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第16話 夏休み初日、旧校舎の七不思議と汗
夏休み初日の白鷺坂高校は、いつもの学校と少し違っていた。
二年三組の教室には誰もいない。廊下の窓は半分だけ開いていて、遠くのグラウンドから野球部の声が聞こえる。カン、と金属バットの音が鳴り、そのあと少し遅れて、吹奏楽部の音階練習が校舎の向こうから流れてきた。
蝉の声が、もう遠慮していない。
暑い。
とにかく暑い。
依央は学校指定のジャージの袖を少しまくり、旧校舎へ続く渡り廊下で立ち止まった。
「夏休みの学校、熱量おかしくない?」
晴臣が隣でタオルを首にかけている。
「野球部、朝から元気すぎ」
「黒瀬が混ざってても違和感ないな」
「むしろ三人くらいいる」
「増やすな」
依央は額の汗を指で押さえた。
今日は私服ではない。学校内の雑部活動なので、三人とも体操着にジャージだ。依央としては、夏の姫対策をそれなりに整えてきたつもりだった。
けれど、学校の暑さは強い。
姫顔を保つにも、湿気と蝉が邪魔をしてくる。
(夏休み初日の姫、難易度高。ジャージ、汗、蝉、グラウンドの熱気。全部かわいくない。いや、負けるな俺。男子校の姫は夏にも立つ。たぶん。今のところ、ちょっと溶けてるけど)
久我燈真は、旧校舎の鍵束を手にしていた。
いつものように涼しげ、というほどではない。額に少し汗はある。でも依央や晴臣ほど騒がない。
それがまた、腹立つくらい似合っている。
「今日は美術準備室、音楽準備室、資料室」
燈真が短く言った。
晴臣が顔をしかめる。
「夏休み初日に開ける場所じゃなくない?」
「夏休みしか開けない場所」
「言い方がもう怖い」
「備品確認」
「備品確認って名前の肝試しじゃん」
依央は笑った。
「晴臣、怖いの?」
「怖くねえし」
「声が少し高い」
「暑いだけ」
「俺の言い訳を使うな」
晴臣が旧校舎の方を指した。
「ていうか旧校舎って、七不思議あるだろ」
依央は足を止めた。
「……七不思議?」
「あるじゃん。夜になると音楽準備室のピアノが勝手に鳴るとか、美術準備室の石膏像が増えるとか」
「増えるのは嫌すぎる」
「あと、資料室の古い鏡に知らない生徒が映るとか」
「晴臣」
「何」
「暑さ対策で涼しくするのやめて」
「効いた?」
「効いてない」
「効いてる顔」
依央は外向きの笑顔を作った。
「俺、そういうの平気なので」
晴臣がにやっとする。
「へえ」
「平気です」
「じゃあ美術準備室、一人で見てくれば?」
「それは雑部の安全管理としてよくない」
「急に組織で動き出した」
燈真は鍵束を軽く鳴らした。
「行くぞ」
****
旧校舎の中は、本校舎より少し暗かった。
外はあれだけ暑いのに、中に入ると空気がひんやりしている。窓は閉まったままで、廊下には古い木と埃の匂いが残っていた。
晴臣が小声で言う。
「ほら、もう怖い」
「晴臣が怖がってるんだろ」
「依央も顔かたい」
「暑さで」
「ここ涼しいけど」
「じゃあ湿気で」
「何でも使うじゃん」
依央は前を向いた。
旧校舎の廊下は、いつもの雑部の場所のはずなのに、夏休みというだけで違って見える。人の声が少ない。窓の外の蝉だけがやけに大きい。
****
音楽準備室の前に着くと、燈真が鍵を差した。
かちゃ、と音がしただけで、依央の肩が少し揺れた。
(今のは鍵。鍵の音。普通。七不思議じゃない。ピアノも鳴ってない。石膏像もいない。俺は平気。平気な姫。平気な姫って何)
中は楽器ケースと譜面台でいっぱいだった。
晴臣が恐る恐る中をのぞく。
「うわ、暗」
「窓開ける」
燈真が奥へ進む。
依央は入り口付近で譜面台の数を確認した。紙に書き込む手元はきちんとしている。きちんとしているはずなのに、背中が少しだけ落ち着かない。
晴臣が壁際のケースを見て、急に声を低くした。
「この中からさ、夜中に音が」
「晴臣」
「はい」
「今それ以上言ったら、ホースで水かける」
「ここプールじゃない」
「心でかける」
「器用」
燈真が窓を開けた。
外の熱い風が少し入ってくる。吹奏楽部の音が遠くで鳴り、音楽準備室の暗さが少し薄まった。
「異常なし」
燈真が言う。
晴臣がほっと息を吐いた。
「次、美術?」
「うん」
「石膏像増えてたら帰る」
「増えない」
燈真は淡々としている。
依央は少しだけその背中を見た。
怖くないのか、怖くても出さないのか、そもそも何も考えていないのか分からない。
