならなかった。 千紘が晴臣を大事にしている。晴臣も千紘を大事にしている。それが分かったから、今はそれで十分だった。 「分かりました。二人のことは、雑部内で厳重に扱います」 晴臣が警戒した顔をする。 「その言い方がもう不安」 「安心しろ。俺は男子校の姫なので、秘密も美しく守れる」 燈真が横からぼそっと言った。 「顔、得意げ」 「今のは決意の顔です」 千紘がくすっと笑い、晴臣もつられて笑った。 その空気を見て、依央の胸の奥が少しだけ温かくなる。 **** 帰り道、依央と燈真は少し後ろを歩いた。 前を行く晴臣と千紘は、学校から離れるまで距離を保っている。それでも、目が合うたび、二人だけに分かる何かがあるようだった。 依央はそれを見ながら、小さく息を吐いた。 「白石先輩、すごいな」 「何が」 「晴臣の良さ、ちゃんと見てる」 「花宮も見てるだろ」 「まあ、幼馴染だし」 「なら同じ」 依央は足を止めかけた。 燈真は前を向いたまま歩いている。何でもない顔で、何でもない声で言っただけ。 それなのに、依央の胸の中だけが少し揺れた。 (同じ。俺と白石先輩が? 晴臣を見る目の話。分かってる。分かってるけど、久我くんにそう言われると変に残る。何これ。今日、情報の角度が多すぎる) 「久我くん」 「何」 「短い言葉で急に変なところ押すの、やめてください」 「変なところ?」 「今のは、幼馴染への理解の話です」 「うん」 「それ以上、広げる話ではありません」 「そう」 燈真は目元だけで笑った。 「花宮っぽい」 依央は一瞬だけ息を止めた。 でも、前みたいに大きく崩れなかった。 「……なら、今回はそれでいいです」 燈真は依央を見る。 「うん」 その返事が、少しだけやわらかく聞こえた。 依央は前を向いた。 前では、晴臣が千紘に小声で何か言い、千紘が笑っていた。 依央はその背中を見ながら、口の中で小さくつぶやく。 「……ほんと、見る目あるじゃん、白石先輩」 隣で燈真が、ほんの少しだけ笑った気配がした。

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