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第1話:徒し世の忍
「お主が金作だな?——お命頂戴つかまつる!」
「また?!」
「『また』とは何だ?」
「つい昨日も命を狙われたばかりなんだもの!
今度はどこの誰が殺しに来たの?」
「名乗る阿呆がいるか!
……とにかく、お主が里長の息子だということは調べがついてある。
では気を取り直して——お命頂戴つかまつる!」
「うわあぁ!助けて……っ、助けて曽良——」
——金作。
彼は、かつて戦国の世で暗躍した忍一族の末裔だった。
時が江戸に移り変わり、大きな戦が起こることも無くなると
各地に点在していた忍の多くは仕事を失い、
農家や商人に転職する者が全国各地で続出した。
そんな中、江戸の世でも尚その名を
畏れられる影の集団が伊賀の忍である。
伊賀出身の彼らは現役で忍を続ける者が多く、
大奥や大名屋敷の警備をする者や鉄砲隊に所属する者もいれば、
役人が仕事をサボっていないか監視したり
浮気調査や人探しのような探偵業を営む者まで
それぞれの特技を活かした働き方をしていた。
そして特に優秀な者、とりわけ身体能力に秀でた若い男は
徳川幕府に仕える忍集団に所属し、将軍——御上お抱えの忍として、影の界隈で一目置かれる存在だった。
そんなエリート忍者を輩出する伊賀の里で
代々長を務める家柄に産まれてきたのが
この金作という少年——のちに『松尾芭蕉』を称する男である。
未来の里長として期待を受けて産まれた金作だったが
その身分ゆえ、彼は幼い頃から命を狙われ続けてきた。
襲ってきた者の多くは、伊賀とは異なる里から派遣された忍の者だったが
時には伊賀の次期里長の座を狙う同郷の者から
寝首をかかれそうになることもあった。
金作が存在するだけで不都合だと思う者は多く、
それゆえに何度も殺されかけてきた彼が
今日まで生き延びて来れたのは、
彼が忍者としての才に恵まれていたから——ではない。
金作には、いつも助けてくれるヒーローが居たからである。
金作が10歳の頃——
「助けて——!」
いつものように命を狙われた金作が泣き叫ぶと、
どこからか人影が姿を現し、その影が金作の前に立ちはだかったかと思うと
金作を狙った相手は次の瞬間、息絶えていた。
「怪我はないか?」
「っ、曽良……!!」
自分を助けてくれたのが同郷の幼馴染である曽良だと分かると、
金作は曽良の背中に縋り付いて泣き出した。
「うわあああん!怖かったよ……!」
「間に合って良かった。
怪我もしていないようだし」
「曽良っ、助けてくれてありが——ひっく」
「泣くなよ。金作が命を狙われるのは今に始まったことじゃないんだから」
「でも……っ、曽良が来てくれなかったら
今日こそ死んでたかも……」
「ああ、もう。
金作はいつまで経っても泣き虫だな——ほら」
曽良は懐に忍ばせていた手拭いを取り出すと、
号泣する金作の涙を拭ってやった。
「金作は里長の血を引く男子なんだから、
もう少し気を強く持たなきゃ駄目だ」
涙を拭き終えた曽良が呆れたように見下ろすと、
芭蕉はもじもじと俯きながら答えた。
「でも……僕は根っからの気弱だから
誰かと戦うなんてもってのほかだし……。
父上から忍としての指導をつけてもらってはいるけど、僕は忍には向かないと思う。
それに——」
金作は、曽良にとどめを刺されて動かなくなった敵の死体をちらりと見た。
「曽良だって思うよね?
いつも命を狙われている僕なんかが
この先長生きできるはずないって……。
きっと僕は、里長を継げるような歳になるまでは生きられないよ」
すると曽良は唇の端を上げ、そっと金作の頭に手を置いた。
「そんなことないさ。
金作には俺が付いてるんだから」
「へ……?」
金作がぽかんと口を開けて見上げると、曽良はニッと笑みを浮かべて言った。
「金作に襲い掛かる脅威は俺が排除する。
だから金作が早死にすることなんて有り得ない。
な?心配しないで泣き止めよ」
金作は手拭いで涙と鼻水を拭いながら、
もじもじと尋ねた。
「……どうして曽良は、いつも僕を助けてくれるの?
