21 / 21

第21話:閑かさや岩にしみ入る蝉の声

翌朝早く清風邸を後にした二人が立石寺に到着したのは夕暮れの近付く頃だった。 「はぁ……、やっと着いた……」 「結構な距離だったな」 「うん。疲れたけど、日のあるうちに着いて良かったよ」 「ああ。この山を登った先の奥之院で直矩は僧達と茶会を開いている頃だ」 「——えっ、この山の上……?」 芭蕉は目を丸めながら眼前に広がる景色を見つめた。 荒々しく山肌が削れ、ぐっと顎を上げなければ頂上を見据えることもできない小高い山の先に、確かにいくつかの建造物があるのが見える。 「あの頂上まで登っていくの……?」 「下で待ち構えていることもできるけど、山頂の方が逃げ場も無いし援軍を呼びにくい。 ——芭蕉はここから先は着いてこなくてもいいよ。 近くに宿坊もあるようだし、そこで宿を取って休んでいるといい」 「!っ……ううん、僕も着いていくよ」 芭蕉は汗を一拭きすると、荷物を背負い直した。 「無理しなくていいんだぞ。 直矩を殺すのは俺の役目なんだし」 「そうかもしれないけど……ここまで一緒に旅をして来たのに、部外者ではいたくないんだ。 僕もせめて、曽良の仕事を見届けたい」 「——分かった」 曽良は頷くと、共に石段に足をかけ 頂上を目指して登って行った。 途中、頂上での参拝を終えて下山する老人とすれ違った。 「今から参拝に行くんだね。 お主ら、山寺は初めてかい?」 そう呼び止められ、芭蕉が「初めてです」と答えると、老人は話を続けた。 「ならば奥之院よりも、五大堂を是非観てから帰ると良い!」 「五大堂?それも山のてっぺんにあるんですか?」 「ああ。——あの、反り立つ崖の先にあるお堂がそれだよ」 老人は、山の頂上で一箇所だけ飛び出している崖のような場所を指差した。 芭蕉がその方向を見上げると、確かに崖の上には小さなお堂のようなものが建っているのが見えた。 「あそこから眺める景色は実に見事なものだ。 あれこそが、山寺——この立石寺で最も見所だと言っても良いだろう」 「そうなんですね! 頂上に着いたら、あのお堂にも寄ってみます」 「うむ。——ああ、あとはそれから、 この山にはある言い伝えがあってな」 芭蕉が礼を言って過ぎ去ろうとした時、老人はもう一度呼び止めて言った。 「この山は、至る所の山肌が削れて ごつごつとした岩の壁面があるだろう? ——その岩肌のどこかに、密かに仏像が彫られているという噂があってな」 「えっ、岩肌にですか?!」 「なんでも、それを見つけることが出来た者には幸運が訪れるのだとか」 「……へえー!それはぜひ見つけ出したいです!」 芭蕉は今度こそ礼を言うと、老人と別れを告げた。 「——曽良、聞いた? 頂上の五大堂と、山のどこかにある仏像を見つけ出さないとね!」 老人が下の方へ降りて行った後、芭蕉が言うと 曽良は少し呆れながらも返した。 「芭蕉、これから何をしに行くかすっかり忘れてないか?」 「……あ。ごめん……」 「まあ、芭蕉は俺の仕事が終わるまで好きにしていてもいいけどさ」 曽良が言うと、芭蕉はしょんぼりと肩を落とした。 「本当にごめんよ。曽良は今とても緊張しているだろうに、 僕は呑気に名所を楽しもうとしていた……」 「いいよ。芭蕉は少しずれている所もあるけど、芭蕉まで緊張して固くなられるよりは俺も気が楽だし」 「……やっぱり僕、ずれてるのかなぁ……。 これから曽良が戦おうとしているのに、 綺麗な景色や興味深い話を聞くと、すぐにそっちに気が向いてしまって——」 「正直……芭蕉は変わっているなとは思うけど…… 俺がそういう芭蕉に癒されていることも事実だよ」 曽良は後ろを登ってくる芭蕉の方へ振り向くと、にこっと微笑みかけた。 