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本当の合理主義者

『すまない、マティアス。とうぶん帰れそうにない』  兄リオンからの伝言は、概ね予想通りであった。  カーテンをめくり、バルコニーまで足を運ぶ。金糸を艷やかに照らす月明かりは、リオンを象徴しているようで、うちなる飢餓感を刺激した。  渇きを削ぎ落とすため、難なく柵を飛び越える。目指すは馬小屋。黒馬に跨り、屋敷から半刻ほどの場所にある別荘へと走らせた。  父アラスターにもらった、マティアス専用の別荘である。 「マティアス待ってたよ、調子はどうだ?」 「何故いるの、クライヴ」 「そろそろ知りたい頃合いだろうと思ってね」  私立校の入学時からの知り合いだが、相変わらず面の皮が厚い男だ。公爵家の三男坊であれば、家督への期待値が低い分、自由な振る舞いが赦されているのだろう。  とはいえ、手放すには惜しい男だった。公爵家の情報網は侮れない。  マティアスは眉間に皺を寄せて見下ろすも、ぐっと耐えてソファーにコートを投げ捨てた。  テーブルをはさんで対面する。腰を下ろそうとしたところ、葉巻きを取り出すクライヴに、とうとう舌打ちを漏らす。 「匂いが移るからやめてくれない?」 「あー、悪いな……君が嫌いだって忘れてたよ」  別に葉巻きが嫌いなわけじゃない。マティアスは気にならないが、リオンが香りに敏感なのである。  なにより、葉巻きごときに穢されるのは御免だった。  葉を燃やしたあとに漂う、焦げつきながらも爽やかさを放つ煙香。しみる甘さが”他の男の存在”をまとわせるようで、喉元が絞めつけられる。 「だいぶ焦っているようだぞ、君の婚約者の親父殿は」 「投資が失敗したからだろ。資金調達でもしてるのか?」 「バレたら終わりだからね。レヴィーレット社は傾く前に切るだろうさ」  リオンの状況を鑑みるに、不正の出資を洗っているところだろう。もしくは、その犯人が母でないことまで掴んでいるか。  おかけで伯爵家は板挟み。共同事業といえど、レヴィーレット社の不利益となるならば、リオンは簡単に切り捨てるはずだ。  立て直しは楽じゃない。転がり続けた先は海の底。這い上がるのは至難の業である。倒産まで目前といったところだろう。 「あの女はどうしてる?」 「穴埋めのために走り回っているらしい。よほど、破棄をされたくないんだろうね」  口角を上げて語るクライヴに向かい、陰の射す碧眼を眇めた。  共同事業社の娘で、名ばかりの婚約者。甲高い声音が脳裏をよぎり、ひたいの裏に痛みが走る。 「……さすが、中身のない女だな」 「自分がなにをしているのか、理解できないとは恐ろしいよ」  頭が痛いのか、傷口が疼くのか。神経をかき乱す脈打ちを無視して、そっと瞼をおろす。  静寂の中に流れるのは、秒針の音だけだ。苛立ちも隠さぬまま、腕を組み、指先で肌を叩く。 (さて、どう動くか……)  クライヴの助力の甲斐もあって、遂行まで目前と迫っている。だからこそ、不足を補われては元も子もない。  ひとつ息を吐きつつ、天を仰いだ。レヴィーレットに寄生する害虫ども(伯爵家)が、地を這う姿を想像して、マティアスの口許が緩む。 「ところで、飼い猫は元気かい?」 「……ああ、殺した」 「ふ……ははっ、本当か? 別荘1軒分くらいの大金はたいたんだろう?」 「にいさまに噛みついたから仕方ない」  クライヴは噛み殺しているようだが、まったく耐えきれていない。  漏れた笑いが耳に届き、眉根を寄せた。数年付き合っても趣向がわからず、時間が経つにつれて疲弊していく。 「なぁ、その『にいさま』に会わせてくれないか?」  一瞬にして、威圧的な息苦しさが部屋中を満たす。碧い双眸が、冷徹な燈火によって揺らめいた。 「それ、本気で言ってるの?」 「君が躍起になるほどの男なんて、気になるじゃないか。会わせてくれるなら最後の一手を用意しよう」  気怠げな態度であるが、マティアスに隙はない。拳銃を手にしていたなら、いつ撃ってもおかしくないほど不安定だった。  この感覚をよく知っている。出口を求めて全身を駆け回る悍ましい吐き気も、頭の中が空となって欲望に支配されていくのも。  クライヴの条件は破格のものだ。呑まない道理はない。しかし絶対に、死んでもこの男にだけは晒したくなかった。 「今いる遊び相手で十分だろ。まだ足りないのか」 「隠されると余計に見たくなる、というのが男の性だ」 「……どうだか」  視界を闇夜が覆い尽くす。