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第17話 海に行く話と、先輩姫の水着相談
夏休みの旧校舎は、窓を開けてもぬるかった。
部室の机の上には、学校の保養所利用案内と、雑部の活動予定が置かれている。外では蝉が全力で鳴き、遠くのグラウンドからは部活の声が聞こえていた。
晴臣はその案内を見てから、さっきからずっと落ち着かない。
「晴臣」
「何」
「顔がうるさい」
「顔で言うな」
「じゃあ口で言って」
「……海の保養所のやつ」
「雑部で行くやつね」
「そこにさ」
晴臣は一度、久我燈真を見た。
燈真は窓際で、保養所案内の地図を眺めている。興味がなさそうに見えて、たぶん全部見ている。
晴臣は机に両手をつき、少し声を落とした。
「千紘さんも、誘えないかな」
依央は数秒、晴臣を見た。
「晴臣」
「はい」
「学校では秘密なのに?」
「そこなんだよ」
「しかも泊まり」
「そこもなんだよ」
「分かってるなら話が早い」
「だから頼んでる!」
晴臣は勢いよく手を合わせた。
「依央、お願い」
「雑」
「花の生徒会にもいるじゃん。依央なら、何かこう、うまい感じで」
「うまい感じで、が一番うまくない」
「そこを何とか」
依央は腕を組んだ。
海辺の保養所は、もともと雑部の夏休み活動として使えることになっていた。校内の小さな不具合を見るだけの同好会なのに、保養所の備品確認と簡単な地域交流の名目がついたせいで、妙にそれっぽくなっている。
そこへ千紘を呼ぶ。
ただのプライベート旅行みたいに見えると、千紘も動きづらい。
晴臣も、それが分かっているから依央を頼っている。
(うわ。幼馴染、めんどい顔してる。いや、気持ちは分かる。千紘さんと海、行きたいよな。そりゃ行きたい。顔がもう海辺の彼氏だもん。だる。かわいいかよ)
燈真が短く言った。
「花宮、向いてる」
依央はそちらを見た。
「何がですか」
「こういうの」
「ざっくり」
「両方いるし」
花の生徒会と雑部。
たしかに、依央はどちらにもいる。
橋をかけるなら、自分が動くのが一番自然だ。
そう思ってしまった時点で、依央の負けだった。
「……聞くだけ聞く」
晴臣の顔が一気に明るくなった。
「依央!」
「まだ決まってない」
「ありがとう!」
「早い」
「依央、神」
「軽い神扱いするな」
燈真が案内用紙をたたむ。
「白石先輩、駅前なら話しやすいんじゃない」
「久我くんまで段取りを進めないでください」
「もう進んでる」
依央はため息をついた。
(やるしかないやつ。しかも久我くんに向いてるって言われたあとで断るの、何か負けた感じする。いや、もう負けてる。何に? 分からん。とにかく晴臣、あとで何かおごれ)
****
千紘との待ち合わせは、白鷺坂駅前のカフェになった。
学校ではなく、外で話した方がよい。
依央はそう判断して、千紘へ連絡を入れた。千紘からはすぐに、穏やかな文面で返事が来た。
駅前カフェに着くと、千紘は窓際の席に座っていた。
白い薄手のカーディガンに、淡い水色のシャツ。髪はいつもよりやわらかく下りていて、学校の清楚な先輩姫とは少し違う。
近い。
やわらかい。
そして、普通にかわいい。
(待って。プライベート白石先輩、強い。学校だと清楚の完成形なのに、駅前だと恋愛漫画の先輩じゃん。いや、何目線だ俺)
「花宮くん、こっち」
「お待たせしました」
「ううん。僕も少し前に来ただけ」
依央は向かいに座った。
アイスティーのグラスが二つ置かれる。カフェの空気は冷えているのに、外の夏が窓越しに光っていた。
千紘が少し首を傾げる。
「海の話、だよね」
「はい。雑部で、学校の保養所を使う話が出ていて」
「晴臣くんからも、少しだけ聞いた」
晴臣くん。
その呼び方だけで、学校での空気と違う。
依央は本題に入った。
「白石先輩も来られないかと思って。……ただ、雑部だけだと、ちょっと誘い方が難しいですよね」
千紘は少しだけ目を伏せた。
「うん。泊まりになると、少し迷うかな。学校では、晴臣くんとのこともあるし」
「ですよね」
依央はそこで、グラスの水滴を見た。
建前がいる。
ただの恋人同士の泊まりではなく、学校の活動として通る形。
雑部だけでは弱い。
なら。
「雑部と花の生徒会の合同親睦、という形ならどうですか」
千紘が目を上げた。
「合同親睦?」
「はい。俺、両方にいますし。雑部側の保養所利用と、花の生徒会側の交流という形にすれば、白石先輩も参加しやすいと思います」
千紘は数秒、依央を見た。
それから、ふっと笑った。
「花宮くん、そういうところ上手だね」
「姫なので」
「ふふ。頼もしい」
頼もしい、と言われて、依央は少しだけ背筋を伸ばした。
千紘はアイスティーに手を添え、少し照れたように言う。
「それなら、行けると思う。晴臣くんにも、そう言っておくね」
依央はスマホを取り出した。
「晴臣には、俺からも連絡します」
短く打つ。
白石先輩、参加できそう。
送信した瞬間、既読がついた。
早い。
すぐに返信が来た。
まじで!?!?