「噂の仏像、見つかるといいな」 「うん!もし見つけたら僕、曽良が無事に任務をこなせるようにってお願いするから」 「昨日、神や仏の存在は信じていないって言ってなかったか?」 「う……。信じているわけではないけれど……願うのは自由でしょう?」 芭蕉はそれから、仏像を探す為に辺りをきょろきょろと見渡しながら山を登って行った。 探索に気が向いていたためか、そこからはあまり足に溜まっていた疲労を感じなくなり 段々と頂上に向かって開けてくる景色にも心を躍らせた。 ——いけない。 曽良はこれから仕事をしようとしているのに。 どうして僕はこう、緊張感が無いんだ。 芭蕉は、はやる心で石段を登っていく自分を戒めた。 それに……きっと曽良は、必要となればこのお寺の僧だって殺すことを厭わないんだろうな。 元々躊躇なく人を殺して来た曽良だけど、信仰心を持たない彼は僧すらも敵であれば斬ることができるんだろう。 でも——どうして曽良がそんなふうに 迷うことなく人を殺せるようになったのか、 その原因が僕だってことは分かってる。 僕が幼い頃に何度も命を狙われて、 その度に曽良は命懸けで大人の刺客と戦い、倒して来たから…… 僕を守る為に、幼少期から人を殺すことに覚悟を決めてきたのが曽良だから。 僕は曽良の考え方や行動に意見できるような立場じゃない。 曽良を否定することは、僕が今生きていられることを否定するのと同義だ。 曽良のことは否定しない。 ……僕は、僕達が人を殺すことを肯定せざるを得ない人生を創った 里のことが憎くてたまらない—— それから頂上まで辿り着いた二人は、そこから別行動を取ることになった。 芭蕉には辺りを好きに見て回っているよう曽良は言い、 自身は奥之院のどこに直矩が居るかを探ってくると告げた。 道中で噂の仏像を見つけられなかった芭蕉は、 老人に勧められた五大堂を見に行くことにした。 五大堂がある場所までは狭い道を通らなければならず、 おまけに道の片面は崖になっているため 芭蕉は冷や汗を流しながら、崖のほうを見ないようにして進んで行った。 ——そうして狭い道を抜けた先に辿り着くと、芭蕉は思わず息を呑んだ。 五大堂は中が視界良く開けており、四方の景色が一望できる造りになっていた。 そこから見える景色は、今自分が登って来た石段の道、 少し先に川や田園、民家、そしてその向こうに隆々とした山が並び 美しい自然の景色を一度に全て視界に収めることができた。 「……!」 景色を見下ろした瞬間、芭蕉の周辺だけ時が止まったような感覚に陥った。 先程まで夏の声、蝉の鳴き声や鳥の囀り、麓から響く川の音がずっと耳に張り付いていたが 五大堂から見える景色を目にした瞬間から それらの音は全て掻き消され、そこに存在するのは芭蕉一人であるかのような感覚を得た。 こんなに高い場所から、これほどまでに美しい景色を見たことがあっただろうか? 僕が今見ている景色が夢現にすら思えるほど、 眼前に映るすべてが輝いて見える。 極楽浄土があるとしたら空の上だと思っていたけれど、 地上に広がるこの景色だって極楽と表現しても過言ではないくらい美しい。 ああ、美しいものを見ているだけでこんなにも心が穏やかに澄み切っていくのか。 僕の心は今、とても凪いでいる。 こんなに素敵なものを見れるなんて—— 曽良とも、この景色を分かち合いたい…… 芭蕉はしばし景色を眺めた後、やがて思い出したように紙と筆を取り出した。 『閑さや岩にしみ入る蝉の声』 ——この景色を見た瞬間、周囲の音がすべて岩の中に染み込んで消えてしまったかのように静まり返り、 僕の心の中が凪いだことを文字に残しておきたい。 