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第11話 共同戦線と、雨上がりの作戦成功
雑部では、晴臣の彼氏ネタが思ったより早くなじんだ。
雨上がりの旧校舎は、窓の外だけ少し明るい。部室の机には、梅雨向けの掲示物と、乾かしている古い紙束が置かれている。
「榎本、これ」
久我燈真が掲示紙の束を渡す。
晴臣は受け取りながら、わざとらしくため息をついた。
「はいはい。彼氏持ちは雑用もしますよ」
「誰もそこ聞いてない」
依央が言うと、晴臣は肩をすくめた。
「今まで言えなかった分、言いたくなるだろ」
「紙束を持つたびに彼氏を出すな」
「彼氏持ちなので」
「雑な強さ」
燈真は確認表に丸をつけながら、短く言った。
「浮かれてる」
「浮かれてるよ。悪いか」
「悪くない」
晴臣は一瞬だけ照れて、すぐに顔をそらした。
「久我、そういう短いやつやめろ。地味に照れる」
依央はクリップをそろえながら、少し笑った。
「晴臣、分かるだろ。短いやつは危ない」
「お前も食らってるもんな」
「俺の話にするな」
「顔」
「黙れ」
燈真が少しだけ笑った。
いつもの雑部の空気だった。
けれど、その日は途中から少しだけ違った。
晴臣がスマホを見たあと、反応が遅れた。
いつもなら、千紘からの返信を見るだけで、顔がゆるむ。依央がいじる前に自分でごまかして、燈真が短く刺して、部室が少し笑う。
でも今日は、晴臣の表情がそこまで上がらなかった。
「晴臣?」
依央が呼ぶと、晴臣は慌ててスマホを伏せた。
「何」
「今、顔が静かだった」
「どんな観察だよ」
「幼馴染観察」
「いらねえ」
「いる。俺には」
晴臣は少しだけ黙ったあと、椅子の背にもたれた。
「返信の返りが遅いし、短い」
依央はクリップを置いた。
燈真も、確認表から目を上げる。
晴臣はすぐに手を振った。
「いや、責めてるとかじゃない。千紘さん、今いろいろあるし。花の生徒会も、地域ボランティア参加とか、学校見学とか、入学説明会の手伝いとか、重なってるの分かってる」
「うん」
依央はうなずいた。
実際、花の生徒会はかなり立て込んでいた。千紘はいつも通り穏やかに見えたけれど、呼ばれる回数は増えている。掲示の確認、案内カード、後輩への指示。手が足りていないのは、依央にも分かる。
晴臣はスマホを見ずに、机の端を指で軽く叩いた。
「分かってる。分かってるんだけど」
そこで言葉が止まった。
依央は、晴臣のそういう顔をあまり見慣れていない。
いつも茶化して、すぐ笑って、人の顔色を勝手に読んでくる幼馴染が、ただ少し寂しそうにしている。千紘を責めたいわけではない。自分の気持ちの置き場に迷っているだけ。
(うわ。晴臣がしょんぼりしてる。これはだめ。いつもの顔芸と違う。いじったら俺が最悪になるやつ。こういう時、ちゃんと見ないとだめだろ俺)
依央は燈真を見た。
燈真も、晴臣を見ていた。
ほんの一瞬、目が合う。
「久我くん」
「廊下」
「はい」
晴臣が顔を上げる。
「何、二人で急に」
依央は立ち上がった。
「掲示物の確認」
「俺も行く?」
燈真が短く言った。
「榎本は部室」
「何で」
「紙、乾かしといて」
「俺だけ湿気係?」
「大事」
「言い方」
依央は花の生徒会用の掲示紙を手に取り、燈真と廊下へ出た。
****
部室の扉を閉めると、雨上がりの空気が少し冷たかった。窓の外では、雲の切れ目から明るい光が差している。
依央は声を落とした。
「少しでも会えば、戻ると思うんです」
「うん」
「でも、白石先輩、今かなり手いっぱいで」
「花宮」
「はい」
「白石先輩の仕事、代われる?」
依央は一瞬だけ止まった。
「……俺が、ですか」
「うん」
「掲示の順番と案内カードならできます。さっき説明してるの見ました」
「なら、動かせる」
「白石先輩を?」
「俺が連れていく」
依央の中で、燈真の意図がすとんとつながった。
「俺が代わって、久我くんが白石先輩を部室へ連れてくる」
「うん」
「晴臣は部室に残す」
「紙、乾かす係」
「それ、絶対雑に聞こえるやつです」
「でも残る」
依央は思わず笑いそうになった。
燈真の判断は短い。雑に見える。でも、今ほしい形がすぐ出てくる。
(早。こういう時の久我くん、ほんと早い。俺が千紘さんの仕事を代われば、千紘さんを動かせる。久我くんが連れていく。晴臣は部室。やば。悔しいけど、かなり良い)
「行きましょう」
「うん」
「白石先輩には、晴臣の名前を出しません」
「重要な件」
「それ、怪しくないですか」
「花宮が言えばいける」
依央は掲示紙を持つ手を少しだけ強くした。
「そういう雑な信頼、最近ちょっと強いです」
「雑?」
「雑です」
「信頼はしてる」