でも、燈真が前にいると少し安心する。
(そこに安心するな。いや、してもいい。雑部の鍵係だし。鍵係って何。頼れる地味男の肩書きが雑)
****
美術準備室は、音楽準備室よりさらに不気味だった。
棚には絵の具、古い額、布をかけられた石膏像。窓際には、使われていないイーゼルが並んでいる。
晴臣は入った瞬間に言った。
「無理」
「早い」
「布かぶった石膏像、絶対よくない」
「晴臣、想像力が豊か」
「依央、足止まってる」
「床の確認です」
「へえ」
「へえじゃない」
燈真が棚を確認する。
「花宮、奥の窓」
「はい」
依央は石膏像の横を通った。
布の下に顔があると思うだけで、なんか嫌だ。すごく嫌だ。誰もいない準備室で、背後に視線を感じる気がする。
(平気。平気。石膏像は石膏像。動かない。増えない。こっち見ない。見たら学校に苦情入れる。誰に? 知らん)
窓を開けようとした時、外から強い風が吹いた。
半開きの戸が、ばたん、と音を立てて閉まる。
依央は反射で声を飲み込んだ。
同時に、廊下側から晴臣の声が遠ざかる。
「あ、悪い! 用務員さんに呼ばれた! ちょっと行ってくる!」
「晴臣!?」
返事はない。
燈真の姿も、棚の向こうに見えない。
ほんの一瞬、依央は美術準備室に一人で残された。
布をかぶった石膏像。
風で揺れるカーテン。
閉まった扉。
誰もいない室内。
依央の喉が、ひゅっと変な音を立てた。
(待って。待って待って待って。これはまずい。七不思議の流れじゃん。石膏像増えるやつ? 増えてない? 数えた? 数えてない。やば。俺、今、清楚に終わる? 姫、旧校舎で散る?)
かた、と棚のどこかで音がした。
依央は固まった。
「……晴臣?」
返事はない。
「久我くん?」
声が思ったより小さかった。
その時、扉が開いた。
依央は考えるより先に動いていた。
「うわっ!」
入ってきた相手の胸元に、依央はそのまま抱きついた。
体操着越しの熱。
少し汗の匂い。
手が背中に回りかけて、止まる。
燈真だった。
「……花宮」
低い声がすぐ近くで聞こえた。
依央は一拍遅れて、自分が何をしているか理解した。
抱きついている。
完全に。
素で。
男子校の姫として、終わった。
依央は勢いよく離れた。
「すみません」
燈真は少しだけ目を見開いていた。
いつもの無気力な顔ではない。ほんの一瞬、驚いた顔。あと、少しだけ耳が赤いように見える。
依央はその耳を見てしまった。
(負けた。完全に負けた。怖がって抱きつくとか、どこのポンコツ姫だよ。俺だよ。最悪。……いや、待て。久我くんも今ちょっと赤くない? 耳。赤い? 照れてる? え、引き分け? 負けたけど、引き分け寄り?)
燈真は視線を少し外した。
「大丈夫か」
「大丈夫です」
「すごい勢いだった」
「風です」
「風で?」
「風に押されました」
「こっち向きに?」
「そういう風です」
燈真は少しだけ笑った。
依央は顔が熱くなるのを感じた。
(無理ある。風のせいは無理ある。旧校舎の風、俺を久我くんに投げるな。いや投げてない。俺が飛び込んだ。言うな。認めるな)
燈真が棚の方を見る。
「音、これ」
小さな空き缶が床に転がっていた。
古い筆洗いの缶らしい。
「落ちただけ」
「……でしょうね」
「怖かった?」
依央は即答しようとして、少し詰まった。
いつもの姫顔なら、軽く流せる。
怖くないです、と笑える。
でもさっき抱きついた時点で、いろいろ終わっている。
「……少しだけです」
燈真はその返事を聞いて、変にからかわなかった。
ただ、少しだけやわらかい声で言った。
「元気そうでよかった」
依央は何も返せなかった。
(何それ。怖がった俺を見てそれ? 元気そうでよかった? からかうとこじゃないの? やさしい方で来るな。そっちの方が刺さる。まじで無理)
廊下から晴臣が戻ってきた。
「悪い、用務員さんが……って、何その空気」
依央は即座に振り返った。
「何もない」
「絶対ある顔」
「何もない」
燈真が足元の空き缶を拾う。
「缶が落ちた」
晴臣がにやっとする。
「依央、ビビった?」
「ビビってない」
「久我の近くにいるけど」
「配置の問題」
「美術準備室の配置、そんな甘い?」
「晴臣」
「はい」
「次、資料室に一人で入れ」
「それはやだ」
「ほら」
「怖いものは怖いだろ!」
「俺は怖くない」
「抱きついてたくせに」
依央は一瞬止まった。
晴臣も止まった。