父上から僕の守護を命じられている訳ではないんでしょ?」
金作は幼少の頃より気が弱く、父も祖父も忍として優秀であったのに比べ
彼は体力が無く、いつも家の中で静かに書物を読んで過ごす子どもだった。
武器の使い方の代わりに読み書きを覚え、
里の会合にも恥ずかしがって姿を見せないため
里の者達は、長の一人息子である金作が
将来伊賀忍者を束ねる頭になれるのだろうかと不安しか感じなかった。
それでも父や里の者達は、金作を優秀な忍に育てようと指導を付けていたが、
自力で忍者としての修行を重ねていた同年代の子ども達からそれをやっかまれるようになった。
大人達は将来の長である金作のことを恭しく扱ったが、
子ども達にとっては実力のない金作が特別扱いを受けていることが面白く無く
仲間外れにされたり、嫌がらせを受けることも時々あった。
しかし曽良だけは、いくら周りの子ども達が離れていっても、罵る言葉を吐いても
その輪には加わらず、いつも金作を庇い、面倒を見てくれていたのである。
「——仲間の命が狙われていたら助けるのが当たり前だろ?」
曽良は「とにかく帰ろう」と言って歩き出すと、
金作を家まで送り届けてくれた。
金作は、そんな頼もしい幼馴染の背中に
親しみと憧れの眼差しを向けながら
彼の一歩後ろをついて行った。
それから数年後——
曽良が幕府の将軍——御上から
お抱えの忍としてのスカウトを受け、
伊賀を離れて江戸に行くことが決まったという噂を耳にした金作は、慌てて曽良の元を訪れた。
「曽良!曽良が里を出て行くって父上から聞いたよ!
江戸に行くって本当なの?!」
すると曽良は、少し困ったような笑みを浮かべて言った。
「御上から直々に指名を頂いたものだから、
断るという選択肢はなかったんだ」
「そんな……!
僕のこと、護るって言ってくれたじゃないか!!」
芭蕉が悲しみと怒りとが入り混じった声で叫ぶと、曽良は黙り込んでしまった。
ああ……。
僕はなんて馬鹿なんだ!
曽良には今まで沢山お世話になってきたのに。
里では最高の誉れでもある御上お抱えの忍者に選ばれたことを
本当は笑顔で喜んで、応援して、見送ってあげるのが筋だろうに。
僕を護ってくれる存在が居なくなることを嘆くなんて、
どこまでも僕は自分勝手な男だ。
けれど、護ってくれる存在を失うことより……
曽良という存在が居なくなることが寂しい。
本当はそう伝えたいはずなのに、動揺と悲しみのせいで、上手く言葉を選べない。
心の中で、そう自分に嫌悪しつつも
尚も言葉を失くす曽良に金作は続けて言った。
「僕だって、本当は曽良の助け無しで生きたいと思ってたよ!
