46 / 51

第46話 依央、姫営業を失敗する

冬の朝は、教室に入る前から少しだけ気合いがいる。 白鷺坂高校の廊下は冷えていて、窓の外には瑞城市の山の稜線が青く沈んでいた。駅前商店街のイルミは朝には消えているのに、昨日の光の名残だけが、依央の中にまだ少し残っている。 燈真の名前が掲示板に出た日。 答案を一緒に見た日。 かっこよかったです、と言ってしまった日。 そこから、依央の心臓はかなり扱いづらくなっていた。 (好きって認めた後の学校生活、難易度高すぎ。久我くんがいるだけで視界が勝手にそっち行く。廊下にいる。教室にいる。雑部にいる。多い。いや、同じ学校だから当たり前。久我くん、当たり前みたいに存在しないでほしい♡) 依央は教室の前で一度息を整えた。 今日は花の生徒会の後輩対応がある。 冬休み明けから、来年度に向けた準備が少しずつ始まっていた。新しく入るかもしれない生徒向けの案内、校内掲示の整理、春先の説明会の仮案。千紘が卒業に向けて少しずつ手を離しているぶん、依央が前に立つ場面も増えている。 ちゃんとしなければ。 男子校の姫として。 花の生徒会の先輩として。 (はい、今日も姫。完璧に整える。後輩に頼られる先輩。余裕の笑顔。品のある返し。久我くんの答案を思い出して机に沈む男じゃない。切り替えろ、俺) 教室へ入ると、黒瀬陸斗がすでに騒いでいた。 「花宮! 聞いてくれ!」 「朝から声が大きい」 「購買の新作パン、売り切れてた!」 「平和な事件だね」 「平和じゃない。俺の朝が崩れた」 篠宮怜央が本を閉じる。 「買うのが遅い」 「篠宮、そういう正しさはパンの前では冷たい」 鷹宮蓮は黒瀬の手元を見て、さらっと言った。 「代わりに買ったメロンパン、花宮に似合いそう」 「なぜ俺に似合うパンを探すの」 「白くて丸いから」 「俺はパンではありません」 黒瀬が笑う。 「でも花宮、購買に立ってたら売れるだろ」 「俺を商品棚に置かないで」 いつもの教室。 いつもの軽口。 依央は自然に笑えた。 少し前なら、こういう場面で自分の笑顔を整えることに意識が向いていた。今も整える。そこは変わらない。けれど、少しだけ力の入り方が違う。 完璧な顔だけでなく、ツッコミを入れる自分も、周囲は普通に受け取っている。 それを、少しずつ知ってきた。 「花宮」 後ろから燈真の声がする。 依央の心臓は、すぐ反応した。 「はい」 「今日、花の生徒会?」 「放課後に少し。旧校舎の掲示物も回ってきます」 「手伝う」 「雑部の方ですか」 「うん」 「助かります」 言ってから、依央は少しだけ止まった。 助かります。 普通の言葉だ。 でも、燈真に言うと妙に胸が鳴る。 燈真が少しだけ依央を見る。 「顔」 「朝の冷えです」 「教室、暖房ついてる」 「心の冷えです」 「何それ」 燈真が少し笑った。 その笑いを見て、依央は机に手を置いた。 (無理。朝から久我くんが笑った。俺の心の冷え、秒で溶けた。何この人。暖房器具? いや違う。好きな人。はい、終わり♡) 放課後、花の生徒会の部屋には、後輩たちが集まっていた。 机の上には、次の校内案内用の資料、春先の掲示案、部活動紹介の仮リスト。千紘は受験関係の用事で途中から合流する予定で、最初の確認は依央が任されていた。 一年生の後輩が、少し緊張した顔で資料を差し出す。 「花宮先輩、ここ、どう直したらいいですか」 「見せて」 依央は資料を受け取った。 校内案内の文面。 丁寧だが、少し固い。 「ここは、もう少し話しかける感じでいいと思う。初めて来る子が読むから」 「話しかける感じ……」 「例えば、図書室なら『静かに勉強できます』だけじゃなくて、『テスト前に使う人も多いです』とか」 「なるほど」 別の後輩がメモを取る。 「花宮先輩、すごいですね」 依央は笑った。 「慣れだよ」 「先輩みたいに、自然に話せる気がしないです」 「大丈夫。