ありがとう依央!!!!
千紘さんにもありがとうって言っといて!!!!
依央はスマホを伏せた。
「晴臣、うるさいです」
千紘が少し身を乗り出す。
「何て?」
「ありがとうが多いです」
千紘はくすっと笑った。
「よかった」
その顔が、学校の先輩の顔ではなかった。
晴臣のことを思い浮かべて、少し嬉しそうにしている。
恋人の顔。
依央は、それを正面から見てしまった。
(うわ。白石先輩、晴臣のことになると普通にかわいい。いつもの清楚カッコいい先輩どこ行った。恋する男の子じゃん。晴臣、これ見て生きてるのすごいな)
「せっかくなので」
依央は少し明るく言った。
「海の準備、見に行きませんか」
「準備?」
「水着とか」
千紘は一瞬だけ固まった。
それから、少し頬を染めた。
「……うん。実は、少し相談したかった」
****
駅前の商業ビルには、夏物の服や水着が並んでいた。
白、薄水色、紺、淡いピンク。ラッシュガードやショートパンツが、明るい照明の下できれいに並んでいる。
千紘は薄水色のラッシュトップを手に取って、少し迷った。
「花宮くん、晴臣くんって、こういう色、好きかな」
依央は一瞬、真面目に考えた。
「晴臣は、白石先輩が選んだ時点でだいたい負けます」
「負ける?」
「語彙が消えます」
千紘は少し頬を染めた。
「それは……困るけど、ちょっと見たいかも」
(うわ。白石先輩、恋する男の子の顔するじゃん。学校では清楚の完成形なのに、晴臣の話になると普通にかわいい。強い。これは晴臣が終わる)
依央は隣の白い細身パンツを合わせた。
「これ、上品です。脚も出ますけど、白石先輩なら涼しげに見えます」
「脚、出すぎじゃないかな」
「晴臣は固まります」
「花宮くん」
「大事な判断材料です」
千紘は困ったように笑って、でもその組み合わせから目を離さなかった。
「じゃあ、少しだけ頑張ってみようかな」
依央はその言い方にやられた。
(少しだけ頑張る白石先輩。何それ。晴臣、当日ほんとに立ってられる? 無理では?)
次は依央の番だった。
依央は白のセーラー風ラッシュトップを手に取った。
甘すぎない。けれど、ちゃんと可愛い。短めのホットパンツと合わせれば、健康的で、海でも目を引く。
男子校の姫としては、かなり正解。
(これは万人受け。海辺の花宮依央として、かなり強い。全員の視線を取れる。……久我くんは、こういうのどう見るんだろ)
思った瞬間、依央は内心で自分の首根っこをつかんだ。
(待て。何でそこまで考えてんの。久我くんの好み、知らないし。そもそも寄せる必要ないし。これは姫としての最適解。……でも、見られたらどうなるかは、ちょっと気になる。ちょっとだけ)
千紘が依央の手元を見て、やわらかく笑った。
「花宮くん、それ似合うと思う」
「本当ですか」
「うん。可愛いけど、元気な感じもある。海で映えそう」
「男子校の姫としては、正しいですよね」
「正しいと思う」
千紘は少し考えてから、そっと付け加えた。
「久我くんも、ちゃんと見るんじゃないかな」
依央は固まった。
「……なぜ、そこで久我くんが」
「何となく」
千紘はそれ以上言わない。
その何となくが、一番困る。
(何となくで久我くん出さないでください。しかも、ちゃんと見るって何。見られる? この水着で? いや、見せるために選んだんだけど。誰に? 全員。そう、全員。……でも久我くんが見るなら、ちょっと待て。心臓の準備がいる)
依央はラッシュトップを腕にかけた。
「これにします」
「うん。すごくいいと思う」
千紘も薄水色のラッシュトップを抱えた。
二人でレジへ向かう頃には、少しだけテンションが上がっていた。
学校の話ではない。
行事の準備でもない。
誰かにどう見られるかを考えながら、海の服を選ぶ。
それが、思ったより楽しかった。
****
買い物を終えたあと、二人はもう一度カフェに寄った。
合流までは、まだ少し時間がある。
千紘は冷たいミルクティーを前に、買い物袋を足元に置いた。依央も向かいに座り、グラスの氷を軽く揺らす。
「晴臣くん、変にならないかな」
千紘がぽつりと言った。
依央は即答した。
「なります」
「即答」
「幼馴染なので」
「どんなふうに?」
「まず固まります。次に褒めようとして、たぶん変な日本語になります」