燈真も、空き缶を持ったまま止まった。
「……見た?」
依央が低く聞くと、晴臣は少しだけ後ずさった。
「ちょっとだけ」
「晴臣」
「待て。今のは事故」
「事故じゃない」
「じゃあ奇跡」
「もっと悪い」
燈真が短く言った。
「榎本」
晴臣はぴしっと背筋を伸ばす。
「はい」
「資料室」
「行きます」
「よろしい」
晴臣は逃げるように廊下へ出ていった。
依央はその背中をにらみながら、まだ心臓がうるさいのを感じていた。
抱きついた。
見られた。
燈真も、少し照れていたかもしれない。
情報が多い。
夏休み初日の旧校舎、怖すぎる。別の意味で。
(花宮依央、本日の判定。七不思議に負け、久我くんに抱きつき、晴臣に見られた。最悪。だけど、久我くんも照れてた気がする。つまり、完全敗北ではない。いや、勝ちでもない。引き分け? 判定、甘すぎ? でも引き分けで頼む)
****
最後の資料室は、三人で固まって入った。
古い段ボールと紙の匂いがした。七不思議っぽい鏡もあったが、依央は絶対に見ないようにした。晴臣が「鏡、見る?」と茶化したので、依央は無言で足を踏んだ。
「痛い!」
「床の確認」
「足の上で?」
「そういう床」
燈真が隣で少し笑った。
その笑い方を見て、依央はまた少しだけ落ち着かなくなる。
怖かったはずなのに、もう別のことで心臓が忙しい。
点検を終える頃には、夕方の光が旧校舎の廊下に差し込んでいた。
外ではまだ野球部の声がしている。吹奏楽の音は、曲らしい形になっていた。蝉の声も、少しだけやわらいで聞こえる。
晴臣は汗を拭きながら言った。
「夏休みの学校、思ったより濃いな」
「晴臣の怪談が余計だった」
「でも盛り上がっただろ」
「盛り上がり方が雑」
「依央、久我に抱きついたし」
「晴臣」
「はい、黙ります」
****
燈真は旧校舎の鍵を閉めた。
依央はその横顔をちらっと見る。
さっきの驚いた顔。
少し赤かった耳。
元気そうでよかった、という声。
思い出すと、また体が熱くなる。
(怖がって抱きついたの、普通に恥ずい。でも、久我くんがちゃんと迎えに来たのも、ちょっと照れてたのも、全部やばい。夏休み初日からこれ? こわ。七不思議より久我くんの方がこわい)
昇降口へ戻る途中、燈真が隣に並んだ。
「花宮」
「はい」
「次から、怖かったら呼べば」
依央は足を止めかけた。
「怖くないです」
「うん」
「少し驚いただけです」
「うん」
「だから、呼ぶ必要は」
「声、小さかった」
依央は言葉を止めた。
さっき、久我くん、と呼んだ声。
自分でも情けないくらい小さかった。
燈真は前を向いたまま、短く続けた。
「聞こえたから来た」
依央は何も言えなくなった。
(聞こえたから来た。何それ。地味男、そういうの言うな。助けに来た感を出すな。出してないのに出てる。無理。今の、かなり無理)
それでも、依央はどうにか息を整えた。
「……次は、もう少し大きい声で呼びます」
燈真がこちらを見る。
「呼ぶんだ」
依央は、しまったと思った。
でももう遅い。
燈真の目元が少しだけゆるむ。
依央は顔をそらした。
「……必要があれば、です」
「うん」
「たぶんありません」
「そっか」
「その顔、信じてないですね」
「少し」
依央は小さく息を吐いた。
悔しいのに、少し笑ってしまう。
夏休みの学校は、暑くて、不気味で、怖くて、変に甘い。
依央は旧校舎を振り返った。
窓ガラスに、夕方の光が薄く反射している。さっきの美術準備室も、音楽準備室も、もう普通の教室みたいに見えた。
でも、胸の中にはまだ、抱きついた瞬間の熱が残っている。
七不思議のせいじゃない。
それだけは、さすがに分かった。
(夏休み、始まったばっかでこれ。ほんと、先が思いやられる)
前を歩く晴臣が振り返る。
「依央ー、アイス買って帰ろうぜ!」
「おごり?」
「何でだよ!」
「俺の心の傷代」
「怖がったの自分じゃん!」
「晴臣が怪談言ったから」
「半分くらい俺のせい?」
「八割」
「多い!」
燈真が横でぼそっと言った。
「残り二割は?」
依央は一瞬、燈真を見た。
そして、すぐに前を向く。
「……旧校舎です」
燈真は少しだけ笑った。
その笑い方が、夕方の暑さに混じって残った。
依央はジャージの袖を軽く握り、歩き出した。
旧校舎の七不思議より、よっぽど説明のつかないものを抱えたまま。
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