生き方を選べるものなら、曽良に護られなくてもいいような
平穏な人生を歩みたかったよ!」
違う。
本当は、いつもそばに居てくれた曽良に離れていって欲しくないだけだ。
護って欲しいから引き留めたいんじゃない。
曽良に、この里を出て行って欲しくない——
それが一番伝えたい本心なのに。
自尊心や照れ隠しが邪魔をして、肝心な言葉を紡げない。
「……こんな狭い里の中で、
毎日怯えて暮らさなきゃならない人生なんて
僕は望んでなかった……」
金作が勢いに任せて言い終えると、
暫く黙って聞いていた曽良がようやく口を開いて言った。
「——なら、自分で新しい人生を切り拓けよ」
「えっ?」
金作がぽかんと口を開けると、曽良は金作と向き合って言った。
「金作が伊賀の忍としてではなく、
里を出て平穏に生きていくことを望むと言うのなら……
金作自身の力でその人生を掴み取れ」
曽良はそう言うと、
「荷造りを済ませなければならないから、今日はもう帰ってくれないか?」
と金作に告げた。
「じ……っ、じゃあ——曽良。
曽良が里を出る日が決まったら教えて。
せめて見送りをしたいから……」
「——分かった」
金作は後ろ髪を引かれる思いで曽良の元を後にした。
だが、それから丸一日曽良からの知らせは無く、
その翌日に曽良の元へ会いに行った芭蕉は、
彼がもう江戸へ旅立った後であることを知った。
きちんとした別れもできず、
自分の我儘を曽良にぶつけたあの日が
最後の別れとなってしまった金作は、
自身の幼い言動を悔いた。
それと同時に、曽良が最後にかけてくれた言葉は
まだ自力で何かを成し遂げたことのなかった金作の背中を強く押してくれた。
——そこからの金作は、忍者以外の人生を見つけようと心を決め、
独学で読み書き以外の学問を幅広く身につけたり
伊賀の外の世界について情報を積極的に仕入れたりするようになった。
そして金作が15歳になり、いよいよ次期里長としての任を
父から与えられることが決まった晩——
金作は身の回りの僅かな物だけを持って
密かに里を抜け、江戸へと発った。
忍者としての生き方を捨てる覚悟で飛び出した金作にとって、
江戸でのツテは皆無に等しかった。
江戸には幕府に召し抱えられる伊賀出身の忍者が何人もいたが、
里長の一人息子でありながら抜け忍となった自分が彼らを頼れるはずもない。
曽良ならば自分を助けてくれるのではないか——とも考えたが、
別れ際に曽良が告げた『自分で人生を掴み取れ』という言葉を思い返し
彼に頼るという選択肢は自分の中から捨て去ることを決めた。
江戸で暮らしていれば、いつか曽良とまた会えることもあるかもしれない。
その時に、自分の力で立派に生き抜いている僕の姿を見せたいんだ。
そして曽良に頼るばかりで何一つ恩返しのできなかったことを、
曽良の進む道を応援してあげられなかったことを謝りたい——
金作が江戸に出て来てから数年の月日が流れ——
江戸の深川の地に小さな自宅を建てた金作は、
『松尾芭蕉』と自らを名乗り暮らしていた。
里にいた頃に必死で勉強した知識を活かし
寺子屋へ通う金銭的余裕のない子ども達に向けて
自宅で学問を教えることを生業としている。
子ども達から学費は取っていなかったが、彼らの親から謝礼代わりにと
自宅で収穫した米や野菜をお裾分けしてもらったり、
中古の家具を譲ってもらう、家の補修を手伝ってもらうといった
身の回りの世話を焼いて貰えたために
贅沢はできないが人並みに質素な暮らしを送れるようになっていた。
子ども達に学問を教えていると、
自分自身の教養も磨かれ、また子ども達の純朴な感性に触れることができた芭蕉は
日々の気づきや感じたことを備忘録として書き残すことが習慣となっていった。
その一方、自分の書く文章はどこか味気なく煩雑としており、
たまに見返してもその当時思ったこと、見た景色、心に湧き上がった感情が反芻されるようなことは無かった。
もともと、僕は人と話すことが不得意な臆病者だ。
自分よりずっと歳下の子どもに学問を教えるくらいならばできるけれど、
里で同年代の子から陰口を叩かれ、大人達から過度な期待を掛けられていた過去が尾を引いているのか
子ども以外とはまともに目を見て話せない。
心の中ではこんなにも饒舌になれるのに。
曽良にだって、感謝や応援の言葉をかけたかったのに
自分の我儘ばかりが口をついて出て来て、うまく言葉にならなかった。
文章ならば冷静に、頭を整理して吐き出すことができるんじゃないかと思ったけれど
ただ事実を述べただけの面白みのないことしか書けない。
僕がつまらない人間だからだろうか?
……いや、そうじゃない。
僕だって、生を受けてからの間に沢山のことを経験して来た。
嬉しいことも、悲しいことも、何度も感じてきたはずだ。
僕が無感情なのではない。
僕の感じたことを、上手く声や文字に表現できないだけだ。
——虚しい。
故郷との繋がりを絶ち、素性を偽りながら生きる日々には慣れたけれど、
このまま僕が死んでも、偽りの僕しかこの世に残らない。
いや、何かが残ることすらないだろう。
ああ。それでも……この徒し世に
僕が生きた痕跡を、何か証を残したい。
僕が死んだ後、僕たらしめる何かを残すにはどうしたらいい?