そして、こんな感覚があるのだということと、 この絶景そのものを曽良に教えてあげたい。 ……曽良の仕事が日のあるうちに終えたなら、 ここに連れて来てあげよう—— 芭蕉が、感動を覚えながらぼうっと景色を眺めて居た時。 「た——助けてくれっ!!」 叫び声を聞いた芭蕉がハッとして振り返ると、 五大堂の方へ血相を変えて走ってくる男の姿があった。 芭蕉は、男の身なりから高貴な身分であると感じ取り、もしかして——と悟った。 「刺客が現れた!助けてくれ……!!」 「あ——あの、あなたはもしかして松平……」 「そうだよ、松平直矩だ! ここに身を隠すから、人が来ても黙っていてくれ!」 「っ……」 「刺客の隙を見てやっと逃げ出して来たところなんだが、 下へ降りている間にも追いつかれるのではと思い、やり過ごそうと思って居る。 誰が来ても、ここに居るのはお主一人だと言い張ってくれないか?」 「あ——」 そんなこと、できないよ……! だってその刺客は曽良なんだもの。 芭蕉が返答に困っていると、直矩は芭蕉の着物にしがみつき、すがるような目で見上げて来た。 「頼む……! そもそも私は、山形藩に来て日が浅いんだ。 ここの藩の城主が頻繁に代替わりしていることはお主も知っていると思うが、 私もまだ出羽国のことをよく知らないうちに 刺客に襲われて何が何だか——」 「……そうなんですか?」 じゃあ、伊達綱村と懇意にしていて 倒幕の計画を立てていた疑いがあるのって、 この人の前の城主ということ……? 「とにかく、どうして私が命を狙われなければならないのか見当もつかないうちから殺されるなんて嫌だ。 今、私の家臣達が必死で刺客と戦ってくれている。 私が殺されたら、家臣達の命も無駄になってしまう——」 直矩が泣きそうな顔で言うと、芭蕉は決心したように言った。 「じゃあ僕……あなたを殺さないよう相談してみます」 「——え?」 直矩がきょとんとすると、芭蕉は視線を上げ、 直矩の背後まで密かに距離を詰めていた曽良と目を合わせた。 「曽良、聞いて。 この人は山形藩に来たばかりで、この辺りの情勢を何も知らないと言っているよ」 直矩が、芭蕉の発言を不審に思い後ろを振り返ると、 そこに立っている刺客の姿に思わず腰を抜かしてしまった。 「ひぃっ……!さっきの刺客——」 直矩は腰を抜かしながらも後退り、芭蕉の影に隠れた。 「だからこの人を殺すことは目的にそぐわないと思う」 芭蕉が言うと、曽良は小さく息を吐いた。 「いずれ他のみちのくの藩と結託することは時間の問題だ。 今は何も知らない藩主かもしれないが、 今日の茶会のように各地の者と交流を深め、各藩とも関わり合うようになれば 将来的には御上の敵となるだろう」 曽良が言うと、芭蕉は 「それっておかしいよ!」 と反論した。 「だってこの人を殺したら、また新しい藩主が迎えられるでしょう? ——そうしたら、その人も殺すの? みちのくの藩をすべて根絶させることが御上の目的ではないでしょう? 倒幕の思想を持たない人間まで殺すのは任務として筋が通らないよ」 「……」 曽良は眉根を寄せ、じっと芭蕉を見た。 芭蕉もまた退こうとはせず、曽良を見つめ返した。 二人が沈黙のまま見つめ合っていると、 直矩が恐る恐る口を開いた。 「……断片的だが、話は分かった。 この刺客は江戸の御上が差し向けた者なんだな……?」 直矩は声を震わせながらこう続けた。 「……私は、徳川家康様の血筋を持つ松平家の人間だ。 私は幕府のために身命を賭して働くつもりでこの地に赴任したんだ。 前の藩主に倒幕の計画を立てていた疑いがあるなど聞いたこともないが、 少なくとも私は御上の敵ではない……!」 