47 / 51

第47話 バレンタイン、同じチョコと渡す理由

バレンタイン前の白鷺坂駅前は、明らかに甘かった。 商店街の洋菓子店には、赤と茶色の小さなポスターが貼られている。駅ビルの一角には特設のチョコ売り場ができていて、学生らしい男子たちが、妙に真剣な顔で箱を見比べていた。 男子校でも、バレンタインは来る。 それどころか、男子校だからこそ、妙な熱がある。 友チョコ。 部活チョコ。 先輩チョコ。 後輩チョコ。 名前はいくらでもつけられる。 問題は、名前をつけたところで、依央の中身がまったく落ち着かないことだった。 (チョコ売り場、全部俺を責めてくる。可愛い箱。大人っぽい箱。シンプルな箱。好きですって書いてないチョコ、逆にどれ? 久我くんに渡す理由、ありすぎて逆にない。詰んだ♡) 依央は棚の前で、すでに十分近く固まっていた。 手には小さなチョコの箱。 深いグレーの包装紙に、銀の細いリボン。 見た瞬間、燈真っぽいと思った。 思ってしまった。 そこでもう終わっている。 (グレー。銀。久我くんのマグと星。はい、連想。だめ。これ選んだら気持ちが透ける。いや、誰に? 店員さんに? チョコに? 俺の脳内、誰と戦ってるの) 依央は箱を戻しかけた。 戻せなかった。 燈真に似合う。 それだけで、戻せない。 「お客様、お悩みでしたらこちらも人気ですよ」 店員が、やさしく声をかけてくる。 依央は反射で外向きの笑顔を出した。 「ありがとうございます。友人に渡すものを選んでいて」 友人。 雑部仲間。 いつものお礼。 チョコを渡す理由としては、どれも使える。 でも、その言葉を口に出した瞬間、胸の奥が少しだけ引っかかった。 (友人。雑部仲間。お礼。全部嘘じゃない。でも、それだけじゃない。俺、かなりめんどくさいな。チョコ一個でこんなに脳内会議する?) 店員が別の箱を見せる。 白い箱に、淡い青のリボン。 依央は一瞬、自分のマグを思い出した。 薄い青のマグ。 雑部の棚。 燈真の深いグレーのマグ。 晴臣のオレンジのマグ。 あの三つが並んだだけで、部室が少し暖かく見える。 (マグまで出てくる。チョコ売り場で雑部の棚を思い出すな俺。久我くんだけじゃなくて、晴臣の顔まで出てきた。友チョコも買わないと怒られるやつ) 依央は白い箱を手に取った。 これは晴臣用でいい。 明るい色の方が晴臣っぽい気もするが、晴臣は何でも喜ぶ。千紘からもらえるものとは別に、雑部の友チョコとして渡せば、たぶん騒ぐ。 燈真には、深いグレーの箱。 晴臣には、白と淡い青の箱。 そう決めた瞬間、依央は少しだけ息を吐いた。 (よし。雑部チョコ。友チョコ。お礼。全部成立。久我くんへのだけ明らかに悩みすぎた事実は、俺の胸の中に埋める。埋めろ。顔に出すな) 会計を済ませ、依央は店の外に出た。 その時、通りの向こうに見覚えのある背中が見えた。 黒いコート。 少し猫背。 静かな立ち方。 久我燈真。 依央は、足を止めた。 燈真は、別の店のショーケースを見ていた。 チョコの店だ。 依央の心臓が、一瞬で変な動きをした。 (え。久我くんもチョコ売り場? 誰に? いや、家族とか。雑部とか。晴臣とか。普通にありえる。ありえるけど、何見てるの。何買うの。誰に。誰に?) 見てはいけない気がした。 でも、見た。 燈真はしばらくショーケースを見て、小さな箱を二つ選んだ。 ひとつは、深いグレーの包装に銀のリボン。 もうひとつは、白い箱に淡い青のリボン。 依央は、駅前で静かに固まった。 (待って) 同じ。 たぶん、同じ店ではない。 でも、ほとんど同じ色。 同じ組み合わせ。 (待って。久我くん、それ誰用? グレーと銀。白と青。いや、偶然。世の中にチョコの色なんて限られてる。限られてるけど、待って。俺と同じ選び方してない? 何それ。やばい。嬉しい前に混乱が来た) 燈真が顔を上げた。 視線が合った。 