肉体が滅び、僕という存在を知る人が皆死んだ後も、ずっと残るもの……
子ども達に学問を教える傍ら、
自分の生の意義について何度も考えるようになっていた芭蕉。
そんな日々を送るある時、古書店の知り合いから
お勧めの書物として一冊の歌集を譲ってもらった。
そこには自分が生まれてくる何百年も前の人達が書き残した歌がいくつも載っており、
その多くは恋について歌ったものだった。
だが、生計を立てるので手一杯な日々を送ってきた芭蕉は、
他人が他人へ思いを募らせしたためた文字に心が揺り動かされることはなかった。
昔の人も今の人も、恋の話が好きなんだなあ。
誰が誰を好いているなんてこと、僕には何の関係もないし、
五・七・五・七・七の中に込められた思いを汲み取ることなんてできない。
教養として歌を学ぶのは悪くないかもしれないけど、
『こんなもの』では僕が生きた証を残すことなんて——
そう思いながら紙をめくっていた芭蕉だったが、
ふとあるページでめくる手を止めた。
『願はくは花の下にて春死なむ。
その如月の望月のころ』
ああ……。
桜の舞う木の下で眠るように生涯を終えられたら、
どれだけ気持ちの良い最期だろうなあ。
伊賀の里では人の死体や血を毎日のように見て来た。
そんなものばかり見て来たせいで、
僕の眼はすっかり曇ってしまった気がする。
この歌を詠んだ人は、さぞ美しいものを沢山目にして、
人生の最期にも美しいものを見ながら逝きたいと考えたんだろうな……
芭蕉は詠み手にそんな想像を巡らせるうち、ハッと我に返った。
何百年も前に生きていた人が書いた歌なのに、
現世を生きる僕がこの文字を見て
この人の考えていたことを推察し、思いを馳せている。
……これが、生きた証を残すってことなんじゃないか?
芭蕉はパタンと書物を閉じると、
机の上に紙を広げ、筆を取った。
「五、七、五……七、七」
歌の基礎は最低限だけれど知っている。
僕も、あの歌を詠んだ人——西行法師のような歌を作ってみよう。
そう意気込み、墨を筆に浸した芭蕉だったが
そこから先、彼は石のように固まってしまった。
——書けない。
美しい景色も、心揺さぶられる感動も思い出にない僕には、
西行法師のような情緒のある歌は作れない。
僕じゃ、あんな美しい歌は詠めない——
暫く白紙の紙と向き合っていた芭蕉だったが、
やがて大きく息を吐き出し、ごろりと横になった。
やめやめ。
僕には歌なんて無理だ。
一人前の忍になる前に里を逃げ出して来たような臆病者の僕に
大層なものを詠めるはずがない。
それこそ曽良のように強くて、人望があって、
里の誇りのような存在だったなら
崇高な心の内を書き留めることもできたろうに——
すっかり不貞腐れた芭蕉は、文字で生きた証を残そうという思いつきを
思いつきのままで終わりにしたのだった。
そして今まで通り、子ども達に学問を教える生活を送っていたある日。
芭蕉の自宅に通っている少年・彦郎が、
手習を終えた後で芭蕉に何かを握らせてきた。
「先生、はい!」
「彦郎。これは……?」
「俺、暫くお休みしてたでしょう?
実は家族でお伊勢参りに行って来たんです!
これはその土産です」
芭蕉が手の中のものをよく見ると、
それはお守り袋だということが分かった。
「ありがとう!
そうか、お伊勢参りに行って来たのか。
伊勢はどうだった?」
世間話のつもりで何気なく尋ねると、
少年は目をキラキラと輝かせながら語り始めた。
「ええと、伊勢のお社はとっても大きくて、立派で、こういうのをええと……荘厳って言うのかなあ?
とにかく凄かったです!!
