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第51話 男子校のポンコツ姫、飾らず通ります♡

三月の終わりが近づくと、白鷺坂高校の廊下には、少しだけ春の匂いが混じり始めた。 まだ朝は冷える。瑞城市の山の方には薄い白さが残っていて、坂道を上がる時にはマフラーが欲しくなる日もある。 けれど、校門近くの花壇には小さな芽が出ていて、駅前商店街のポスターは冬市から春フェアへ変わっていた。 季節は、きちんと次へ行こうとしている。 依央は二年三組の教室で、花の生徒会から預かった新年度説明会の仮資料をそろえていた。 机の上には、資料の束。 ペン。 旧校舎掲示用のメモ。 そして、鞄のファスナーには薄い青の星形ストラップ。 依央はそれをちらっと見た。 同じ形の銀色が、後ろの席の鞄にもついている。 久我燈真の鞄。 その事実だけで、朝から心臓が少し余計に動く。 (恋人になった。恋人。久我くんが。俺の。いや、俺のって言い方強い。違う、違わない。違わなくない。待って、朝の教室で脳内がうるさい。落ち着け、花宮依央。学校では通常運転。姫。花の生徒会。雑部。恋人は部室で処理。処理って何。無理♡) 告白した。 好きと言った。 キスもした。 なのに、学校の日常は普通に続いている。 黒瀬陸斗は朝から購買の新作パンの話をしているし、篠宮怜央は春休みの課題予定をきっちり立てているし、鷹宮蓮は相変わらず、依央の資料を持つ手つきまで褒めてくる。 「花宮、その資料の持ち方、先輩っぽいね」 依央は顔を上げた。 「資料の持ち方まで見られてるの?」 「見えるから」 「鷹宮くん、見る場所が細かい」 黒瀬が横から乗る。 「いやでも分かる。最近の花宮、花の生徒会って感じする」 「前からやってるよ」 「前は姫。今は姫先輩」 「雑に進化させないで」 篠宮が静かに言う。 「後輩に説明している時は、前より自然だと思う」 依央は少しだけ言葉に詰まった。 「篠宮くんまで」 「事実」 黒瀬が笑う。 「篠宮の事実、今日は優しい!」 教室に笑いが起きる。 依央も笑った。 その笑いは、前より力が入っていない。 完璧に整える顔も、まだある。 けれど、少し雑に返しても、教室は普通に笑う。後輩は頼ってくれる。花の生徒会の資料も、雑部の掲示物も、ちゃんと手元にある。 それでいいのだと、少しずつ思えるようになった。 後ろから、短い声がした。 「花宮」 依央の心臓は、すぐ反応する。 「はい」 「旧校舎の掲示、放課後?」 「そうです。新年度説明会の仮案内と、春休みの自習室予定。あと雑部の予定表も更新します」 「手伝う」 その言い方は、いつも通りだ。 短くて、静かで、当然みたいにそこへ来る。 依央は資料を抱え直した。 「お願いします」 燈真が少しだけ頷く。 それだけ。 教室では、それだけ。 でも、その目元が、ほんの少しだけやわらかい。 依央だけが分かるくらいの小さな変化。 (ずるい。学校では通常運転なのに、目元だけ甘い。久我くん、それ、俺だけが気づくやつじゃん。やばい。朝から勝てない♡) 黒瀬が首をかしげた。 「花宮、顔赤くない?」 依央は即座に資料を持ち上げた。 「資料が重い」 「顔と資料、関係ある?」 「あります」 篠宮が資料を見る。 「その量なら重い」 「篠宮くん、ありがとう」 鷹宮が微笑む。 「花宮、春も忙しそうだね」 「忙しいけど、嫌じゃないよ」 言ってから、依央は少しだけ驚いた。 自然に出た。 忙しい。 花の生徒会。 雑部。 クラス。 燈真。 全部を抱えることが、少し怖かった時期もある。 でも今は、嫌ではない。 むしろ、どれも手放したくなかった。 **** 放課後、旧校舎の掲示板前には、依央、燈真、晴臣の三人が集まっていた。 晴臣は別クラスから来て、さっそく掲示紙の束を見て顔をしかめている。 「新年度って、紙が多いな」 依央はクリップの小箱を開けながら答えた。 「年度が替わるからね」 「学校、紙で春を呼ぼうとしてる?」 「晴臣の言い方、ちょっと分かる」 燈真は掲示板の金具を見た。 「ここ、今日は大丈夫」 「久我、金具担当としての貫禄が出てきた」 「担当じゃない」 晴臣は笑いながら、古い掲示を外した。 「でも、雑部も慣れたよな。最初の頃、こんなに掲示紙と向き合うと思わなかった」 依央は新しい紙を押さえた。 「最初の頃の晴臣、ほぼ茶化してただけだったし」 「今も茶化してるけど、クリップ数えられる」 「成長が小さい」 「大事だろ、小さい成長」 その言葉に、依央は少し笑った。 小さい成長。 確かに、そうだ。 