依央はとっさに紙袋を後ろへ回した。 燈真も、手元の小さな袋を少しだけ下げた。 完全に見えている。 「花宮」 「久我くん」 「買い物?」 「買い物です」 「チョコ?」 「……雑部用です」 「そっか」 燈真の声はいつも通りだった。 でも、いつもより少しだけ耳が赤い気がした。 依央はそこを見た。 見てしまった。 (耳。赤い? 寒いから? チョコだから? 俺に見られたから? やばい、全部都合よく見える。俺の目、信用できない) 「久我くんも」 「うん」 「チョコですか」 「うん」 「誰に」 聞いた。 聞いてしまった。 燈真は一瞬だけ黙った。 依央の心臓が跳ねる。 「雑部」 「雑部」 「うん」 「なるほど」 なるほど、ではない。 何も分かっていない。 でも、駅前でこれ以上聞く勇気はなかった。 燈真も聞かなかった。 二人はそれぞれの紙袋を持って、ほんの少しだけぎこちなく別れた。 「また、学校で」 「はい」 それだけ。 たったそれだけなのに、依央は駅前の風にしばらく立ち尽くした。 (雑部用。久我くんも雑部用。俺も雑部用。じゃあ何でこんなに心臓が騒ぐの。雑部って言えば何でも通ると思うなよ。……俺が一番使ってるけど) **** バレンタイン当日、放課後の旧校舎は冷えていた。 雑部は、まず旧校舎一階の掲示板確認から始まった。 花の生徒会から回ってきた春先の説明会仮案内を、古い掲示と差し替える。さらに、落とし物箱に残っていた手袋とマフラーを、職員室前へ移すためのリストに書き込む。 机の上には、備品台帳、掲示紙、クリップの小箱。 棚には、三つのマグ。 薄い青。 深いグレー。 オレンジ。 晴臣は落とし物リストを見ながら、唸っていた。 「片方だけの手袋、多すぎる」 依央は掲示紙の角をそろえながら言った。 「冬の旧校舎あるあるだね」 「持ち主、気づかないのかな」 「気づいたら取りに来るでしょ」 「俺なら泣く」 「晴臣は手袋より千紘さんからのチョコで頭いっぱいでしょ」 晴臣の顔が一瞬でゆるんだ。 「もらった」 「聞いてないのに答えた」 「きれいな箱だった」 「よかったね」 「まだ開けてない。帰ってから開ける」 「大事にしすぎ」 「大事だろ」 依央は笑った。 晴臣の浮かれ方は分かりやすい。 でも、その分、見ていて少し安心する。 好きな相手からもらったものを、ちゃんと嬉しそうにする。 羨ましいくらい、素直だ。 (俺も、あれくらい顔に出せたら楽なのかな。無理だな。俺が久我くんからチョコもらったら、たぶん顔だけじゃ済まない。心臓が部室の床に落ちる) 「花宮」 燈真の声がした。 依央は掲示紙を持ったまま、振り向く。 「はい」 「そっち、貼る?」 「貼ります」 「手伝う」 燈真が掲示板の前に立つ。 依央が紙を押さえ、燈真がクリップで留める。 指が近い。 触れない。 でも近い。 バレンタインの日に、掲示物を貼っているだけなのに、空気が勝手に甘くなる。 (何で掲示紙一枚でこんなに意識するの。チョコが鞄にあるから? 久我くんの鞄にもあるかもしれないから? バレンタイン、怖い。行事が勝手に仕事場へ侵入してくる♡) **** 掲示を終えると、三人は部室に戻った。 晴臣はさっそく電子レンジの横に立つ。 「仕事終わりのココア」 「晴臣、最近それ言いたいだけでしょ」 「マグがあると飲みたくなるんだよ」 「分かるけど」 燈真が三つのマグを棚から出す。 深いグレーのマグ。 薄い青のマグ。 オレンジのマグ。 当たり前のように並ぶ。 その景色に、依央は少しだけ胸が温かくなった。 晴臣がオレンジのマグにココアを入れながら、にやっとする。 「で」 依央は身構えた。 「何」 「今日、バレンタインじゃん」 「そうだね」 「雑部には?」 「晴臣、催促の仕方が雑」 「俺、友チョコ文化を大事にしてる」 「都合のいい文化」 晴臣が期待に満ちた目で見る。 依央は鞄から小さな紙袋を出した。 