最初からうまくやろうとしなくていいから」 依央は、いつもの先輩の顔で言った。 ここまではよかった。 問題は、その後だった。 後輩の一人が、部活動紹介のリストを見ながら首をかしげた。 「この同好会って、何をしてるんですか? 校内生活改善同好会」 依央の手が止まった。 雑部。 後輩は真剣な顔で続ける。 「名前だけ見ると、すごく立派なんですけど」 「立派……」 「はい。校内を改善するんですよね?」 依央の脳内に、電子レンジ、ココア、三つのマグ、おでん要相談、晴臣の笑顔、燈真のグレーのマグが一気に浮かんだ。 立派。 たしかに掲示物も貼る。 落とし物も整理する。 備品台帳も見る。 でも、それだけではない。 依央は反射で言った。 「名前ほど立派じゃないよ」 言ってから、固まった。 後輩も固まった。 部屋の空気が一瞬止まる。 依央は内心で頭を抱えた。 (出た。素。花の生徒会の先輩として、今の返しは何。もっとあるでしょ。校内の小さな困りごとを手伝う同好会です、とか。旧校舎の掲示管理もしています、とか。何で名前ほど立派じゃないよって言った。終わった) 後輩の一人が、ぷっと笑った。 それにつられて、もう一人も笑う。 「花宮先輩、そういうこと言うんですね」 「え」 「なんか、ちょっと安心しました」 「安心?」 「先輩、いつもきれいで完璧だから。何でも上品に言うのかと思ってました」 依央は資料を持ったまま固まった。 別の後輩が言う。 「でも、分かりやすいです。名前は立派だけど、小さいことをちゃんとやってる同好会ってことですよね」 「……そう。そういうこと」 「じゃあ、紹介文は『旧校舎の掲示物整理や落とし物確認など、校内の小さな不便を整える同好会です』とかどうですか」 依央は目を瞬いた。 「いいと思う」 「やった」 後輩たちが笑う。 緊張していた空気が、少しゆるんだ。 依央は、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。 失敗したと思った言葉が、後輩たちを遠ざけなかった。 むしろ、近づいた。 (え。今のもありなの? 俺、また素で言ったのに。後輩、引いてない。むしろ笑ってる。完璧じゃない方が話しやすいって、こういうこと?) その後も、依央は少しだけ肩の力を抜いて資料確認を進めた。 「ここ、文章が固い」 「え、固いですか」 「うん。先生に提出する文みたい」 「じゃあ、どうすれば」 「読む相手を中学生にする。先生に褒められる文じゃなくて、見た子が少し安心する文」 「花宮先輩、今の分かりやすいです」 「さっきより先輩っぽいです」 「さっきよりって何」 後輩たちが笑う。 依央も、少しだけ素で笑った。 資料確認が終わる頃、千紘が部屋に顔を出した。 「お疲れさま。順調?」 後輩たちが一斉にうなずく。 「はい。花宮先輩、すごく分かりやすかったです」 「ちょっと面白かったです」 「話しやすかったです」 依央は慌てて言う。 「白石先輩、今のは後半だけ聞いてください」 千紘はやわらかく笑った。 「全部聞きたいな」 「聞かなくていいです」 「花宮くんが、ちゃんと頼られてるのは分かったよ」 その言葉に、依央は黙った。 頼られている。 完璧な笑顔だけではなく、少し雑な言葉も含めて。 後輩たちが笑ってくれる。 千紘が受け取ってくれる。 それが、嬉しくて、少し怖いくらいだった。 千紘は机の上の資料を見て、静かに頷いた。 「いい紹介文だね。雑部らしい」 「雑部、名前ほど立派じゃないらしいです」 後輩の一人が言って、依央は顔を覆いかけた。 「そこ共有しないで」 千紘は笑った。 「でも、伝わるよ」 「白石先輩まで」 「小さいことを整えるって、けっこう大事だから」 その言葉で、依央は少しだけ背筋を伸ばした。 雑部。 旧校舎。 