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第12話 雨上がりの手と、キス未遂
雨上がりの旧校舎は、いつもより少し明るかった。
窓の外では、校庭の水たまりが夕方の光を映している。廊下の端にはまだ湿った匂いが残り、上履きの底が床に触れるたび、かすかに音がした。
雑部の部室では、晴臣がいつもより少しだけ素直な顔をしていた。
「この前はありがとな」
依央は机の上の掲示確認表をそろえながら、わざと軽く返した。
「何のこと?」
「分かってるくせに」
「晴臣が彼氏ネタを乱用しなくなった件?」
「それはこれからもする」
「するのかよ」
晴臣は少し照れたように笑い、窓の外を見た。
「千紘さん、あのあとちょっと元気出たっていうか、俺も普通に戻れた。だから、ありがと」
燈真は棚の横で、濡れた傘立ての札を見ている。
「よかったな」
「久我もありがとな」
「うん」
「短い」
「長くいる?」
「いや、短くていい」
依央は晴臣を見て、少しだけ笑った。
「晴臣、顔が戻ってる」
「お前に言われると変な感じする」
「幼馴染観察なので」
「こわ」
晴臣は笑いながら、鞄を肩にかけた。
「悪い、今日ちょっと用あるから先帰る。二人で旧校舎チェックよろしく」
依央はすぐ顔を上げた。
「二人で?」
「うん。雨上がりだし、窓とか掲示とか傘立てとか見とけば? 雑部っぽいだろ」
「晴臣、急に雑部を使いこなすな」
「彼氏持ちは成長が早い」
「その理屈は意味分かんない」
晴臣はにやっと笑った。
「じゃ、依央。久我と仲良くな」
「言い方」
「普通に言っただけ」
「普通の顔じゃなかった」
「ばれた」
晴臣は手を振って、部室を出ていった。
廊下に足音が遠ざかる。
部室には、依央と燈真だけが残った。
依央は掲示確認表を持ったまま、窓の方を見た。雨は止んでいる。けれど、旧校舎の廊下には水の気配がまだある。
(二人。晴臣がいない。茶化し役、消えた。つまり俺が自力で処理しなきゃいけない。無理寄り。いや、無理じゃない。雑部の点検。作業。いつものやつ。手元見ない、顔見ない、距離に負けない。いける。たぶん)
燈真が工具箱を閉めた。
「行くか」
「はい」
「掲示、窓、傘立て」
「雨上がりセットですね」
「うん」
「地味です」
「雑部だし」
依央は少し笑った。
****
旧校舎の廊下は、晴臣がいた時より静かだった。
一階の掲示板は、雨で端が少し浮いている。傘立ての下には、誰かが落とした小さな水たまりができていた。窓枠にも、細い水の跡が残っている。
燈真は何も言わず、浮いた掲示紙を押さえた。
「花宮、画鋲」
「はい」
依央は箱から画鋲を取り出し、燈真に渡す。燈真の指が近い。もう何度もある距離なのに、今日は晴臣がいないせいで、音まで近く聞こえる。
「ここ」
「はい」
「強く押さえなくていい」
「分かってます」
「前、窓枠に本気出してた」
「それ、覚えてるんですか」
「うん」
依央は画鋲の箱を少し揺らした。
(そこ覚えてるな。旧校舎の窓枠相手に力んだ俺、保存しないでほしい。久我くんの記憶、変なところだけ精度高い。きつ)
「今のは、雨上がりで紙が弱っているので慎重にしているだけです」
「うん」
「ちゃんと理由があります」
「聞いてない」
「……そうでした」
燈真が少し笑った。
その笑い方に、依央はまた少しだけ調子を崩した。
****
二階へ上がると、廊下の窓から薄い夕日が入っていた。
水たまりが細く光っている。窓のそばだけ、床が少し濡れていた。依央は掲示紙を抱えたまま、その水を避けようとして、一歩横へ出た。
足元が、つるっと滑った。
「あ」
体が傾く。
その瞬間、燈真の手が伸びた。
腰のあたりを支えられ、背中を引き寄せられる。依央は掲示紙を抱えたまま、燈真の胸元近くで止まった。
息が、止まった。
近い。