旧校舎の掲示板を整えること。 落とし物箱を見ること。 電子レンジのルールを貼ること。 三つのマグを棚に並べること。 どれも小さい。 でも、その小さいものが積み重なって、今の雑部がある。 「依央、少し上」 晴臣が離れたところから言う。 「ここ?」 「もうちょい。久我、どう?」 「そこで」 燈真が短く言う。 依央は紙を押さえる。 燈真の指が近づき、クリップを留める。 指先が一瞬だけ触れた。 作業中。 いつものこと。 でも、恋人になってからは、ほんの少し違う。 (触れた。掲示紙。クリップ。旧校舎。通常業務。なのに、俺だけ内心が非常事態。付き合ってから余裕が出ると思ってた俺、甘かった。むしろ全部甘い。つらい。嬉しい。忙しい♡) 晴臣がこちらを見る。 「依央」 「何」 「仕事中に甘い顔するな」 依央は固まった。 「してない」 「した」 「してない」 燈真が短く言う。 「してた」 依央は燈真を見た。 「久我くんまで」 「うん」 晴臣は掲示紙の束を持ったまま、深くため息をついた。 「俺、雑部やめるか?」 依央は顔を赤くした。 「やめないで」 「だって、俺の前でじわじわ甘いんだもん。隠してるつもりなんだろうけど、全然隠れてない」 「隠れてます」 「隠れてない」 燈真が少しだけ笑った。 「榎本は、いた方がいい」 晴臣は一瞬止まった。 「久我、そういうこと急に言うな」 「何で」 「俺が照れる」 依央は笑った。 晴臣はわざとらしく肩をすくめる。 「まあ、俺がいないと、お前ら部室で砂糖になるしな」 「晴臣」 「で、俺がいるとココアくらいで済む」 「その理屈もどうかと思う」 **** 三人で掲示を終え、部室へ戻った。 部室の中には、冬を越した小さなものがそのまま残っている。 棚の上の三つのマグ。 薄い青。 深いグレー。 オレンジ。 電子レンジ。 千紘からもらったココアの缶。 備品台帳。 壁には電子レンジ使用ルール。 そこに、晴臣がこっそり残した「おでん要相談」の文字。 依央はそれを見て、思わず笑った。 「晴臣、まだ残してる」 「残すだろ。雑部の夢だぞ」 「おでんが?」 「おでんが」 燈真が深いグレーのマグを取りながら言う。 「匂い」 「久我、最終的にそこだよな」 「大事」 晴臣はオレンジのマグを机に置き、急に真顔になった。 「というわけで」 依央は嫌な予感がした。 「何」 「おでんパーティ、開催決定でいいよな」 「急すぎる」 「急じゃない。冬の間、ずっと言ってた。俺は一貫している」 「言葉だけは強い」 晴臣は依央と燈真を交互に見た。 「そもそもさ。俺、昨日からずっと、お前らの隠れ甘々を浴びてるわけ」 「浴びてない」 「浴びてる。掲示板でも部室でも、目線が甘い」 依央はマグを持ったまま固まる。 燈真は否定しない。 否定しないのがまた強い。 晴臣は机を指でとんとん叩いた。 「だから、迷惑料として、おでんパーティ確定」 「迷惑料」 「依央と久我の甘さを見せられた雑部への補償」 依央は額を押さえた。 「晴臣、言い方」 「間違ってる?」 燈真が少しだけ考えた。 「換気すればいい」 晴臣の目が輝いた。 「久我が折れた!」 「折れてない」 「折れた! 今、換気すればいいって言った! つまり、おでん可能!」 依央は燈真を見た。 「久我くん」 「大根は少なめ」 「現実的な譲歩が出た」 晴臣は両手を上げた。 「雑部おでん会、開催決定!」 「本当にやるんだ」 「やる。予定表に書く」 晴臣は黒板横の雑部予定表へ向かい、大きな字で書いた。 雑部・春前おでん会。 依央はその文字を見た。 冬の間ずっと、晴臣が言い続けていたおでん。 電子レンジが来て、紙コップでココアを飲んで、三つのマグが揃って、告白して、恋人になって。 ここでようやく、おでん会が予定表に書かれる。 くだらない。 でも、すごく雑部らしい。 (恋人になった代償が、おでん会。何それ。でも、晴臣があんなに嬉しそうなら、まあいいか。久我くんも換気で譲歩したし。俺たち、甘さの代わりにおでんを差し出した。これ雑部としては正しい気がする) 晴臣は予定表を見て、満足そうに頷いた。 「これで俺、雑部やめなくていい」 「やめる気あったの?」 「五秒くらい」 「短い」 燈真がココアの缶を開ける。 「飲む?」 晴臣はオレンジのマグを持ち上げた。 「飲む。おでん会決定記念」 「また記念」 「今日はいいだろ」 依央は薄い青のマグを出した。 「今日はいいね」 燈真が深いグレーのマグを並べる。 三つのマグにココアを入れる。 電子レンジが低く鳴る。 いつもの音。 けれど、今日は少しだけ春に近い音に聞こえた。 