掲示物。 落とし物。 電子レンジ。 三つのマグ。 くだらない会話。 燈真の隣。 全部が、依央の中で少しずつ大事な場所になっている。 **** 花の生徒会の作業が終わると、依央は旧校舎へ向かった。 後輩たちが作った校内案内の試し刷りを、旧校舎の掲示板にも貼ってみる必要があった。位置を確認し、文字が見やすいか、古い掲示と重ならないかを見る。 雑部の仕事として、燈真と晴臣が先に部室で準備しているはずだった。 旧校舎の廊下は、夕方の冷えが早い。 部室の扉を開けると、机の上には掲示用のクリップ、小さな水平器、備品台帳、三つのマグが並んでいた。 晴臣は紙を持っていた。 「依央、これが新しいやつ?」 「うん。試し刷り」 「花の生徒会、ちゃんとしてるな」 「雑部もちゃんとして」 「してるだろ。俺、クリップ数えた」 「えらい」 燈真は掲示板用のクリップを小箱に戻しながら、依央を見る。 「お疲れ」 その一言で、依央の胸が少しだけゆるむ。 「お疲れさまです」 晴臣がにやにやする。 「花の生徒会、どうだった?」 「普通」 「その普通、何かあった顔だな」 「晴臣、勘がいい時だけ面倒」 「面倒って言った」 燈真がこちらを見る。 「何かあった?」 依央は試し刷りを机に置いた。 「……ちょっと、姫営業を失敗しました」 晴臣が即座に食いつく。 「何それ聞きたい」 「聞かなくていい」 「久我、聞きたいよな」 燈真は短く言う。 「聞きたい」 依央は二人を見た。 「久我くんまで」 「うん」 「俺が校内生活改善同好会について、名前ほど立派じゃないって言いました」 晴臣が吹き出した。 「合ってる!」 「晴臣」 「いや、合ってるだろ。旧校舎の掲示貼って、落とし物箱見て、電子レンジ守ってる同好会だぞ」 「守ってる?」 「特におでんの権利」 「まだ権利になってない」 燈真が少しだけ笑った。 依央はその笑いを見て、少しだけ肩の力を抜いた。 「後輩たちは、笑ってくれました」 「いいじゃん」 晴臣はあっさり言う。 「依央、最近そっちの方が話しやすいんじゃね?」 依央は黙った。 晴臣の言い方は雑だ。 でも、たまに真ん中を突いてくる。 「そっちって何」 「完璧に姫してる時より、ちょっと素が出てる時」 依央は言葉に詰まった。 燈真が掲示紙を手に取りながら言う。 「俺も、そっち好き」 部室の空気が、一瞬で変わった。 晴臣が目を見開く。 依央は固まった。 「久我くん」 「何」 「今の言い方」 「何」 「雑すぎます」 「そう?」 「そうです」 (好きって言った? そっち好きって。いや、性格の話。素の顔の話。でも好きって言った。久我くんが。部室で。晴臣の前で。やばい。心臓が机から落ちる♡) 晴臣がゆっくり口を開いた。 「俺、今の聞いていいやつ?」 依央は即答した。 「聞かなかったことにして」 「無理」 「晴臣」 「久我が悪い」 燈真は特に悪びれた様子もなく、掲示紙の角をそろえている。 「貼りに行く?」 「行きます。今すぐ行きます」 依央は勢いよく立ち上がった。 **** 旧校舎一階の掲示板で、三人は試し刷りを貼った。 依央が紙の位置を見て、燈真がクリップで留め、晴臣が少し離れて文字の見え方を確認する。 「もう少し上」 晴臣が言う。 依央が紙を少し上げる。 燈真の指が近い。 「ここ?」 「うん」 依央は掲示紙を押さえながら、そっと燈真を見る。 「久我くん」 「何」 「今日、ひどかったですよね」 「何が」 「俺の先輩としての顔」 燈真は掲示紙の角を留めた。 「よかった」 「即答」 「うん」 「どこが」 「後輩、笑ってた」 「それは、まあ」 「花宮っぽかった」 依央は、掲示板を見たまま黙った。 前にも似た言葉をもらった。 でも、今日のそれは少し違う。 花の生徒会の先輩として、雑部の一員として、クラスの姫として。 