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シトラスの意味

 マティアスの表情に、影が落ちる。眉根を寄せて唇を噛みしめる仕草。拗ねたときのクセは、8年前から変わらない。  ランプのぬくもりを塗りつぶし、水涸れた空気を漂わせた。リオンを映す双眸が、じっとりと潤んでいく。 「……にいさまは、ぼくを、捨てるの?」  寂しさゆえか。立派な体躯を縮ませ、仔犬のようにうなだれている。  そっぽを向くマティアスの前髪を、そろりと無であげた。指の腹で目尻をなぞれば、碧い眼差しが紫水晶(アメジスト)と交わる。 「そんなわけないだろう。お前には婚約者もいるし、私ともいつでも会える」 「ぼくは、にいさましか要らない……」  触れていた手を、瞬時に捕らえられる。傷口がひらくのも、厭わない強さだ。 「マティアス、やめろ……傷が」 「なら、傍にいてよ」  縫うように、手のひらの隙間に入り込む指先。骨ばった指が、重なり合い絡みつく。  さらりと金糸が、マティアスの目許を覆う。リオンの腕にすり寄って目を閉じる姿は、祈りにも似ていた。 「私はこの家に居られない。すまない、マティアス」  己の不甲斐なさに、口内へ苦味が広がっていく。  マティアスに後継者の責任を負わせ、消えない傷痕を残してしまった。黒き獣が滑らかな背に、歪な呪いを刻んだのはリオンのせい。  いっそあの場で、喰われてしまえば良かったのにと。鬱々とした重みが、体内を駆け巡る。 「そう……もしかして、父さんのせい?」 「あ……いや、私が決めたことで、ぅっ……!」  不意に視界が暗転した。倒れたのかと思うほどの衝撃。しかし、痛みはない。腕に感じた重力が、全身にのしかかる。  熱いくらいの体温。馥郁としたシトラス。違和感は唇の表面をかすめ、さらに深く思考を錆びつかせた。 「ま、マティ……ッ、ん」  視界が揺れる。ぬるりとした舌触り。逃げ惑うリオンの舌を、マティアスが吐息ごと奪う。  奥深くまで蹂躙する舌先は、灼熱を帯びていた。熱に感化され、血流にのって心臓が脈打つ。  触れられているのは、口内か、鼻孔か。シトラスの香りと唇音が、脳に痺れを覚えさせる。 「は、っぁ……お遊び、にしては、度が越えているぞ……」  顔をしかめ、吐き捨てる。続け様に呼吸を整えていると、マティアスの双眸が鮮やかに綻んだ。  碧き輝きは爛々としており、欲情を孕んでいる。リオンを見つめる眼差しが、獲物をいたぶる前の黒豹を呼び起こす。 「マティアス、相手がほしいのなら女にしろ」 「俺は、にいさましか後継者と認めない……っ、う……」 「お前……っ!」  考えるより先に身体は動いていた。ぐったりと弛緩する身体を、どうにか抱きとめる。  ひどい高熱だった。背中に回していた腕が、燃えているようなぬくもりに包まれていく。 「私は、最低な兄だったのだろうな」  やり場のない苦しみが、衝動的にマティアスを突き動かしたに過ぎない。  汗を滲ませ、胸を喘がせるマティアスを眺めた。唇には、柔らかさが未だに染みついている。  貴族の男性ならば、あえて同性相手に欲求を解消するのはよくあることだ。妊娠の心配もなく、面倒事も回避できる。  とくにマティアスは多くの友人がいて、下世話な話もするだろう。誰が余計な知恵を与えたか知らないが、年齢を考えれば羽目を外していても、なんら不思議じゃなかった。  命にかかわる怪我でないとはいえ、出歩けるようになるまで時間がかかる。  相手を用意すべきか、ため息をつきつつ頭を抱えた。受け止めてやりたくとも、リオンには技量がない。 (本人に聞いてみるか……)  前髪をかきあげ、虚空を見つめる。マティアスの重さと体温が、気持ちのいい眠気を誘った。  起き上がろうにも、ぬいぐるみのように抱かれ、巻きつく腕は離れそうにない。  仕方なくリオンは、抗わずに瞼をおろす。夢うつつの中で、マティアスが幼かったころの日々が、寝息とともに流れていた。  ◆  さらに3日経ったころ、ようやくマティアスの熱が下がった。  書類に向かい合うリオンを、何故か後ろから拘束してくる。もはや、跳ねのける気力もない。  マティアスなりの抵抗なのだろう。甘えていれば、リオンが家を出ないと思っている。 「……大人しくしていろ」 「にいさま、いい匂いがする……」  とにかく褒めれば、自分の都合通りにことが運ぶと思っている。  