さっきまでの作業の近さではない。紙を挟んだ距離でも、窓を閉めるための距離でもない。燈真の腕が、依央を支えている。
燈真の制服に、雨上がりの匂いが少し混ざっていた。
「……大丈夫か」
声が低かった。
いつもの軽い刺し方ではない。短いけれど、真っ直ぐに心配している声だった。
依央は、すぐに返せなかった。
(近い。まず礼。支えられた。転ばずに済んだ。ありがとうって言え。言え俺。何で声が出ない。胸元、近い。手、腰。やば。全部近い)
「……大丈夫です」
ようやく出た声は、小さかった。
燈真は少しだけ息を吐き、ゆっくり手を離した。
「水、残ってた」
「床が悪いです」
「うん」
「俺は悪くないです」
「うん」
「その、うんは何ですか」
「元気そう」
依央は掲示紙を抱え直した。
胸の奥がまだざわついている。腰を支えられた感覚が、遅れて残っている。
燈真も、ほんの少しだけ視線を外した。
それを見て、依央はまた言葉に詰まった。
(今、久我くんも少し変だった? いや、分からん。見間違い? でも目そらした。見た。俺は見た。これ、床のせいにしきれない)
燈真は短く言った。
「手」
「え?」
「出せ」
依央は固まった。
「手、ですか」
「滑るから」
「俺、もう気をつけます」
「いいから」
燈真は手を差し出した。
雨上がりの廊下。薄い夕方の光。水たまり。掲示紙。旧校舎。
手を出せ、と言われている。
依央は少しだけ唇を結んだ。
(これは安全確認。滑るから。支え。作業。手を繋ぐとか、そういう話じゃない。分かってる。分かってるけど、手。出したら戻れない気がする。何が? 知らん。知らんけど)
「……過保護ですね」
「滑っただろ」
「一回だけです」
「一回で十分」
依央は言い返せなかった。
掲示紙を片腕で抱え直し、空いた手を差し出す。
燈真の手が、依央の手を取った。
指先ではなく、ちゃんと手のひらを包むように。
熱かった。
依央は息を吸った。
(……手って、こんな感じだっけ)
男子校の姫として、距離の作り方は知っている。肩が近いとか、袖が触れるとか、笑顔で相手を赤くさせるとか、そういうのは得意だった。
でも、手を繋ぐのは違った。
手のひらから熱が入ってくる。指の形、握る強さ、離さない力。その全部に意識を持っていかれて、足元の水たまりより、繋がれた手の方がずっと大きな事件になっている。
(やば。これ、何か伝わってくる。熱だけじゃない。落ち着けとか、こっち来いとか、離す気ないとか。いや、勝手に受信するな俺。手、情報量多すぎ)
****
燈真は何も言わず、歩き出す。
依央も、その横を歩いた。手は離れない。
最初の一歩で、依央は足元を見た。
次の一歩で、手を見そうになった。
その次には、もう手しか気にならなかった。
(無理。歩けてる? 俺、ちゃんと歩けてる? 男子校の姫、手を繋いだだけで歩行が怪しい。ださ。いや、ださくても仕方ない。これは初回。何の? 知らん。知らんけど)
****
次の掲示板まで、手を繋いだままだった。
片手で掲示紙を押さえるのは少しやりにくい。けれど、燈真は離さない。依央も、離せとは言わない。
燈真が画鋲を刺す。
依央が紙を押さえる。
手は繋がったまま。
「やりにくいですね」
「うん」
「離してもいいのでは」
「滑る」
「ここ、濡れてません」
「さっき滑った」
「それは、あっちです」
「同じ廊下」
依央は口を開きかけて、閉じた。
(言える。離してくださいって、言える。言えるのに、言いたくない。終わった。これ、かなり終わってる。だって作業しにくい。絶対しにくい。なのに、このままでいいって思ってる。俺、どうした)
窓まわりを確認する時、依央はふとガラスに映った自分たちを見た。
薄暗い旧校舎の窓に、並んで立つ二人が映っている。
片手で掲示紙を持つ依央。
その隣で窓鍵を見ている燈真。
そして、下の方で繋がったままの手。