でも、道中で泊まった旅籠も楽しかったし、
行く先々で食べた銘菓も美味しかったし、
家族とのお喋りも、途中で道連れした人達との出会いも……
それはもう語りきれないくらい、最高の旅でした!」
旅、か……。
思えば僕が旅らしい旅をしたのは、
伊賀の里から江戸へ出て来た時の一度限りだな。
それも自分の痕跡を極力残さないよう気を配っていたから
夜は野宿でしのぎ、食べる物も最低限で
まして道行く人と関わるようなことは避け
ひたすら東へ歩き続けた——
命懸けの逃避行だったから、道中楽しいと感じたことはなかったけれど、
対してこの子はなんと目を輝かせて話すことだろう。
きっとお伊勢だけでなく、旅そのものが思い出深いものになったのだろうな。
「彦郎の話を聞いていたら、僕もお伊勢参りをしてみたくなってきたよ」
芭蕉が思わずそう口にすると、少年はコクコクと頷いてみせた。
「うん!先生も絶対楽しいと思うよ!
父ちゃんも母ちゃんも、兄ちゃんや妹も
みんな楽しい旅だったって大満足してたから!」
「……まあでも、旅をするにはお金も日数もかかるからねえ。
僕が旅に出るのは難しいだろうなあ」
「……」
少年がぽかんとした表情を浮かべるのを見た芭蕉は、慌てて謝った。
「ご、ごめんよ!
後ろ向きなことを言ってしまって!
——君があまりに楽しそうに話すから
叶わぬことを夢見て勝手に落ち込んだだけだよ」
「ははっ、先生っていつも後ろ向きだよねえ」
「ごめんね……」
「まあ、後ろ向きだけど優しい先生のこと、俺は好きだけどさ!
——ねえ、先生」
「うん?」
彦郎は俯いて少し考えた後、芭蕉に尋ねた。
「ほんとに、旅したい?」
「……それを許す環境であれば、ね」
「——分かった!」
「?分かったって、何を——あっ」
彦郎は、芭蕉が聞き返す前にパタパタと走り去ってしまった。
訳が分からず混乱する芭蕉だったが
数日後、沢山の金銭が入った袋を
大勢の子どもたちから差し出される光景に
彼は更に混乱を極めた。
「こ……、このお金は……?」
「私達みんなで集めた資金です!」
「これで先生も旅をしてください!」
戸惑う芭蕉に、子ども達が次々と言葉をかけて来た。
彦郎は、芭蕉がお金と時間さえ許せば自分も旅に出てみたいと口にしたことを聞いて
芭蕉の元に通う仲間達にそれを伝えていた。
そして日ごろ無償で学問を教えてくれている芭蕉のために
それぞれが家の手伝いや親に頼み込むなどして金銭を集め、芭蕉の旅費を作ったのだった。
「僕の為に、こんな大切なお金を使うことはないよ」
芭蕉は戸惑いを浮かべながら言ったが、子ども達はお金を無理やり芭蕉の懐の中へ突っ込んだ。
「先生!これは日頃のお礼の気持ちです!」
「私達、先生のお陰で学問を身に付け、家の跡を継ぐ以外の将来の選択肢を見つけることが出来ました」
「先生もずっと忙しく働いていたでしょう?
暫く江戸を離れて、ゆっくりしてきて下さい!」
「みんな……」
芭蕉は、自分を慕う子ども達に囲まれて思わず感極まり、涙をこぼした。
「あっ!先生、泣いちゃったー!」
子ども達は慌てて芭蕉の涙を拭こうとしたが、
芭蕉は尚もぼろぼろと涙を落とし続けた。
「大丈夫……これは嬉し涙だから……」
「うれしなみだ?」
「……僕、嬉しくて泣くのは初めてだよ。
こんな風に、心が揺さぶられるような思いをしたことは無かったから——」
「先生……!」
「……ありがとう、みんな……」
こうして子ども達の温情を受け、旅をするための時間とお金を得た芭蕉は、次にどこへ行くかを考えた。
だが、地理に詳しい訳でもなく、特に見たいものがあった訳でも無かった芭蕉は
とりあえず自分もお伊勢参りをしてみるか、と思い立ち
江戸から西へと旅立ったのであった——
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