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牙を剥いた狂犬
マティアスは自力で食事もせず、薬さえ飲まない。ずいぶんなワガママではあるが、思い通りにならない意趣返しなのだろう。
「にいさま、行きたい場所があるって言いました」
「駄目だと言った」
報告書から目を離さず、淡々と告げる。
経理の不手際とは考えにくい数字のズレ。少額から手を出し、バレないと踏んで大金を引き出すやり方。
顔色を窺う動きにより、義母の名に横線を入れる。内部犯の線が濃厚だが、帳尻を合わせようとした形跡まであった。少なくとも単独ではない。
過去と異なり、今のレヴィーレット社は大規模な会社である。収支金は大きく、銀行を介した取引が必須だ。下手に素人は手が出せない。
(考えたくはないが、やはり伯爵家か……)
椅子に凭れて、脚を組みなおす。目許を押さえたところで、身体がふわりと浮いた。
重力に逆らう浮遊感のせいで、肺が持ち上げられる。無惨にも書類は床へ散った。太く逞しい両腕が、腰に絡みつく。
「マティアス、危ないだろう……」
「そんなに会社が大事?」
熱をぶり返して1週間。続く微熱のせいか、マティアスの精神は不安定だ。
部屋を抜ければ、数分と経たずに裸足で邸を彷徨き、探しにきては連れ去ろうとする。
リオンに触れて、その場にいると確認するかのような手つき。憂いを帯びた碧眼。なにかを怖れ、なにかに囚われている。
『他人に触れられると、精神的な負荷がかかるらしい』
突然レヴィーレット社に現れ、リオンに面会を求めてきたのは、公爵家の三男であるクライヴ・ローレガン。
ローレガン家は皇族に連なる分家であり、貴族なら知らない者はいない。言葉を交わすのははじめてだが、こちら側の事情を把握しているとすぐにわかった。
『君が兄貴のリオンだろう?』
『どういう意図があっての忠告でしょうか?』
『いやいや、切羽詰まってるようだったからね。仕事もいいが、たまには傍にいてやれよ?』
底知れぬ腹黒さ。友人というには、達観しすぎている。
蜜を求めて群がる蜂のような男だ。探るほどに、ちりちりと胸のうちが焦がれていく。
もう、マティアスは子どもじゃない。手の届かぬ場所まで羽ばたいて、これから先も生きていくだろう。
(私ひとりが、赦されているわけでは──)
甘く薫るシトラス。
傍にいる分だけ、頭の芯まで溶かされる。心地よさを、覚えさせられていく。
「また余計なことを考えてるよね、にいさま」
「ぁ、いや……っ、ま、なにを」
不意に後頭部を掴まれたあげく、喉元に硬い感触が刻まれた。
もがくほどに、マティアスの指に力が入る。なにかがおかしい。触れられていないはずの背筋が、噛まれるたびに疼いた。
「何故、そんなところを、噛むんだ……っ」
鼻から吐息が抜ける。肌が粟立つ。悪戯に噛み痕をつけられ、首筋が赤い花で満たされていく。
ちらりと覗き見れば、獰猛な海の色と目が合った。あまりにも真摯で、気圧されそうな熱を宿す。
「約束の実力行使をします」
「ぁ、は……行きたい、場所があるんじゃないのか」
口にすれば、ベッドに放り投げられた。軋む音とともに、マティアスが乗り上げてくる。
リオンを見下ろす碧眼は冷ややかだ。香りが視界を覆う。
「……いつまでも大人しい弟だと思うなよ」
「私はお前をひとりの男として認めている。会社もそのために」
「会社や家督をいつ求めた? 俺は、にいさましか要らないと言っただろ」
唸るような声音に心臓が跳ねる。マティアスを追い詰めたのは己自身か、あるいは過去の出来事か。
罪の重圧に襲われ、リオンは口を噤む。しかし、マティアスは赦さないとばかりにこじ開けようとした。
「ねぇ、にいさま……声、聴かせて」
「いくらでも聴かせてやる。だからもう、泣くな」
吐息が唇に降り注ぐ。柔らかく撫でて、弾力のあるぬくもりが掠める。
