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第1話 ほぼ形だけの結婚
「よし、離縁しよう!」
ある清々しい朝、レーシュはいつになくすっきりと目覚め、そう口にした。
んん、と色気のある声を発して体を起こすと、窓の外の枝に止まっていた朝鳥がピーヨ、ピルルと求愛のさえずりを奏でる。
陶器のように白く滑らかな肌に、細い筆で丹精込めて描かれたような繊細な顔立ち。レーシュの容貌は、美を司る神ヴィーナスが造り上げた最高傑作と言われても誰もが納得するくらい、寝起きでも瑞々しく美しい。
しかしその感動を覆い隠してしまうほど、プラチナホワイトの髪はどこかで爆発に巻き込まれてきたかのように膨らんで絡み合っている。
この様子にはヴィーナスだって眉をひそめて「残念すぎ」と首を振るだろう。鳥もあっという間にバサバサ音を立ててどこかへ飛んでいってしまった。
まあそんなこと、自分の見た目を気にしたこともないレーシュにはどうでもよかった。頭の中ではこの天啓ともいえる思いつきに説得力をプラスする作業を開始していたからだ。
レーシュは旦那様――ラツィエル・ゴットフリート――とほぼ形だけの結婚をして十年になる。ゴットフリート伯爵家が所有する屋敷のひとつに住み、寝室はきっちりと分け、顔を合わせるのは朝食の時間のみ。
だが仲が悪いわけではない。お互いの利害が一致し、無駄な干渉を避けた結果が現状である。とても平和で、不満など一切ない。
でも――、と顔を洗ったレーシュはタオルで顔をゴシゴシしながら考える。
もう、今日で三十歳だ。
この国では同性同士でも子を授かることのできる仕組みがあるけれど、授かる確率は通常の妊娠より遥かに低い。そしてその仕組みを持ってしても、三十を超えると子作りはかなり難しいというのが世間での認識だった。
つまり、レーシュに結婚相手としての価値はなくなったに等しい。貴族はみんな、後継を作るために結婚するのだから。
結婚という手段で、男爵家の三男でしかなかったレーシュに庇護を与えてくれたラツィエルにはとても感謝している。若くて身分が低いと、強引な手段に出てくる相手も多かったからだ。
でも今は職場でも一定の地位を得たし、結婚相手としては年齢も行き過ぎた。さすがにこの歳になってまで、以前のような混乱は起きないだろう。
レーシュは一生ひとり身でもいいと思っているが、ラツィエルが同じとは限らない。むしろ本当なら彼も子をもうけるべき立場だ。
兄が家を継いでくれるから問題ないと言っていたけれど、ゴットフリート伯爵にはまだ孫がいない。レーシュはラツィエルの可能性を奪ってしまっていることに、少しだけ罪悪感があった。
ラツィエルはレーシュの二つ歳下なのでまだまだ可能性はある。きっと今でもフリーになれば引く手あまたに違いない。おじさんのレーシュとは違って。
(今すぐにでも、旦那様を解放してあげるべきでは?)