依央は一瞬だけ言葉を失った。
燈真は何でもない顔で、花の生徒会の方へ歩き出す。
(信頼はしてる、じゃない。言い方。普通に刺さる。今は晴臣の件。主役は晴臣。落ち着け俺。共同作業前に心臓を散らかすな)
****
花の生徒会の部屋は、いつもより少し慌ただしかった。
千紘は後輩に紙束を渡し、別の机の付箋を確認し、窓際の掲示カードをまとめている。やわらかい笑顔は変わらない。けれど、依央にはその手元が少しだけ急いでいるように見えた。
「白石先輩」
「花宮くん。どうしたの?」
「その作業、俺が代わります」
千紘は少し驚いた顔をした。
「え?」
依央は机の上を見た。
「地域ボランティアの掲示順と、学校見学の案内カードですよね。さっき後輩に説明していたのを見ていたので、できます」
「でも、どうして?」
燈真が、千紘の方を見る。
「雑部の方、お願いします」
千紘は燈真を見た。
「久我くん?」
依央は声を少しだけ低くした。
「重要な件です」
千紘の表情が、わずかに変わった。
いつもの穏やかな先輩姫の顔の奥で、何かを察するような目になる。依央は晴臣の名前を出さなかった。ただ、千紘の手元の作業を自分の方へ引き寄せる。
「白石先輩、こっちは俺がやります」
千紘は一度、机の上と依央を見比べた。
それから、静かにうなずいた。
「分かった。お願いしてもいい?」
「はい」
「ありがとう、花宮くん」
千紘は後輩に短く声をかけ、燈真と一緒に部屋を出た。
扉が閉まる。
依央は机の上の紙束を見下ろし、小さく息を吐いた。
(よし。引き受けた。白石先輩の代わり。責任、わりと重い。けどできる。俺は花の生徒会の姫なので。晴臣、感謝しろよ。あとでパンな)
作業は、思ったより細かかった。
掲示順を間違えないように並べ、案内カードを色ごとに分け、後輩に一言だけ補足する。千紘のようにふわっと整えるのは難しい。でも、依央には依央のやり方がある。
「この青いカードは、学校見学用。地域案内とは別に置いてね」
「はい、花宮先輩」
「急がなくて大丈夫。順番だけ守ればきれいに見えるから」
後輩が少し安心した顔をする。
依央は笑った。
(よし。いける。白石先輩の完全再現は無理。でも俺でも回せる。晴臣のため、千紘さんのため、あと久我くんの作戦成功のため。……最後、余計。いや余計じゃない。共同作業なので)
****
作業を終えた頃には、雨上がりの光が少しだけ濃くなっていた。
依央は花の生徒会の後輩に確認を済ませ、旧校舎へ戻る。
雑部の部室前に来ると、扉の外に燈真が立っていた。
「久我くん」
「終わった?」
「はい。そっちは?」
「うまくいってる」
燈真は小さな窓の方を指した。
依央は少しだけ近づき、部室の中を見た。
会話の内容は聞かない。
聞かないけれど、晴臣が困ったように笑っていて、千紘もやわらかく笑っているのは見えた。千紘が机の上の紙を一枚取り、晴臣が何か言って、二人の肩から力が抜けていく。
それだけで十分だった。
依央は、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
「……戻った」
「うん」
「晴臣、単純」
「花宮も」
「俺も?」
「顔」
依央は反射で頬に手を当てかけた。
「今のは達成感です」
「うん」
「本当に」
「うん」
「その、うんは信じてないですよね」
「少し」
(出た。少し。でも今日は許す。作戦成功。晴臣の顔も戻った。白石先輩も笑ってる。久我くんと一緒にやった。……一緒に? やば。そこに反応するな俺)
依央は小窓から目をそらした。
「もう行きましょう」
「いいの?」
「二人の時間、残した方がいいので」
「花宮っぽい」
依央は一瞬だけ燈真を見た。
花宮っぽい……少し前なら、その一言だけで内心がひっくり返っていた。今も刺さる。刺さるけれど、同じ刺さり方ではない。
依央は軽く息を吐き、少しだけ笑った。
「なら、今回はそれでいいです」
燈真は、依央を見た。
「うん」
その短い返事が、なぜか嫌ではなかった。
****
二人で旧校舎を出ると、雨上がりの空が少し明るくなっていた。
校庭の水たまりに、薄い夕方の光が映っている。空気は湿っているのに、さっきより軽い。
「やったね、俺たち」
言ってから、依央は自分の声が思ったより弾んでいることに気づいた。
燈真が隣を見る。
「うん」
「そこはもう少し喜んでもいいところです」
「喜んでる」
「顔に出てません」
「花宮が出てるからいい」
依央は足を止めかけた。
「……それ、どういう理屈ですか」
「見れば分かる」
「俺を見る前提で話さないでください」
「見えるし」
依央は濡れた廊下の端を見た。