「はい。晴臣」 「あるんだ!」 「友チョコです」 「依央!」 晴臣は両手で受け取った。 「ありがとう! 千紘さんの次に大事に食べる!」 「順位を出さないで」 「正直」 燈真がその様子を見ていた。 依央は、次の紙袋を持ったまま、少しだけ固まる。 深いグレーの箱。 銀のリボン。 駅前で選んだ時から、ずっと妙に重い。 「久我くん」 「うん」 依央は紙袋を差し出した。 「これ。いつものお礼と、雑部用と、まあ、いろいろです」 燈真は紙袋を受け取った。 「ありがとう」 短い。 でも、ちゃんと受け取る手つきだった。 依央はその手元を見てしまう。 見ていたら、燈真が自分の鞄へ手を伸ばした。 そして、同じように紙袋を二つ取り出した。 ひとつを晴臣へ。 「榎本」 「え、俺にも?」 「うん」 晴臣は目を丸くして受け取る。 「久我から友チョコ!?」 「雑部」 「雑部チョコ!」 「名前つけた」 「嬉しいからいい!」 そして、燈真はもうひとつを依央へ差し出した。 「花宮」 依央は、息を止めた。 「……俺にも?」 「うん」 「雑部用?」 「それも」 それも。 その言葉で、依央の耳が熱くなる。 依央は紙袋を受け取った。 中を見る。 深いグレーの包装紙に、銀のリボン。 昨日、自分が選んだものと、ほとんど同じ。 依央は無言で、自分が燈真へ渡した紙袋を見た。 燈真も、受け取った箱を出す。 同じ。 本当に、同じチョコだった。 部室の空気が止まった。 晴臣がまず叫んだ。 「待って」 依央は顔を押さえたくなった。 「晴臣、待たないで」 「無理。お前ら、同じチョコ選んだの?」 燈真は自分の箱と依央の箱を見比べる。 「同じだな」 「落ち着いて言うな!」 依央は薄い青のマグを見つめた。 (同じ。久我くんと同じチョコ。しかも俺宛。いや雑部用もある。でも俺に渡した。俺が久我くん用に選んだのと同じ。何これ。やばい。嬉しい。嬉しすぎて逆に動けない♡) 晴臣は自分の紙袋も開けた。 白い箱に、淡い青のリボン。 依央が晴臣用に買ったものと同じ。 晴臣は、依央からもらった箱を取り出した。 同じ。 完全に同じ。 「待って、俺のも同じ!」 依央は今度こそ机に手をついた。 「嘘でしょ」 燈真は少しだけ目を開いた。 「本当だ」 晴臣は二つの箱を両手に持って、爆笑した。 「お前ら、俺への友チョコまで同じなの何!?」 「知らない!」 「久我、何でこれ選んだんだよ!」 燈真は晴臣の箱を見る。 「榎本っぽいかと思って」 依央は小さく呻いた。 「俺もです」 晴臣がさらに笑う。 「発想まで同じ! 怖い! いや嬉しい!」 「晴臣、笑いすぎ」 「笑うだろ! 依央と久我が同じ気持ちで俺とお互いのチョコ選んでるんだぞ!」 依央は耳まで熱くなった。 「同じ気持ちとか言わないで」 燈真が少しだけ視線を落とす。 「同じではある」 依央は燈真を見た。 「久我くん」 「何」 「そこで乗らないでください」 「でも、同じだった」 「そうですけど」 (同じだった。同じだったって、そんな顔で言うな。俺の心臓、チョコより溶けてる。無理♡) 晴臣は二つの友チョコを大事そうに鞄へしまった。 「俺、これ千紘さんに報告していい?」 「だめ」 依央が即答する。 「何で」 「白石先輩に笑われる」 「いいじゃん。幸せな事故だろ」 「事故って言うな」 燈真が短く言う。 「偶然」 「久我、そこだけ冷静」 晴臣はにやにやしながら、スマホを見た。 「千紘さんから連絡きた。廊下で返してくる」 「逃げるの早い」 晴臣は振り返る。 「はいはい。二人で同じチョコ眺めてろ」 晴臣は笑いながら部室を出ていった。 扉が閉まる。 部室が急に静かになる。 机の上には、同じチョコの箱が二つ。 深いグレー。 銀のリボン。 三つのマグから、ココアの湯気が上がっている。 依央は、自分のマグを両手で包んだ。 「……びっくりしました」 「うん」 燈真は自分がもらった箱を見ている。 