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第1話 背中ごし

 外の静けさを、分厚い布一枚で切り取った天幕の中。  後ろから引き寄せられた体勢のまま、ノアはじっと固まっていた。  もう何度目かになる「お守り」の仕草。  最近では、耳の後ろに唇を這わせられることも、もうすっかり慣れたと思っていたのに。  ――――どうして今日はこんな。  いつもならほんの数秒、強く吸い付かれて、放される。  それで、ノアの耳の下が赤く色づくのを見て、離れていく。  それだけだったのに。 「――――っ」  耳の後ろで唇が動いて、やわく離れた。  その刺激が、ノアの背骨を溶かしていく。  こんなの、まるで愛撫だ。  耐えきれなくなったノアが崩れ落ちそうになるのを、後ろから回された腕にとどめられ、引き寄せられた。  もたれた背中が、男の胸にぴったりとくっついて、ノアの息が上がっているのがもうばればれだった。  こんなの、まるで離したくないとでも言われているみたいだ。  お前はここに来る人間じゃないと、言い切ったその口で。 ◇  ことの始まりは、補給資材の余り具合への違和感だった。   「部隊長。本隊の人数が聞いていたよりかなり……、一分隊ほど少ないです。資材の余り方がおかしいです」  顔を上げた兵站部隊長は、報告を聞いて顔を曇らせた。 「確認しよう。……念のため余りの分はすぐ出せるようにしておいてくれ」 「わかりました」  もし分隊への補給が漏れているならば、まずい事態だった。  資材を人数分より少し多めに確保し直しておく。  この後同じことが起きても、しばらく大丈夫。そう感じられる余裕が前線には必要なことを、ノアは知っていた。 「――ノア、当たりだ。警戒部隊へ補給漏れだ。漏れたのは今回だけだが、ギリギリだろう」  戻ってきた部隊長の言葉に、背中がざわりとした。 「何名ですか。一分隊程度と見て準備してあります。」 「八名。余剰もあるだろうが、そのまま行こう。  ただ……、人手がねえから騎士をつけられない。一人で行けるか」  ノアは、部隊長の顔を見て頷き、荷を詰めた鞄に触れた。  魔獣の森を奥へ進み、川を渡ったところが拠点だという。  そのすぐ先に棲みつく魔獣の群れの、いわば防波堤。  ノアは騎乗で向かい、川べりに桶や、衣類の干されているのを見つけた。  目印代わりもかねて馬を繋ぎ、大きな鞄を下ろしてかつぐ。  一見ほとんど中身のないこの鞄は、ノアの役目そのものだった。 「ちょっと待っておいでよ。拠点見つけたら迎えに来るからね。」  馬の頬に触れて声をかけると、馬が少しだけ鼻先をひくつかせた。 「水はさっき飲んだろ?もう少し飲むか?」 「馬から離れるなら、もう少し縄にゆとり持って繋いどいてやれ」 「……!!」  急に声をかけられ、驚いて振り返ると、森の中から大柄な騎士がこちらへ向かってくるところだった。 「補給で参りました。ノアと申します」  姿を現した騎士は、伸びた髪を無造作に束ね、着崩した騎士服に鎧を当てた、凄みのある顔つきの男だった。 「……そりゃ助かるな。そろそろ食事を減らすか、あいつらを食わせることにするか迷ってた頃だ」 「あいつら……」 「魔獣(ダイアウルフ)だよ」  ——それは、確かに食べたくないかも……。  ノアの顔を見て少し口元を歪めた騎士は、そのまま川べりの岩に腰掛けて裾を捲り上げた。 「どうかされたんですか?」  靴を脱ぎ始めた騎士に尋ねると、小さな金属の瓶を手渡された。 「首とか足首にそれ塗っとけ。ダニが湧いた」 「……ダニ」  瓶には、スッと鼻を抜ける、青い草の香りのバームが入れられていた。  騎士は靴を脱いだ足を川につっこんで膝の下までをすすぎはじめた。 「さっきまで総出であちこち燻してたから、拠点は煙たいぞ。ここで受け渡しして帰るといい」  虫除けの薬が切れて、森ダニが湧いたということだろう。  食糧だけでなく、衛生を保つ備品も大切だ。 「こう見えてそれなりの荷を運んできました。  それに、虫が完全にいなくなるまでは荷を出さない方がいいでしょう。  今日は拠点に入らせてください。」  鞄を示しながらいうと、騎士は足をすすぎながら言った。 「警戒エリアだ。気を抜くなよ」 「はい」  手拭いを差し出すと、騎士は小さく応えてから受け取り、水気をぬぐった。  その様子に、ノアも岩に腰掛けて裾をまくる。  瓶の中に指を入れて――――。 「硬いですねこれ」 「硬いか?かしてみろ」  促されて手渡すと、騎士は爪の背でバームをこそげとり、ノアの足を持ち上げた。  びっくりして固まっていると、足首にバームをなすりつけ、それから手のひらで蓋をするように覆われた。 「お前……体温低いな。全然溶けねえ」 「…………は、い」  掴まれた足首、手のひらで覆われたところから、びりびりしたくすぐったさが広がって、ノアのつま先が丸まった。  思わず目線を落とすと、騎士の手の力がふっとゆるくなった。 「……悪ぃ」  解放された足をそっと引き寄せる。  変に反応してしまったことが無性に恥ずかしかった。 「いえ、すみません」  引き寄せた足に手を沿わせて、伸ばしかけのバームを広げる。  ノアの冷えた手のひらの中で、バームはあっという間に伸びが悪くなった。 「おい、手ぇだせ」  顔を上げると、騎士が爪に乗せたバームをノアに向けて差し出していた。 「手……」  持ち上げた手を取られて、手のひらにバームを乗せられる。 「冷てえ手ぇしてんな」    騎士は呆れたようにため息をつくと、そのまま手のひらを重ねて、ノアの手ごと温めはじめた。 「……さっきのはちゃんと塗れたか」  騎士がぽつりと言葉をこぼす。  重ねた手のひらの間で、バームがぬるりと溶けた。 「……塗れました。」  なんとかそう言葉にすると、騎士の手のひらに押し付けるようにバームをぬぐい取り、もう片方の足首に伸ばす。  手のひらに残った分は、そのまま首の後ろにもなすりつけた。 「そんなんじゃ足りねえよ。背中食われたら寝れなくなるぞ」  ため息と共に伸びてきた手のひらが、首の後ろをぐいっとなで上げて、  ノアは思わず首をすくめた。

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