少しでも身を捩ると、マティアスの腕に力がこもった。体重をかけて密着されるせいで、鉛を飲んだように重苦しくてかなわない。 「相手が必要ならば用意しよう。好みはあるか?」 「なんて? 相手って、なに」 「溜まっているのだろう? 我慢はよくないからな」  綴られた文字を追いつつ、口を開く。3枚と続く報告書に目を通していたが、不意にマティアスの手のひらが書面を覆う。  隠すような悪戯に、リオンは眉根を寄せた。対してマティアスも、鋭利な眼差しでリオンを射抜く。 「にいさま。それ、本気で言ってるんですか」 「きわめて合理的な提案だと思うが」  碧眼が眇められ、ひやりとした。マティアスは無言で圧の壁を張っている。  さすがに踏み入りすぎたか。熱で浮かされたすえの沙汰だったなら、知られたくなかったに違いない。 「その、悪かった……ただ、お前は後継者なんだ。火遊びはほどほどにしてくれ」  嫌気が差して解放するかと待っていたが、マティアスの手のひらはリオンの頤をなぞった。  理由もわからず疑問符を浮かべる。逡巡したのちに口を開こうとすれば、身体が軋むほど両腕が絡む。  呻いたのも束の間。そのまま羽交い締めされたあげく、首筋へ弾力のある熱が落ちてきた。 「ま、マティ……ッ、あ」  微かな痛みが、こめかみまで突き抜ける。滑りをまとった舌先と、湿った吐息が肌を無であげた。  脈拍がはやくなる。背筋が粟立つ。鼓膜へと伝わる水音が、喰われているのかと誤認させていく。 「く、っ……マティアス、落ちつけ、話を」 「──リオンさま、ご報告が」  一瞬にして、全身が冷めていく。ノックの音を聞き逃すとは、我ながら情けない。  すぐさまもがいたところで、マティアスの唇が離れた。首筋は、とくとくと熱を持っている。 「後にしてくれない?」 「おい、お前──」  口頭での報告は、早急の要件である。今は問題が山積みで、慎重さを要した。  唸るような低音で威嚇するマティアスに、リオンはため息を漏らしながらも微笑みかける。  乱雑に頭を撫でると、ふわりとシトラスが舞う。マティアスといえば、気の抜けた顔をしてみせた。 「すまない、マティアス。帰ってからなら、いくらでも聞いてやる」 「……それ、本当だよね?」 「ああ、約束しよう」  さっと髪を撫でつけ、身だしなみを整える。振り返りもせず、リオンは部屋を抜け出した。  廊下で待機していた、従者のベネディクトからコートを受け取る。 「調べはついたのか?」  コートを羽織りながら、ベネディクトに視線を這わす。  底冷えする目つきだが、慣れた様子でベネディクトは声を落とした。 「リオンさまが懸念していた通りですね。念のため、3ヶ月分を出資金を洗ったのですが不明の引き出しがあり……」 「子会社への出資は切ったはずだろう。アラスターは関与してるのか?」 「その形跡はまったくありません」  会社の金に手をつけていたのは後妻であり、リオンはその穴を埋めて立て直してきた。  ひとつの事業を極めて、拡大させたのはリオンである。共同事業者の伯爵家は、そのときに知り合った相手だ。  アラスターはリオンの手柄をマティアスのものにすべく、令嬢との婚約を結ばせたのだろう。  マティアスの婚約が決まってから、後妻の無駄遣いはおさまったはずだった。正体不明の出資額に、リオンは目頭を摘む。  出口に向かったところで、ベネディクトが何気ない一言を発した。 「そういえば、香水をつけるなんて珍しいですね?」 「香水? ああ、マティアスに構っていたからな。その匂いだろう」  あれだけ鼻につく香りだと思っていたのに、気づかないほど毒されていたとは。考えるだけで、全身に岩でも乗せられたかのように憂鬱だ。 「お似合いですよ?」 「……無駄口がすぎるぞ、ベネディクト」  今は、目の前の問題を終わらせることが先決である。  レヴィーレットの事業をマティアスの名義にするまで、リオンは侯爵家から出られない。  ずっと、身体中に蔓延った愉悦を叩きつけたとき、アラスターはどれほど醜い顔を見せてくれるのか。  首元に絡むレヴィーレットの鎖が、もうすぐ砂となって散ってくれる。リオンの原動力は、そんなささやかな愉しみだけであった。

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