ふつふつと忘れていた思慕をこじ開け、マティアスを追い詰める。  ソファーの背もたれに身を預けると、背を這う傷痕が熱を持った。  この疼きは、「触れたい、壊してやりたい」想いをくすぐるもの。兄リオンへの楔として、差し出した証しでもある。  最初から兄などいない。8年前に手を差し伸べてきたのは、純粋で愚かな太陽だけだ。  くらりと眩暈を覚えて、マティアスは目許を押さえる。コートを掴んだところで、記憶が飛んだ。 「──マティアスっ」  クライヴの声が遠い。慣れた手つきで、身体を支えられている。  リオン以外に触れられたと思うと、震えが止まらない。つま先から血の気が引いていく。 「は……っ、触、るな」 「わかった、触らない。だから深呼吸して落ち着くんだ、な?」  目の前が真っ黒な霧に染められる。過去の残像とともに、押し上げられる胃液。  喉が焼かれているように熱い。不愉快な糾弾が耳鳴りとなって、脳へと響く。  ──貴族に媚び入った、売女の息子。  ──穢らわしい、娼婦の血を持つ男。  父アラスターは考えもしなかっただろう。人間どもの視線は顕著に語る。金のために子を産んだ母も、汚くて醜い。  ずっと、ずっと、ずっと闇の中だった。兄リオンに出会うまで。細く華奢な手のひらに撫でられるまで。 (……にいさま)  毛の長い絨毯を毟るよう爪を立て、見事な幾何学模様を乱す。指先は死んでいるのか、なにも感じない。 「マティアス、兄貴を呼ぶか? 必要なら連絡を取ってやる」 「……俺の名を、呼ぶな……触れていいのも、リオンだけだっ」 「わかった、わかった。そのまま横になってろ、いいね?」  クライヴが離れた隙に、マティアスは別荘から飛び出した。  ふらつきながらも、邸を目指す。自室に入るなり、ベッドに転がり落ちた。シーツの上は冷たくて気持ちがいい。  身体の至るところが汚れているが、どうやって自室までたどり着いたのか。まるで覚えてもいない。 「……リオン・レヴィーレット」  金糸を掻きむしって、両目を覆う。何度も名を呼ぶマティアスの声は、宙を舞って消えていく。 「何故、部屋にいる……? 馬は、どうしたんだ……?」  呼吸が落ち着くと、思考が冴えわたる。記憶が抜けているが、部屋を出た痕跡をもみ消さねばならない。  だが、意識は沈むままに、マティアスを夢へと連れ去った。  ──マティアス、お前が後継者だ。  ──引き継ぎが終わったら、私は家を出る。  捨てるつもりなのか。沫雪のような男、リオン・レヴィーレット。  燻ぶっていた残り火が、やがて愛悪となって芽吹く。後継の座から退いたところで、離れられると思っているのなら大間違いだ。 「……嫌だ、にいさま」 「マティアス、私ならいる。安心しろ」  ハッと飛び起きた。ベッドの傍には、リオンの姿がある。  眉尻を下げ、不安を色濃く宿す紫水晶(アメジスト)。ひたいに触れてくる細く長い指先。  リオンの体温だった。睫毛ふせて、甘えるよう寄りそう。 「目を離した私の責任だな、すまない」  決してリオンのせいではない。マティアスが他人に心を赦してないと、リオンだけは受け入れていると。いつになったら気づくのか。  どこまでも兄で、どこまでも弟。穢して、壊して、己の場所まで引きずり降ろしてやりたい。 (絶対に、逃さない……)  ゆっくりと近づき、リオンに抱きつく。縋るような仕草は、兄としての感性を引き出し、隙を生む。 「にいさま、約束」 「ちゃんと覚えている。完治するまで傍にいよう」 「ぼく、にいさまと行きたい場所がある」  シャツを握り締めて、返事を待つ。  心音は一定のリズムを刻んでいて、まったく相手にされていないとわかる。舌打ちが出そうだ。 「そうか、わかった。ならば、熱を下げないとな」  金糸を梳いてくるリオンに、マティアスは顔をしかめた。もう、こんな遊びはやめてやろう。  牙を剥いたとき、この男はどんな風に鳴いてくれるのか。想像だけで昂り、景色が彩りよく咲き誇る。  美しき艶やかな、マティアスの金糸雀(リオン)。はやく堕ちてきて、精神(こころ)を曝くから、求めてほしいと乞い願う。 (にいさまは、俺の、俺だけのものなんだ)  気高い翼を撃ち落とされ、哀れで儚い姿となっても、腕の中が居場所であることに変わりはない。  真っ赤に濁った手のひらで、リオンうなじをなぞった。甘美なシトラス。灼熱のぬくもり。  この手で愛でられる日を夢みて、微睡むままに睫毛をふせる。

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