透き通る結晶。雨のごとく、マティアスの涙がリオンの頬を濡らす。高い鼻梁が重なり合う。金糸が爛々と揺らめいた。
「マティア……っ、ん」
深く深く入り込む舌先。息苦しさでこぼれる嬌声も、マティアスの唇によって呑まれていく。
熱くて堪らない。灼かれているようで、荒々しい波に溺れそうだ。
「は、ッ……ぁ……」
揺蕩うままに、マティアスを受け入れる。じんと脳に痺れが滲んだ。
果たしてこれが正解であるか、答えは出ないだろう。ただ、8年前とは違うと言える。
同情でも憐れみでもない。碧い光に誘われた、愚かな蝶はリオンのほう。はじめて、マティアスの胸のうちに触れた気がした。
心の拠り所を欲していたのは、リオンだけではない。マティアスはすべてを手にしているようで、実のところひとりきりだったのだろう。
「……ん、ぅ……はっ、ぁ、ま……マティ、っ」
「ん……もっと見て……にいさま、ぼくだけを見てよ」
顔を固定され、マティアスの瞳にリオンが反射する。
少し紅潮した目許と、潤んだ紫水晶 。ひどい有り様だ。耐えられず、顔を隠す。
「満足しただろう……」
「なに言ってるの」
凝視されていると感じた。鋭い視線が顔中に突き刺さる。
「せめて、少し、まってくれ……」
肺も脈動も、うるさくてかなわない。体内を侵食する甘ったるい匂いに、酔ってしまう。
大きく胸を喘がせたとき、骨ばった指に頭部を掴まれる。厳つい手のひらに覆われ、ぴくりと肩を震わせた。
目前に迫る碧い輝き。目許が薔薇色に染まったマティアスは、濃い色気を漂わせつつ、口角を上げる。
「ずっとその顔が見たかった」
「っ、う……ま、待て……マティアス、ん、ッぅ!」
激しくも、感触を味わうような重なり。幾度となく啄まれて、じくじくと唇が熱を持った。
吐息が交わり、劣情を宿す。酸素を取り入れようとした隙を縫って、肉厚な舌が奥へと触れる。
ぞくりと鳥肌が立つ。口内を撫でられている。舌に刺激が襲う。
耳をふさがれているせいで、唾液の音がひたいの裏まで響いた。酩酊するまま、全身が弛緩していく。
「ん、ぅッ……」
「は……ぁ、にいさま……もっと、欲しいよね?」
「……要らな……ぅ、んっ」
髪を梳く指の滑らかさ。硬い指の腹が頭皮をなぞり、脳内に入り込んでいるかのよう。
上顎から歯列へと伸びる熱。口の中がシトラスで蹂躙されていく。息は続かず、もはや絶え絶え。
マティアスの腕を引っ掻いてみせるも、ささやかな抵抗にもならなかった。
「……ふ……ぅ、っ……」
目は開いているのか、閉じているのか。白っぽくも薄暗い世界。砂塵で阻まれているように、マティアスの表情が歪んで見える。
全身の神経に亀裂が入れられていく。口内をまさぐる舌の苛烈さとぬくもり。植えつけられて、浸透して、おかしくさせる。
「ぁ……マティ……ん、ふぅ……ッ!」
腰が波打つ。瞬時にシャツを握り締めた。唾液ごと舌を吸われた感覚が、背中まで響く。
熱を孕む唇は麻痺していた。力の抜けたリオンの腕が、シーツへ滑り堕ちる。
「ん……にいさま、かわいいね……」
「は、ぁ……頼む、から……もう」
「なら、傍にいてくれるよね? ぼくから離れないって言って?」
おぼろげな視線の先に、眉根を下げた相貌があった。無抵抗なリオンの手にすり寄り、涙を滲ませ懇願している。
息を吸うたびに胸の奥が痛んだ。鈍くずっしりと、波紋のように広がりをみせる。
リオンは、マティアスの色づいた目許を指先で拭う。マティアスが他人を赦さないのは、リオンの存在があるからだ。
絶ち切らねばならない。マティアスは幸せになるべき”弟”だから。
「それは、約束できない……すまない」
声は掠れていた。血の繋がりがどうであれ、己が足枷になることは目に見えている。
兄として慕ってくれたマティアスを、傷つけるのは本意ではない。だが恨まれても、道を曲げるつもりはなかった。
「ああ、そう……」
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