「あなたの話が出鱈目だという可能性もある」 曽良がそう言って刀を構えると、直矩は「ひっ」と震え上がった。 「この場で、私の話す言葉以外に 私の潔白を証明できる手立てがあると言うのなら教えてほしいくらいだ……!」 直矩はそう懇願したが、曽良は刀を下ろすことをしなかった。 「——芭蕉。そこを退いてくれ」 「い……嫌だよ!」 「……俺が仕事を終えるのを見届けてくれるんじゃなかったか?」 「ここですることはもう無いよ! 次の目的地へ進もうよ」 「そうやって、俺は綱村も仕留めることができなかった。 その男も、今を逃せば討ち取ることが叶わなくなる」 「それでも僕はここを退かないから!」 芭蕉が直矩を庇うように立つと、曽良は諦めたように刀をしまった。 「……芭蕉は頑固だから……。 こうなると、いくら押し問答をしても埒が開かない」 曽良は深く息を吐き出すと、 「——行けばいい」 と言って直矩に去るよう促した。 直矩はびくびくと肩を縮めながらも、 「ありがとう……」 と芭蕉に告げ、五大堂を出て行った。 ——後に芭蕉と曽良だけが残された時、既に日は沈み切っていた。 「……曽良、ごめん……」 芭蕉は、日が落ちて表情が見えなくなった曽良に対して謝った。 「僕、また曽良の邪魔をした。 曽良が城下で情報収集して、確実に狙えるこの場所を選んでここまで登ってきたのに、僕は……」 「でも、悪いとは思ってないんだろ」 曽良が言うと、芭蕉は 「間違ったことはしていないと思う……」 と遠慮がちに返した。 「相手の言い分を全て無視して、 『任務』の一辺倒で殺してしまうのは横暴だなと思ったから」 「あの男の言い分を信じるに足る証拠もない」 「そうだとしても! 倒幕派だとも、今後倒幕派の思想に染まっていくとも決まっていないあの人の命を 曽良の決めつけで奪うのは違うと思う」 「それでも、主君の命を脅かすかもしれない人間を放っておくことはできないだろ」 「——それ、おかしいよ! あの人は曽良の命を狙ったりしたことないけど 曽良の主君は、一度は曽良を始末しようとした人なんだよ? どうして何の罪もない人より、曽良を殺そうとした人の言いなりになるの?!」 芭蕉が叫ぶと、曽良は瞼を落とした。 「……それは俺が忍だからだ」 「だったら僕は曽良に、今すぐにでも忍を辞めて欲しい!」 「忍として生まれ育った俺が、忍じゃなくなることなんて有り得ない」 「有り得なくない!僕だって新しい人生を生き直しているんだから!!」 芭蕉は曽良に近づくと、彼の手を取った。 「ねえ曽良、僕のことを好きだと言ってくれたろう? 僕と一緒に新しい人生を歩んでおくれよ」 「……今更、新しい人生なんて……」 「かさね殿とは新しい人生を歩もうとしたじゃないか!」 芭蕉は訴えるように言った。 「忍であることを辞めて、普通の家庭を築こうとしたって、曽良は言っていたじゃないか! ——僕とでは、それは叶わないの?」 すると曽良はこう返した。 「そのせいでかさねは死んだ! 俺が忍であることを辞めようとした見せしめに、かさねは殺されてしまった! ——いや、とどめを刺したのは…… 俺のこの両手だった……!」 曽良は声を震わせながら言うと、芭蕉に握られた手に力を込めた。 「俺に、芭蕉を殺させないでくれ……」 「……曽良……」 「俺が忍を辞めることで芭蕉の身に何かあるとしたら、 俺は今以上に自分のことを許せなくなる——」 曽良はその場に膝をつくと、深く項垂れた。 「俺のしていることが正しいだなんて思ってない……! 御上の為に大勢を殺すことが大儀だとは思わない……! けれども俺は生きている限り、忍であり続けなければならない。 だからそのためには——」 「曽良は——僕の命を守るために、 昔から戦って来てくれたよね」 芭蕉は座り込んでいる曽良に覆いかぶさるように彼を抱き締めた。 