「花宮も、これ選んだんだな」 「久我くんもです」 「うん」 「何でこれにしたんですか」 燈真は少しだけ考えた。 「花宮に似合うと思った」 依央は固まった。 「俺に?」 「うん」 「グレーと銀が?」 「うん」 「俺、そんなに地味ですか」 「きれい」 呼吸が止まるかと思った。 燈真は、いつもの顔で、そう言った。 「派手じゃないけど、ちゃんと目に残る」 依央はマグを握る手に力を入れた。 (何それ。チョコの説明? 俺の説明? やばい。無理。久我くん、バレンタインにそういうこと言うな。甘さがチョコを超える♡) 「……久我くんは」 「うん」 「俺、久我くんに似合うと思って選びました」 「グレーと銀?」 「はい」 「地味?」 「静かで、強くて、きれいなので」 言った。 言ってしまった。 でも、戻さなかった。 燈真は、ほんの少しだけ目を伏せた。 「そっか」 その声が、少し柔らかい。 依央はそれだけで、胸が苦しくなる。 「あと」 燈真が言う。 「何ですか」 「渡したかった」 依央は顔を上げた。 燈真は、同じチョコの箱を見ている。 「理由は、雑部とか、お礼とか、いろいろ言えるけど」 短い間。 「渡したかった」 その言葉が、まっすぐ胸に来た。 依央は、すぐには返せなかった。 チョコ売り場で迷った時間。 友人、雑部仲間、いつものお礼。 いくつも名前をつけようとして、結局どれも足りなかった気持ち。 燈真も、同じところにいたのかもしれない。 依央はゆっくり息をした。 「俺もです」 声は小さかった。 でも、ちゃんと出た。 「理由、いろいろ考えたんですけど」 「うん」 「渡したかったです」 燈真が依央を見る。 「うん」 その一音で、部室の中が少しだけ静かに甘くなる。 告げたい言葉は、まだ奥にある。 でも、今日渡したかったことは、言えた。 それだけで、胸がいっぱいだった。 依央はチョコの箱をそっとマグの横に置いた。 深いグレーの箱。 薄い青のマグ。 その隣に、燈真のグレーのマグ。 晴臣のオレンジのマグは、少し離れたところで湯気を立てている。 三人の場所。 その中で、二人だけが少しだけ違う温度を持っている。 依央は、胸の奥で小さく笑った。 (同じチョコ。渡したかった。同じこと考えてた。やばい。嬉しい。好き。もう好きしか出てこない。でも今日は、ここまででいい。チョコ、強すぎ) 廊下から晴臣の声が聞こえた。 「千紘さん、めっちゃ笑ってる!」 依央は額に手を当てた。 「報告したんだ」 燈真が少し笑う。 「榎本だし」 「それで通りますね」 扉が開き、晴臣が満面の笑みで戻ってきた。 「千紘さんが、三人で食べる時は写真送ってって」 「白石先輩まで」 「あと、俺へのチョコが二つあるの、めちゃくちゃ笑ってた」 「でしょうね」 晴臣は自分のオレンジのマグを持った。 「いやー、今年のバレンタイン、最高だな」 依央は薄い青のマグを持つ。 「晴臣が一番楽しんでる」 「だって、千紘さんのチョコもあるし、依央と久我から同じ友チョコもらったし、二人は同じチョコで真っ赤だし」 「最後いらない」 「いるだろ」 燈真は深いグレーのマグを持って、短く言った。 「うるさい」 晴臣が笑う。 「久我が照れてる!」 「うるさい」 二回目。 依央は笑った。 バレンタイン。 チョコ。 同じ箱。 渡したかった。 いろいろな理由をつけなくても、その言葉だけで十分な日がある。 **** 旧校舎の外は、もう暗くなり始めていた。 瑞城市の冬の夕方は早い。 けれど、雑部室には三つのマグと、同じチョコの箱と、晴臣の笑い声と、燈真の少し赤い耳がある。 依央は、自分の胸の奥で溶けかけている甘さを、静かに受け取った。 恋は、まだ言葉になりきっていない。 でも、今日のチョコみたいに、ちゃんと手渡せるものもある。 それが、たまらなく嬉しかった。

ともだちにシェアしよう!