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第13話 期末前、手の記憶とプール掃除

期末前の二年三組は、いつもより紙の音が多かった。 問題集。プリント。赤ペン。机の上に積まれた教科書。黒瀬陸斗は朝から英単語帳を開き、五分で閉じていた。 「花宮」 「早い」 「まだ何も言ってねえ」 「閉じるのが早い」 「英語、俺に冷たくない?」 「英語は全員に平等だよ」 「平等に厳しい!」 黒瀬が机に突っ伏すと、篠宮怜央が隣から静かに単語帳を戻した。 「黒瀬、十個だけ覚えよう」 「十個ならいける」 「昨日もそう言って三個だった」 「篠宮、記憶力よすぎ!」 「覚えるべきはそこじゃない」 教室が笑う。 依央はいつもの顔でそれを受け止めながら、窓際の方をちらっと見た。 久我燈真は、机の上でプリントを半分に折っていた。 ただそれだけだった。 ただ、指が見えた。 雨上がりの旧校舎で、手を取られた時の熱が、いきなりよみがえる。 (やめろ。プリント折ってるだけ。久我くんの手が何かしてるだけ。手を見ただけで思い出すな。俺の脳内、湿気残りすぎ) 依央は視線を戻し、笑顔を整えた。 男子校の姫として、視線を集めるのは得意だ。距離の作り方も知っている。袖が触れるくらいの近さも、肩が並ぶ感じも、笑顔で相手を赤くする間も、扱える。 でも、手を繋ぐのは違った。 あの時の手は、まだどこかに残っている。 手のひらの奥。指の間。離れたはずなのに、消えていない。 (足元対策。そう、あれは足元対策。滑ったから。作業だったから。雑部だったから。……でも、何でこんなに残ってんだよ) 「依央」 横から晴臣の声がした。 晴臣は別クラスのくせに、昼休みになると当然みたいに二年三組の入口に立っていた。手には、古いプリントの束を持っている。 「雑部、今日プール掃除だって」 「期末前に?」 「水まわり確認。夏前に一回見とけって」 「急に夏感出してくるじゃん」 「あと、これ運ぶの手伝って」 「俺、今から花の生徒会」 「その前に三十秒」 依央はため息をつきつつ、プリントの束を受け取ろうとした。 その時、晴臣の指が依央の手に軽く触れた。 本当に、ただそれだけだった。 「あ、ごめん」 「別に」 依央は普通に受け取った。 何も起きない。 心臓も跳ねない。手のひらに熱が残る感じもない。晴臣の手は、昔から知っている距離のままだった。 幼馴染。雑な軽口。気楽な手元。 それ以上でも、それ以下でもない。 (……ああ、全然普通だ) 依央はプリントを抱え直しながら、少しだけ息を止めた。 普通だった。 晴臣だから、ではある。幼馴染だから、というのもある。けれど、手が触れたこと自体は、何でもなかった。 あの雨上がりの手だけが、違った。 (確認完了。いや、何の確認だよ。手の反応チェック? きも。俺の脳内、期末前に何やってんの。勉強しろ) 「依央?」 晴臣がのぞき込む。 「何か顔、今すごかったけど」 「晴臣」 「はい」 「英単語を十個覚えろ」 「急に黒瀬側に飛ばすな」 依央はプリントを晴臣へ押し返し、花の生徒会へ向かった。 **** 放課後の雑部は、いつもの部室ではなく、プール横の水道前に集合だった。 学校内なので、三人とも体操着にジャージを羽織っている。夏前の空気はもうじっとり暑く、プールの水面は使われる前の静けさで光っていた。 晴臣はホースを見て、すでに嫌そうな顔をしている。 「水まわり確認って、普通に掃除じゃん」 「雑部の仕事だろ」 依央が言うと、晴臣は肩をすくめた。 「姫も掃除すんの?」 「姫は水辺にも映えるので」 「前向き」 「内心は帰りたい」 「正直」 燈真はホースの先を確認していた。 「水、出す」 「はい」 依央はバケツを持ち上げ、プールサイドの端に寄せた。 水の音が響く。ホースが少し跳ね、晴臣が「うわ」と声を上げる。 「久我、暴れてる!」 「押さえて」 「俺が!?」 「近いし」 晴臣がホースを押さえる。依央はバケツを差し出す。燈真が蛇口を少し絞る。 作業は地味だった。 でも、夏の匂いがした。 水。日差し。プールサイドの熱。体操着の袖。額ににじむ汗。 依央は前髪を指で整えた。 (夏の姫、試練多すぎ。汗、水、ジャージ。全部、姫営業の敵。いや、今日は営業じゃない。雑部。プール掃除。久我くんの手をもう一回確かめたいとか、別にそういうんじゃ……いや、ちょっとある。終わった) 「花宮」 燈真が呼ぶ。 「はい」 「そっち、バケツ」 「分かってます」 依央はバケツを持とうとした。 同じタイミングで、燈真の手も伸びた。 指が触れた。 ほんの一瞬。 晴臣と同じくらい、軽い接触だった。 なのに、手のひらの奥が一気に熱くなる。 依央はバケツを持ったまま固まった。 (来た。はい来た。全然違う。晴臣と違う。何これ。触れたの一瞬。手を繋いだわけでもない。なのに、そこだけ電気走ったみたいになってる。やば。検証終了。結果、俺が終わってる) 燈真は依央を見た。 「花宮」 「はい」 「水、こぼれる」 「え」 バケツが少し傾いていた。 依央が慌てて戻すより早く、ホースが跳ねた。 水が、ばしゃっと二人の足元に飛ぶ。 「うわっ」 依央が半歩下がる。 その足がプールサイドの水を踏み、少し滑った。 