「僕の命を狙う人達を、僕のために殺してきてくれた。 ——今だって、僕の安全を保証するために 曽良が大勢の人を殺さなきゃならないと言うのなら…… 僕は曽良にそんな負担を敷いてまで生きていたくないよ」 「駄目だ。芭蕉は死んじゃ駄目なんだ……」 芭蕉の腕の中で曽良が呟くように言った。 「芭蕉が死んでしまったら…… 俺は自分のして来たことを肯定できなくなる。 俺より長く生きていてくれなきゃ困る……」 「じゃあ、僕と一緒に逃げて」 芭蕉は跪くと、曽良の耳元で告げた。 「曽良が忍ではない生き方ができるところ…… 御上や組頭の目が届かない安住の地を見つけられるまで、僕と逃げてよ」 「芭蕉……」 曽良が顔を上げると、芭蕉はすっと立ち上がった。 「——願はくは花の下にて春死なむ。 その如月の望月のころ……」 「え?」 「僕が好きな歌なんだ。 西行という人が詠んだ、美しいものを見ながら人生の最後を迎えたいって歌だよ。 ——僕ね、さっき人生で一番とも言える絶景を見たんだ」 曽良も立ち上がると、芭蕉は真っ暗な闇の方へ目を向けた。 「日が落ちるまで、ここからは美しい景色を見下ろせていたんだよ。 ……それを見た瞬間、世界からあらゆる音が消え去って、 心の中に深い静寂が訪れたんだ。 時が止まる——って、こういう瞬間を言うんじゃ無いかって思った。 そして僕は、こんな感動を曽良と分かち合えたらいいなとも思った」 芭蕉は曽良に向き直ると、 「僕は曽良に、綺麗なものを沢山見て欲しい」 と告げた。 「曽良は今まで沢山辛い思いをして、見たくないものも沢山見てきたと思う。 だからこれからは、僕と一緒に美しいものを見て欲しい。 僕は曽良と同じものを見て、同じことを感じて生きていきたいよ」 芭蕉は曽良の肩に自分の頭を乗せると、 「曽良——勇気を出して」 と囁いた。 「僕、曽良に守ってもらわなくても大丈夫なくらい、これから強くなるからさ。 お願いだよ、曽良」 芭蕉が懇願すると、曽良はお堂の手摺りに手をつき、暫く俯いていた。 ——今、目の前に広がっているのは途方もない闇だ。 俺の行く先には希望なんて無い。 俺自身は恨んでもいない人間を殺し、 殺した相手やその友人家族から沢山の恨みを買ってきた。 自分の行為が正しいと思えなくても、それ以外に生きる道がなかった。 けれどそこで道を外れる勇気がなかったせいで、 初めて愛した妻と、産まれてくるはずだった子どもを失った。 これまで俺がしてきたことのしっぺ返しだろうか。 ——いや、純粋に俺が弱かったからだ。 俺はもう、自分の弱さのせいで大切なものを失うことに耐えられない。 御上や組頭の言いなりになっているうちは、芭蕉の命が脅かされることはない。 これからも旅を続ければ、倒幕派志士と対峙することになり 芭蕉に危険が及ぶこともあるかもしれない。 けれど、国を——そして伊賀の里を敵に回した時の方が遥かに恐ろしい。 俺が逃げたら、この日本のどこへ逃げたとしても 地の果てまで追いかけられ続けることだろう—— 「——芭蕉、ごめん」 曽良は、すがるような目で見つめている芭蕉と再び向かい合って言った。 「芭蕉が俺を思ってくれている気持ちは痛いほど伝わっている。 だけど、芭蕉は分かっていない。 俺が忍を辞めて逃げるということは、芭蕉にとっても地獄の道を行くことなんだ」 「曽良……! 僕は地獄でも構わないと思ってるよ。 だから僕と——」 芭蕉が声を震わせると、曽良は芭蕉の身体をきつく抱き締めた。 「俺は芭蕉が大切なんだ……! 芭蕉を失うくらいなら、自分の心を殺す方がましだ。 