依央は一瞬、呼吸を忘れた。
(これ、恋人じゃん)
思った瞬間、頭の中で警報が鳴った。
(違う。滑るから。安全確認。雑部の作業。恋人じゃない。やばくない。やばくないけど、ガラスに映すな。客観視させるな。破壊力えぐい)
そこまで並べても、依央の手は燈真の手の中にあった。
離せば終わる。
終わるのに、離さなかった。
燈真が窓鍵を回す。
「花宮?」
「……何でもありません」
「顔」
「ガラスが曇ってただけです」
「そう?」
「そうです」
依央はガラスから目をそらした。
でも、繋いだ手だけは、見ないふりをしてもそこにあった。
燈真の手は、強く握りすぎない。
でも、ちゃんと離さない。
その加減が、余計に落ち着かない。
****
三枚目の掲示を直したところで、依央はふと口にした。
「久我くん」
「何」
「そんなに俺の手、離したくないんですか?」
言った瞬間、依央は勝ったと思った。
久しぶりに、少しだけ姫らしい反撃。あざとさもある。からかいもある。燈真が少しでも詰まれば、こちらの勝ち。
燈真は依央を見た。
そして、短く言った。
「うん」
依央は固まった。
「……うん?」
「離したくない」
何でもないように言うには、少しだけ声が低かった。
依央の中で、さっきまで必死に積んでいた言い訳が全部崩れた。
(はい負けた。即死。何それ。うん、じゃない。離したくない、じゃない。普通に肯定するな。反撃したの俺。なのに俺が撃たれてる。終わった。俺の天下、二秒)
燈真はすぐに視線を逸らし、掲示板の方を見る。
「滑るし」
「……ですよね」
「うん」
依央は手を握り返しそうになって、ぎりぎりで止めた。
けれど、止めたのは力だけだった。
手そのものは、離さなかった。
そのまま、窓まわりを確認する。
古い窓は、雨のあとで少しだけ重い。燈真が鍵を確認し、依央が掲示紙を押さえる。片手同士で動くから、作業は少し遅い。
でも、どちらも文句を言わない。
****
水たまりのある廊下を通る時、燈真の手がほんの少しだけ強くなる。依央はそれに気づいてしまう。
(強くなった。今、ちょっとだけ。水たまりのとこ。こういうの気づくな俺。気づいたらだめ。だめじゃないけど、だめ。心臓が持たない)
作業が終わりかけた頃、依央は思わず言った。
「もう?」
燈真が振り向く。
「何」
「……確認、もう終わりですか」
「あと、傘立て」
「傘立て」
「うん」
依央の声が、少しだけ明るくなった。
自分で分かった。
燈真も、たぶん分かった。
「うれしそう」
「傘立ての安全確認は大事なので」
「うん」
「今のは、雑部としての責任感です」
「そう」
「信じてませんね」
「少し」
依央は顔をそらした。
(信じられるわけない。俺も信じてない。作業が残ってて、ちょっとほっとした。何それ。手、離さなくて済むから? やば。やばすぎる)
****
傘立ての下にも、小さな水たまりがあった。
燈真はそれを見て、手を繋いだまま依央を少しだけ自分側へ引いた。
「そっち、濡れてる」
「見えてます」
「さっき見えてなかった」
「一回で信用失いすぎじゃないですか」
「手、出してるから平気」
依央は、何も言えなかった。
燈真の言葉は、変に静かだった。
手を出しているから平気。
ただの安全確認。そう受け取ればいい。けれど、依央にはそういう意味だけに聞こえなかった。
(今日の久我くん、短い言葉が全部だめ。いや、全部じゃない。たぶん俺の受け取り方がだめ。手を繋いでるせい。手の熱のせい。雨上がりのせい。全部のせい)
****
傘立ての確認を終えると、本当に作業は終わった。
二人は旧校舎の昇降口近くで立ち止まる。
外は小雨に変わっていた。さっきまでの夕方の光は少し薄くなり、校庭の水たまりに細い波紋が広がっている。
手は、まだ繋がっている。
依央はそれに気づいていないふりをした。
燈真も、離さない。
「終わった」
燈真が言う。