燈真の手が、また伸びる。 今度は手首を掴まれた。 しっかり。 依央の体が、燈真の方へ引き戻される。 「危ない」 低い声。 濡れた足元より、掴まれた手首の方に意識が持っていかれる。 燈真の指。力。熱。さっきよりも強い接触。 依央は息を止めた。 (やっぱり違う。無理。久我くんだけ違う。手首、熱い。水かかったのに、そこだけ熱い。何で。何でこんなに分かるんだよ) 「大丈夫?」 燈真が聞く。 依央は少し遅れてうなずいた。 「……大丈夫です」 「足元、見て」 「見てました」 「今?」 「今は、少し」 「少し」 燈真がほんの少し笑った。 依央は手首を離されたあとも、その場所を見ないようにした。 見たら終わる気がした。 晴臣がホースを押さえながら、じっと二人を見ている。 「依央」 「何」 「今、すごい顔してた」 「水がかかったので」 「水っていうか、久我に掴まれた方」 「晴臣」 「はい」 「ホースと一体化しろ」 「どういう罰?」 燈真が蛇口をさらに絞った。 「榎本、ちゃんと押さえて」 「久我、俺には厳しくない?」 「水、飛ぶから」 「はいはい」 依央はバケツを置き、手首をそっと握りそうになって、やめた。 でも、感覚は残っている。 晴臣とは普通だった。 燈真とは普通じゃない。 たったそれだけのことが、プールの水よりもはっきりしていた。 (特別、ってこと? いや、待て。特別って何。手が? 久我くんが? 俺の反応が? 全部やばい。期末前にこれは無理。テスト範囲より難しい) 作業はそれからも続いた。 プールサイドの隅を流し、排水溝の周りを確認し、古いブラシを倉庫へ戻す。晴臣は途中で何度も水を浴び、黒瀬みたいな声を出した。依央は姫としての体裁を保とうとしたが、ジャージの裾は少し濡れ、前髪も乱れた。 燈真はいつものように、必要な場所だけ見て、必要な分だけ動く。 水の飛ぶ方向。滑りそうな場所。古いホースの癖。 依央の手元。 全部、見えているみたいだった。 「花宮」 「はい」 「前髪」 依央は反射で前髪に触れた。 「またですか」 「濡れてる」 「プール掃除なので」 「うん」 「今日は顔が隠れているわけではありません」 燈真は一瞬だけ依央を見た。 雨の日の言葉を思い出したのかもしれない。 依央も、思い出した。 顔、隠れてる。 見えないから。 二人の間に、ほんの少しだけ水音とは違う間が落ちる。 燈真はすぐに視線をそらし、短く言った。 「見えてる」 依央は心臓のあたりを押さえそうになった。 (やめろ。そこで見えてるはやめろ。言葉だけなら耐性ついてきた。たぶん。でも今のは手首のあと。水のあと。雨の日のあと。合わせ技は無理) 「……なら、よかったです」 どうにか返す。 燈真は少しだけ笑った。 晴臣が遠くから叫ぶ。 「おーい、二人で水辺の空気作ってないで、倉庫閉めるぞー!」 「晴臣、言い方」 「だってそう見えた!」 「見なくていい!」 晴臣は笑いながら、ホースを巻いている。 依央は濡れたプールサイドを見た。 水面に、夏前の空が映っている。まだ本格的な夏ではない。けれど、もう春ではない。 手を繋いだ雨上がりは、遠くなったはずだった。 でも、手の熱は遠くならない。 むしろ、今日また分かってしまった。 燈真だけが違う。 (これ、認めたらまずい気がする。まじでまずい。攻略対象が特別って、落とす側としてどうなの。いや、落とすためには特別視も必要? 違う。無理ある。理屈が水びたし) **** 片づけを終えた頃、夕方の風が少しだけプールサイドを通った。 晴臣は先にジャージの袖を絞りながら歩いている。 「依央、今日の結論」 「何の」 「久我の手、やっぱ効く?」 依央は一瞬で晴臣をにらんだ。 「晴臣」 「はい」 「水道まで戻る?」 「戻らない」 「じゃあ黙れ」 晴臣はにやにやしながら前を向く。 「はいはい」 燈真は少し後ろで、濡れたホースの先をまとめていた。依央はその手元を見て、すぐに視線を外す。 でも遅かった。 見てしまった。 (だめだ。手元、見ないの無理。もう無理。夏、始まる前から詰んでる) 校舎へ戻る道で、燈真が隣に来た。 「花宮」 「はい」 「手首、赤くなってない?」 依央は反射で手首を隠した。 「なってません」 「見せて」 「大丈夫です」 「さっき掴んだから」 「本当に大丈夫です」 燈真はそれ以上強く言わなかった。 ただ、少しだけ依央の手元を見る。 その視線が優しくて、依央はまた処理に困った。 (手首を心配する顔、やめろ。そっちの方がずるい。掴まれたことより、そのあと見られる方がやばい。久我くん、夏前から攻撃の種類増やすな) 「……大丈夫です」 依央はもう一度、小さく言った。 燈真はうなずく。 「ならいい」 たったそれだけだった。 でも、依央の手首には、掴まれた熱とは別のものが残った。 校舎の窓から、プールの水面が見えた。 夏は、もうすぐそこまで来ている。 依央は自分の手を見下ろし、心の中で小さくつぶやいた。 (足元対策。作業。水まわり確認。理由はいくらでもある。……でも、久我くんだけ違う理由は、どこにもない) それが一番、やばかった。

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