俺にとって芭蕉を守るための手段は 俺が忍であり続けるということなんだ。 どうか、分かってくれ——」 曽良が声を絞り出して言うと、芭蕉は暫く沈黙した後、曽良の背中に手を回した。 「……僕は……忍という存在が憎い。 曽良と僕から、普通の幸せを享受する権利を奪った伊賀の里が、江戸の組頭が、御上が憎い」 「芭蕉の気持ちはわかる。 分かるけれど——」 「僕はもう、日の当たらない場所で素性を偽って生きていたくない。 明るい場所で、曽良と一緒に生きる為に戦いたいよ」 「っ、そんなことは考えるな!」 曽良は芭蕉の両肩を掴み、揺さぶるように言った。 「芭蕉はこのまま素性を隠し通せ! 芭蕉が生きていることは絶対里に知られないようにしろ! ましてや里と戦おうなんて——」 「僕は曽良と幸せになりたいんだよ……っ!」 芭蕉は涙を流しながら曽良に掴まれている手を離した。 「この旅が終わったら、僕らはどうなるの?」 「!……それは」 「——無事に江戸へ戻れたとして、曽良はまた御上の近くで働くことになるだろう? けれど御上や組頭は、曽良が大切にした人を死なせて過酷な旅に追いやったような人達だ。 僕達がこのまま江戸に帰っても、二人で幸せに生きることなんてできないよ……!」 芭蕉はその場に泣き崩れたが、 曽良は芭蕉の問いかけに何も答えることが出来ず、触れることもできなかった。 この旅が終わったら—— 生きて江戸に戻れたら—— そんなこと、想像もしていなかった。 そもそも芭蕉と一緒に旅に出たことも、 芭蕉とこんな関係になることも想定外だった。 俺はこの旅をどう終わらせて、その後どう生きていけばいいのだろう。 芭蕉と共に生きる道は、あるのだろうか—— 「……曽良と一緒に居たいんだよ……」 芭蕉は泣きじゃくりながら言うと、 袴の裾を持ち上げ、足元に隠し持っていたクナイを手にした。 「僕だって戦える……。 人を殺したことはないけれど、曽良とずっと一緒にいる為ならば 忍組頭も、伊賀の里長——父上のことを殺す覚悟だって——」 「だから!芭蕉はそんなことをしなくていいんだ!」 「あっ——」 曽良は芭蕉の手からクナイをもぎ取ると、 堂の端から宙に向けてそれを投げ捨ててしまった。 クナイは崖から遥か下にある地上の方へと闇に溶けていった。 「っ……何するの?!」 「芭蕉に人殺しはさせない」 「——僕が戦っても、どうせ勝てないと思っているから……?」 「そうだよ! あんな錆びて刃先が折れてるクナイで 組頭や里長と互角に戦えると思っているなら大間違いだからな!」 「そんなのやってみなきゃ分からない!」 「無理だ!少なくとも俺を倒せない程度じゃ、彼らには太刀打ちできない」 曽良はそう言うと、自分の持っている忍刀を抜いて芭蕉に差し出した。 「な……何のつもり……?」 「この刀で俺に少しでも傷を負わせることができるか試してみたらいい」 「っ……」 芭蕉は、里と戦うことを宣言した手前 曽良の言葉に対する収拾がつかなくなり、彼の刀を手にした。 しかし、曽良の前に刀を構えると、腕がガクガクと震えはじめた。 「——俺を敵だと思って、斬りかかってみなよ」 「……う……!」 できない……! 目の前にいるのは敵じゃなくて曽良だもの! 「そんなこと、できる訳ないじゃないか……!」 芭蕉が声を震わせると、曽良は懐を弄りクナイを取り出した。 「——ならば俺から行く」 「へっ!?ま、待って、何を——」 芭蕉は、暗闇で曽良が何をしているのか理解できないまま告げると、 次の瞬間には首元に冷たく固いものが当たっている感触を覚えた。 「っ……!?」 「——これが俺じゃなかったら、芭蕉は今、首を切り裂かれていた」 「……うぅ……っ」 芭蕉は忍刀を床に落とすと、力無く蹲った。 