(見えるし、じゃない。何その短さ。さっきまで晴臣のために動いてたのに、急にこっち刺すな。顔に出てるって何。嬉しいのバレてる? いやバレてる。だる。久我くん、ほんと見るな。いや、見ててもいい。いや、よくない。どっちだよ俺)
外に出ると、風が少し涼しかった。
旧校舎を出る時、依央は自然に燈真の隣へ並んでいた。
気づいて、少しだけ足元を見る。
前なら、晴臣を挟んで歩く方が楽だった。晴臣が茶化して、依央が言い返して、燈真が短く刺す。その形がいちばん慣れていた。
今日は、燈真の横がいちばん自然だった。
それが、ちょっとまずい。
(何で普通に隣にいるんだ俺。さっきまで部室の中を確認して、二人を置いて、じゃあ帰ろうってなって、気づいたらここ。久我くんの横。自然すぎて怖い。いや、怖くはない。そこがさらにまずい)
依央は空を見上げる。雨はもう止んでいる。雲の切れ目から、細い光が校舎の端に落ちていた。
「久我くん」
「何」
「今日の俺、けっこう役に立ちましたよね」
「うん」
「そこ、もう少し言葉を足してもいいんですよ」
「助かった」
依央は口元を押さえかけて、途中でやめた。
以前なら、ここで派手に崩れていた気がする。
今も、胸の奥は少し跳ねる。でも、ちゃんと受け取れる。少しだけ、普通にうれしいと思える。
「……どういたしまして」
燈真は少しだけ笑った。
「普通に返した」
「俺だって成長します」
「そっか」
「その顔、意外そうですね」
「少し」
依央は笑ってしまった。
****
雨上がりの廊下を、二人で歩く。
晴臣と千紘は、部室で話している。依央たちは先に帰る。作戦は成功した。誰かを助けた、というほど大げさではない。少し場を作って、二人を引き合わせただけ。
それでも、依央の中には妙な満足感が残っていた。
(久我くんと一緒に動いた。相談して、俺が代わって、久我くんが連れていって、晴臣の顔が戻った。やば。これ、楽しい。かなり楽しい。何だよ。雑部、こういうこともできるのか)
昇降口に着く頃、燈真がふと口を開いた。
「花宮」
「はい」
「こういうの、向いてる」
依央は靴箱の前で止まった。
「こういうの?」
「人を見るやつ」
「……白石先輩の作業を代わっただけです」
「気づいたのは花宮」
燈真の声は静かだった。
晴臣の小さな変化に気づいたこと。
千紘の手元の慌ただしさを見ていたこと。
自分にできる作業だと判断して、引き受けたこと。
それを、燈真が見ていた。
依央は、少しだけ言葉をなくした。
(何それ。そういう褒め方、急にするな。俺が他人には気づけるの、そんなふうに言うな。やば。うれしい。普通にうれしい。言い訳、出てこない)
「……ありがとうございます」
「うん」
「久我くんも、場を作るの早かったです」
「そう?」
「部室ってすぐ出たの、よかったです」
「榎本がいても変じゃないから」
「それです」
「花宮が動けるなら、早い方がいいと思った」
依央は靴箱の取っ手に手をかけたまま、固まった。
「……俺が動けるなら?」
「うん」
「信頼、されてます?」
「してる」
静かだった。
言われた言葉がまっすぐすぎて、胸の奥に、雨上がりの光みたいなものがじわっと広がる。
依央は靴を取り出しながら、少しだけ視線をそらした。
「……そうですか」
「うん」
「じゃあ、次もちゃんと動きます」
「うん」
「久我くんも、ちゃんと考えてください」
「考えてる」
「もっと」
「花宮、要求多いな」
「雑部なので」
「関係ある?」
「あります」
燈真は笑った。
その笑い方が、いつもより少しだけ近かった。
****
外へ出ると、雨上がりの匂いがした。
校庭の水たまりには、夕方の空が揺れている。依央は傘を持ったまま、少しだけ立ち止まった。
「晴臣、元気戻りますかね」
「戻るだろ」
「ですよね」
「単純だし」
「そこは言い方」
「花宮も分かってるくせに」
依央は笑った。
「まあ、幼馴染なので」
燈真は、校舎の方を一度だけ振り返った。
「白石先輩も、来たし」
「はい」
「二人とも、顔が戻ってた」
依央はうなずいた。
「よかった」
それは本当に、素直な言葉だった。
そして、その素直さを燈真に聞かれていることも、今日はそれほど嫌ではなかった。
(やったね、俺たち。……うわ、まだ残ってる。言ったの俺だけど、何か残る。共同作業感、やば。雑部の達成感。たぶん。たぶんって言った時点でだいぶ怪しいけど)
隣で燈真が、短く言った。
「帰るか」
「はい」
依央は歩き出した。
雨上がりの道を、燈真と並んで。
後ろの旧校舎の二階には、まだ雑部の明かりがついていた。そこに晴臣と千紘がいると思うと、少しだけ胸があたたかい。
そして隣に燈真がいることも、同じくらい、少しだけあたたかかった。
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