「……はい」
「帰るか」
「はい」
でも、二人ともすぐには動かなかった。
小雨の音が近い。
依央の前髪に、外から入った細い雨粒が少しだけついた。燈真がそれを見た。
「また濡れた」
「少しです」
「顔、隠れる」
依央の心臓が、また静かに跳ねた。
前の雨の日のことが戻る。
顔、隠れてる。
見えないから。
燈真の手が、つないでいない方で依央の前髪に近づく。
依央は動けなかった。
今度は、笑って流す余裕がなかった。
燈真の指が前髪を横へ流す。
顔が近い。
手は繋がったまま。
依央は息を止める。
燈真の目が、すぐそこにある。いつもの適当な顔ではない。からかう顔でもない。少しだけ静かで、少しだけ熱がある。
「見えた」
燈真が低く言った。
依央は、声が出なかった。
(何。今の。見えた、って。前髪の話。分かってる。分かってるのに、近い。手、繋いでる。顔、近い。これ、何。俺、どうしたらいい。動けない)
燈真の顔が、ほんの少し近づいた。
依央は目をそらせなかった。
小雨の音が、やけに遠くなる。
本当に一瞬だけ、唇が触れるのかと思った。
その直前で、燈真が止まった。
燈真も、動かなかった。
ほんのわずかに、息が乱れたように見えた。
依央だけが止まったわけではない。燈真も、止まっていた。近づいたまま、何かを言う前に、視線を一度だけ落とした。
それから、低く息を吐く。
「……確認作業おわり」
その声は、いつもの軽い外し方とは違った。
作業に戻したようで、戻しきれていない。終わりと言ったのに、空気はまだ終わっていない。
依央は、何も返せなかった。
(今、ごまかした? 久我くんも? 俺だけじゃなくて? 確認作業おわり、って何。終わらせたのに、全然終わってない。やば。俺、何も言えない)
燈真はゆっくり手を離した。
指先が空気に触れる。
急に、そこだけ冷えた気がした。
依央は自分の手を見た。
何も残っていない。赤くもない。濡れてもいない。
でも、熱だけがある。
燈真は傘を開き、外へ出る準備をした。依央も少し遅れて傘を開く。
その時、雲の切れ目から細い光が差した。
旧校舎の前の水たまりに、白い空と校舎の端が映る。小雨はまだ少し残っているのに、そこだけ薄く光っている。風が吹くと、水面が揺れ、映った空が少しだけ広がった。
依央は足を止めた。
雨上がりの匂いがする。
春からずっと、久我燈真を落とすつもりだった。男子校の姫として、笑って、仕掛けて、余裕で。
(落とすはずだった。久我くんを、俺の姫営業で、余裕で)
なのに、手を離せなかったのは依央だった。
前髪を直されて動けなかったのも、確認作業おわりと言われて、終わらせたくないと思ったのも、依央だった。
(……いや、負けてない。今日は、たまたま手を取られただけ。たまたま、離せなかっただけ。……たまたま多くない?)
燈真が少し先で振り返る。
「花宮」
「はい」
「水、踏むなよ」
依央は水たまりを見て、それから燈真を見た。
「もう滑りません」
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶん」
燈真が少し笑った。
その笑い方が、雨上がりの光の中で、少しだけやわらかく見えた。
依央は傘の柄を握り直した。
手のひらには、まだ燈真の熱が残っている気がする。
(でも、この手の熱だけは、消したくない)
「久我くん」
「何」
「次は、ちゃんと見て歩きます」
「うん」
「なので、過保護は控えめで」
「考えとく」
「それ、絶対控えないやつです」
燈真は答えず、少しだけ笑って歩き出した。
依央も、その隣へ並ぶ。
水たまりに映った空が、二人の足元で揺れた。
雨は、もうほとんど止んでいる。
けれど、手の熱だけは、まだ消えそうになかった。
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