「僕……、僕じゃ戦えないんだ……」 里を抜け、忍であることを忘れようとしながら生きてきた数年間。 そのブランクを抜きにしても、里にいた頃から 忍としての素養が何一つ備わっていなかった芭蕉にとって、 里一番に優秀だった曽良の攻撃を交わすことは到底不可能だった。 ——こんな一瞬で間合いを詰めて、急所を狙えるような曽良でも 仙台では黒脛巾組に圧倒され、仲間を失っていた。 里や組頭を敵に回せば、手練れの忍が一度に何十人、何百人と襲ってきたとしても何らおかしくない。 「……僕が口にしたのは唯の理想論だってこと、よく分かったよ……」 芭蕉が力無く言うと、曽良はその隣に座り込んで言った。 「強引な真似をしてすまなかった」 「ううん。僕が頑固だってこと、曽良はよく知ってるから……。 言い出したら聞かない僕を説得するために、体で教えてくれたんだよね」 芭蕉は力無く息を吐き出した。 「……江戸に帰っても自分達の運命から逃れられないなら、 いっそこの時が永遠になればいいのに。 いつまでも終わらない旅を続けていたいよ」 そう言うと、芭蕉は床の上でごろりと横になった。 四方に開けている五大堂からは、空を見上げると星が瞬いているのがよく見通せた。 「……綺麗だなあ……」 芭蕉が空を見て呟くと、曽良は唐突に芭蕉の上に馬乗りになった。 「っ、曽良……?」 「——芭蕉は、俺とずっと一緒に居ることを望んでくれているんだよな」 「う、うん……」 「俺もできることならそうしたい。 けれど、そんな約束をすることができない」 「……分かってるよ。 それが無理な話だってこと、今曽良が教えてくれたじゃないか……」 「俺は……芭蕉と過ごしているこの瞬間が愛おしいと思う。 この先一緒に居られなくても、長く生きられない定めだったとしても、 今この瞬間は無かったことにはならない」 曽良はそう言って、跨ったまま覆い被さるようにして芭蕉に唇を重ねた。 「ん……ッ」 芭蕉ははじめ驚いたものの、曽良の唇の温度を確かめると、再び涙がこぼれ落ちた。 「嫌だよ……。 旅が終わったら、曽良の温かさを感じられなくなるのは嫌だ……」 「——今は、互いの熱を感じていられるだろ」 「今が、今じゃ無くなってしまうのが怖いんだ」 「でも、今だけは先の未来を忘れて欲しい」 曽良は再び芭蕉に口付けると、芭蕉も涙を浮かべながら曽良の舌先を受け入れた。 暫くの間、そうして互いの熱を確かめ合う二人だったが、 やがて曽良は顔を上げると、空の果てを見つめて言った。 「——夜が明ける前に、山を降りよう」 「……でも、まだこんなに暗いのに危ないんじゃ……」 「日が昇ったら、直矩や家臣達が下山して藩の者達に俺たちの存在を知らせることだろう」 「えっ、家臣達って……。 あの人、自分を逃すために家臣達が犠牲になったって話していたけど、皆生きてるの?」 芭蕉が尋ねると、曽良は頭を掻きながらこう返した。 「気絶させたけど殺してない。 寺にいた僧たちにも触れてすらいないよ。 ——芭蕉が、寺で人を殺すのはバチ当たりだなんて言うから……」 「僕の気持ちを汲んでくれたんだね。 ありがとう……」 「直矩のことは殺すつもりでいたんだけどな。 ——とにかく、援軍を呼ばれる前にここを去ろう」 「でも、あの人は倒幕派じゃないって言ってたよ? 同じ御上に忠誠を誓った立場の人間だって」 「だとしても、直矩からすれば俺は命を狙ってきた刺客に変わりない。 いいから、早いところこの町を出よう」 「あっ。待ってよ!」 芭蕉が慌てて曽良の後をついて行った後—— 闇に潜んでいた影がゆらりと動いた。 「あの知らせは本当だったか。 金作——百地の息子は生きている」

ともだちにシェアしよう!