ココアが温まるのを待つ間、晴臣のスマホが鳴った。 画面を見た瞬間、晴臣はぱっと顔を上げた。 「千紘さんから。駅前の早咲き、咲き始めたって」 依央は顔を上げた。 「桜?」 「うん。駅前の小さいやつ。まだ少しだけだけど」 晴臣はスマホを見せる。 写真には、駅前商店街の端にある早咲きの桜が写っていた。 枝先に、淡い色が少しだけ開いている。 満開ではない。 でも、確かに咲き始めている。 依央は、その写真を見て胸がふっと明るくなるのを感じた。 卒業式が終わって。 冬を越えて。 燈真と恋人になって。 雑部のおでん会まで決まって。 桜が、咲き始めている。 「見に行く?」 晴臣が聞いた。 依央は燈真を見る。 燈真も、依央を見ていた。 「行く?」 燈真が短く聞く。 依央は少しだけ笑った。 「行きます」 「姫なので?」 晴臣がにやにやする。 依央はマグを置いて、胸を張った。 「姫なので、春の確認も仕事です」 晴臣が笑った。 「また仕事にした」 「雑部の活動範囲です」 「桜確認係?」 「そう」 燈真が小さく笑う。 「じゃあ、行こう」 依央は部室を見回した。 三つのマグ。 電子レンジ。 雑部予定表。 そこに大きく書かれた、春前おでん会。 備品台帳。 千紘からもらったココアの缶。 壁の使用ルール表。 全部が、ここに残っている。 この場所は、恋人になった依央と燈真だけの場所ではない。 晴臣もいて、千紘の気配も少し残っていて、これからも続いていく場所だ。 依央は薄い青のマグを棚へ戻した。 燈真も深いグレーのマグを戻す。 晴臣はオレンジのマグを置いてから、予定表をもう一度見た。 「おでん、絶対だからな」 「分かったって」 「久我、大根少なめな」 「うん」 「本当に言質取った」 「晴臣、早く行くよ」 三人は部室を出た。 扉が閉まる直前、依央はもう一度だけ中を見た。 三つのマグが、木目調のトレーに並んでいる。 電子レンジの白い箱。 雑部予定表の「春前おでん会」。 備品台帳の端に挟まったペン。 窓から入る夕方の光が、机の上を少しだけ明るくしていた。 それだけで、胸がいっぱいになった。 **** 旧校舎の廊下を歩く。 晴臣が前で騒ぐ。 「桜見たら、千紘さんに写真送る」 「晴臣、完全に彼氏」 「何を今さら」 依央は笑った。 隣には燈真がいる。 廊下の角で、燈真の手がほんの少し近づいた。 依央は周りを見た。 学校の廊下。 晴臣が前。 人が来るかもしれない。 だから、指先だけ。 ほんの一瞬、触れた。 それだけで十分だった。 燈真が小さく笑う。 依央も笑った。 (部室では、少し甘くていい。廊下では、これくらい。俺、ちゃんとできてる。花の生徒会も、クラスも、雑部も、久我くんも。全部、俺のままで持っていける) **** 昇降口を出ると、夕方の風が少し冷たかった。 でも、冬の痛い冷たさとは違う。 少しだけやわらかい。 駅前へ向かう坂道の先に、商店街の灯りが見える。 そのどこかに、早咲きの桜が少しだけ咲いている。 満開ではない。 それが、よかった。 全部が終わったわけではない。 ここから始まるものが、まだたくさんある。 晴臣が振り返る。 「依央、早く!」 「急がなくても桜は逃げないよ」 「逃げないけど、見たいだろ」 「うん。見たい」 燈真が隣で言う。 「俺も」 依央は燈真を見る。 その横顔は、夕方の光の中で少しだけやわらかかった。 医学部へ向かう人。 雑部でココアを温める人。 依央の恋人。 その全部が、久我燈真だ。 依央は、自分の胸に手を当てたくなるのを我慢して、前を向いた。 花宮依央は、男子校の姫だ。 後輩に頼られる花の生徒会の先輩で、クラスで茶化される姫で、雑部で机に沈むポンコツで、久我燈真の恋人だ。 どれか一つにしなくていい。 全部持って、春へ行く。 「久我くん」 「何」 「俺、来年も忙しそうです」 「うん」 「でも、嫌じゃないです」 燈真は少しだけ笑った。 「知ってる」 「何でも知ってる顔しないでください」 「見てるから」 その言葉に、依央は少しだけ照れた。 でも、もう隠さなかった。 「じゃあ、ちゃんと見ててください」 「うん」 「俺も見ます」 「うん」 晴臣が前から叫ぶ。 「二人でいい感じにしてないで、桜!」 依央は笑った。 「はいはい」 燈真も少し笑う。 三人の声が、坂道に混ざる。 早咲きの桜は、まだ少しだけ。 けれど、次の春はもう始まっていた。 ** 男子校のポンコツ姫が通ります♡ (完)

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