千紘は口元を押さえて笑った。
「見たい」
「白石先輩、けっこう攻めますね」
「そうかな」
「はい」
千紘は少しだけ照れた。
「晴臣くんが分かりやすいと、僕も安心するから」
依央はその言葉を聞いて、少し黙った。
分かりやすいと安心する。
好きな相手の反応を見て、安心する。
それが、恋人同士の距離なのかもしれない。
(恋人っていいな)
思ってしまった。
そして、すぐに燈真の顔が浮かんだ。
(違う違う違う。今のは一般論。恋人文化への感想。俺と久我くんは関係ない。関係ないのに何で顔が出る。脳内、勝手に駅前集合するな)
千紘は依央を見て、少しだけ首を傾げた。
「花宮くん?」
「何でもありません」
「顔、少し赤いよ」
「カフェが涼しすぎて」
「涼しいと赤くなるの?」
依央は数秒黙った。
「……なりません」
千紘は楽しそうに笑った。
「花宮くん、正直」
「今のは負けました」
「何に?」
「自分にです」
****
合流場所には、晴臣と燈真が並んで立っていた。
晴臣は依央と千紘を見つけた瞬間、すぐに姿勢を正した。
「千紘さん」
「晴臣くん」
その呼び方に、晴臣の顔が少しだけ赤くなる。
依央は内心で笑った。
(はい、もう固まりかけてる。水着前でこれ。海、大丈夫か?)
晴臣は千紘へ向き直り、少し緊張した声で言った。
「参加してくれて、ありがとうございます」
千紘はやわらかく笑う。
「こちらこそ、誘ってくれてありがとう。楽しみにしてるね」
晴臣は一瞬、言葉を失った。
依央は横から小さく言う。
「語彙」
「ある」
「今ない」
「ある!」
晴臣は咳払いをして、今度は依央を見た。
「依央も、ほんとありがとな」
「貸し一つね」
「重い」
「幼馴染価格」
「価格あるんだ」
燈真は依央の持っている袋を見た。
「買った?」
依央は袋を少し後ろへ引いた。
「海で使うものです」
「水着?」
「中身は当日まで秘密です」
晴臣がすぐに反応した。
「え、千紘さんも?」
千紘は少し照れて、でも楽しそうに笑った。
「海でのお楽しみ」
晴臣は胸元を押さえた。
「今のでだいぶやばい」
「晴臣、当日まで生きて」
「自信ない」
依央は笑った。
燈真は何も聞かず、ただ依央の顔を見ていた。
「楽しそう」
「海の準備なので」
「うん」
「合同親睦なので」
「うん」
「その顔、何ですか」
「いいなと思って」
依央は少しだけ言葉に詰まった。
「何が」
「楽しそうなの」
燈真の声は短かった。
でも、さっき千紘が晴臣の反応を楽しみにしていた顔と、どこかつながってしまう。
誰かに見られている。
それが、嫌じゃない。
(やめろ。ここでつなげるな。今は海の準備。白石先輩の参加成功。晴臣の語彙消失予定。久我くんの目が優しいとか、考えるな)
晴臣と千紘が少し前を歩き出す。
依央と燈真は、その後ろに並んだ。
駅前の夕方は、夏の匂いが濃い。
買い物袋が、依央の手元で軽く揺れる。
「海、楽しみですね」
依央が言うと、燈真は短くうなずいた。
「うん」
「久我くん、海とか行くんですか」
「あんまり」
「じゃあ、今回は雑部として」
「うん」
「花の生徒会との合同親睦も兼ねて」
「うん」
「そこ、もう少しわくわくしてもいいんですよ」
燈真は少しだけ依央を見る。
「花宮がしてるからいい」
依央は足元を見た。
(出た。俺がしてるからいい。そういうの、ずるい。俺の楽しみを見てるってことじゃん。やめろ。いや、やめなくていい。どっちだよ)
前を歩く千紘が振り返った。
「海、楽しみだね」
晴臣がすぐうなずく。
「楽しみです」
「晴臣、敬語」
「今のは自然に出た」
依央は笑った。
「楽しみですね」
燈真も、少しだけ目元をゆるめた。
「うん」
その「うん」は、いつもより少しだけ柔らかかった。
依央は買い物袋を持ち直した。
海。
水着。
誰に見られたいか。
その言葉が、まだ胸の奥で小さく揺れている。
(白石先輩と、ちょっと仲良くなった。晴臣の顔も見た。恋人っていいなって思った。で、久我くんの顔が浮かんだ。……いや、整理するな。整理したら終わる。今日は海が楽しみ。それだけ。それだけにしておけ)
夕方の駅前を、四人で歩く。
夏の匂いが、少しずつ濃くなっていた。
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