全部をきれいに整えられない日があっても、燈真はそれを見て、花宮っぽいと言う。 「久我くん」 「うん」 「俺、きれいな顔だけじゃないですよ」 「知ってる」 「口も悪いです」 「知ってる」 「けっこう雑です」 「知ってる」 「たまに、何でそれを知ってる顔するんですか」 燈真は少しだけ笑った。 「見てるから」 依央は、掲示紙を押さえる指に力を入れた。 (見てるから。そうだよな。久我くん、ずっと見てる。俺が整えた顔も、崩れた顔も、雑部で机に沈むところも。全部見て、その上で花宮っぽいって言う。……やばい。信じそうになる) 晴臣が後ろで咳払いした。 「すみません、俺、旧校舎の空気になります?」 「晴臣」 「今の会話、甘さが掲示板に染みる」 「染みません」 「染みてる。文字が読めない」 燈真が淡々と言う。 「読める」 「久我、そういう問題じゃない」 依央は笑ってしまった。 その笑いは、作ったものではなかった。 でも、廊下の冷たい空気の中で、ちゃんと響いた。 掲示物を貼り終えて部室へ戻ると、晴臣が三つのマグを棚から出していた。 「仕事終わりのココア」 「晴臣、定着したね」 「マグがあると飲みたくなる」 「分かる」 依央は薄い青のマグを手に取った。 燈真は深いグレーのマグ。 晴臣はオレンジのマグ。 三つ並ぶと、やっぱり部室らしくなる。 電子レンジが低く鳴る間、晴臣はスマホを見ていた。 「千紘さん、今日の紹介文見たいって」 「白石先輩に送っていいよ」 「いいんだ」 「後輩たち、頑張ってたし」 「じゃ、送る」 晴臣が少し離れたところでスマホを操作する。 燈真は机の端で、掲示用のクリップを小箱へ戻していた。 依央はその横に座る。 「久我くん」 「何」 「今日の俺、ほんとに大丈夫でした?」 燈真は手を止めずに答える。 「うん」 「もう少し詳しく」 「後輩が話しやすそうだった」 「はい」 「晴臣も笑ってた」 「晴臣は大体笑います」 「俺も」 依央は顔を上げた。 燈真はクリップを戻し終え、小箱のふたを閉める。 「好き」 その言葉が、まっすぐ落ちた。 依央の中で、さっきよりずっと深く。 「……何を、ですか」 何とか聞いた。 燈真は依央を見る。 「花宮が、気を抜いて笑うところ」 依央は呼吸を忘れかけた。 晴臣が遠くでスマホを持ったまま固まっているのが、視界の端に見えた。 「久我くん」 「うん」 「今の、だいぶ強いです」 「そう?」 「そうです」 (好き。気を抜いて笑うところが好き。久我くんが。俺の。何それ。無理。泣くとかじゃない。叫ぶでもない。胸の中が全部あったかくなる。やばい。俺、今の言葉、たぶん一生覚えてる) 電子レンジが鳴った。 晴臣がものすごく不自然に動き出す。 「はい! ココア! 甘い空気に甘い飲み物!」 「晴臣」 「俺、今かなり頑張ってる」 「何を」 「場を通常運転に戻す努力」 依央は笑った。 燈真も少し笑った。 三つのマグから湯気が上がる。 依央は薄い青のマグを両手で包んだ。 今日、姫営業は少し崩れた。 後輩の前で、雑な言い方をした。 完璧な先輩には見えなかったかもしれない。 でも、後輩は笑った。 千紘は頼られていると言った。 晴臣はそっちの方が話しやすいと言った。 燈真は、好きだと言った。 気を抜いて笑うところが。 依央はマグの温度を指先で感じながら、胸の奥で小さく息をした。 全部をきれいに飾らなくても、ここに座っていられる。 それは、思っていたよりずっと、あたたかかった。 窓の外はもう暗い。 瑞城市の冬の夕方は早い。 けれど、旧校舎の部室には、三つのマグと、低く鳴る電子レンジと、晴臣の雑なツッコミと、燈真の静かな視線がある。 依央は少しだけ笑った。 作った顔ではなく、気を抜いた顔で。 燈真がそれを見て、ほんの少しだけ目元をゆるめた。 その反応だけで、依央はまた胸がいっぱいになった。

ともだちにシェアしよう!