考えれば考えるほど、いい思いつきだ。というか、急いで行動するべきだ。
そう頭の中で結論づけて、着替えて向かった朝食の席でレーシュは爆弾発言をしたのである。
「レーシュ、誕生日おめで……」
「ラツィエル、僕たち離縁しよう」
「……は?」
言葉を遮ってしまったせいか、銀製のフォークがカランッと音を立て、東の国から入ってきたという陶磁器の皿に落ちた。常にマナーの完璧なラツィエルにしては珍しいことだなあ、とレーシュは目をぱちくりさせた。
ラツィエルは新しいフォークが使用人によってテーブルに置かれるのを見つめ、綺麗に撫でつけたアンティークゴールドの髪を乱れもないのに手で撫でつけ、深い翠 色の瞳で皿を見て、もう一度レーシュを見た。
「……――は?」
「だから離縁しようって」
「いや聞こえていなかったわけじゃない。何があった? 好きな男でもできたか? ――レーシュに??」
「なにその信じられないみたいな言い方。……できてないけど」
レーシュの頭を見ながら言われ、ちょっとだけ手で髪を梳く。しかし複雑に絡み合った髪はギシとかミシ、みたいな痛みだけ残して指さえ通してくれない。
ちぇっと小さく口をすぼめると、ラツィエルがため息を吐きながら立ち上がる。レーシュもそれに倣って席を立った。
いつものように連れ立って隣の部屋に向かうと、レーシュは一人掛けのソファにぽすんと腰掛けた。後ろにラツィエルが立つ。
「相変わらずどんな寝相をしてるんだ。つーかまた乾かさずに寝たな? あれだけ止めろと言ってるのに」
「だってさー。疲れてるじゃん。眠いじゃん?」
「……まあいい。それで? さっき言ってたのはどういう意味なんだ。ちゃんと説明してくれ」
ラツィエルが慣れた手つきで絡まった髪を梳き始めるのを感じ、レーシュは起きてから三十分ほどで考えた正当な理由をすらすらと語った。
伴侶の髪を梳 るなんて、よっぽどお熱い夫婦しかやらなさそうなことであるが、レーシュとラツィエルはそんな仲ではない。
外見に全く頓着しないレーシュがぼさぼさ髪のまま出仕しようとするのを、見た目にもきっちりとこだわるタイプのラツィエルが許せないだけだ。
湯浴み後に髪を乾かすのだって、本来なら使用人の役目である。しかし湯上がりのレーシュを前にして平静を保てる者がいなかったし、慣れればできたのかもしれないがレーシュ自身が自分でやるからいい、と結婚当初に断ったのだ。
まあ、結局自分では面倒くさくて何もやっていないからこうして毎朝怒られているのだけれど。
別にレーシュの髪がどうなっていたって誰も気にしないと思うのに、細かい男だ。でも人に頼むのではなく自らやってくれるから、レーシュもなんとなく甘んじてそれを受け入れていた。
ラツィエルの大きな手が器用に動き、レーシュの髪に艶を取り戻す。ほんのりと花 の香りのする香油を少量つけ、ほとんど白に近いプラチナの髪が絹糸のようにさらりとまとまると、葡萄と同じ青紫色をしたシルクのリボンで一つにまとめた。
今日のリボンはレーシュの瞳の色に合わせたらしい。よし、と自分の腕前に納得したように頷いて、ラツィエルは鏡越しにレーシュと目を合わせる。
金と緑、白と紫が縦に並んでいる。金色の方が口を開いた。
「レーシュの言い分はわかった。だけどなぁ、お前、本当に自分にはもう価値がないと思ってるのか」
「え、むしろどこにある?」
「…………」
「離縁したくない理由でもあるの?」
「な、ない! ただ、まぁ、ちょっと待ってくれ。急に言われても手続きとか、あるだろ色々」
「はあ」
ラツィエルがいいなら別にいいのだけど。彼なら急がなくても、歳下の妻くらいさっと見つけてくるだろうし。
たまに一人で参加している夜会で、もうお相手を見つけている可能性もある。
そんなことをぼんやり考えながら、レーシュも一応は伝えたので良しとしようと納得して立ち上がった。
「おい、これを忘れてるぞ」
「あ、そうだった」
手渡された大きな黒縁眼鏡をかけ、朝の身繕いは終了だ。
並んで立つと、頭ひとつ分はラツィエルのほうが背が高い。堂々とした立ち姿に近衛を示す白い騎士服がよく似合って、眩しいほどだった。
レーシュは白いブラウスに黒のトラウザーズ。色はいつも同じで、デザイン違いのものがクローゼットに所狭しと並べられている。
「これ以外は着るな」と旦那様権限で厳命されてから、レーシュ自身はこだわりがないし選ぶ必要もないのが楽で素直に聞いていた。
二人並んで玄関ホールを出ると、馬車が待機している。御者が扉を開けてくれたので、レーシュは立ち止まることなく馬車へと乗り込んだ。
「じゃ、また明日」
「おう」
一瞬だけ視線を合わせ、軽い挨拶を交わす。これで、明日の朝まで顔を合わせることはないのだ。
レーシュは王宮勤めの文官、ラツィエルは王宮で王族を警護する近衛騎士をしている。目的地は同じなのだが、ラツィエルは自分の馬に乗って行くので仲良く通勤することもない。
春の麗らかな日差しに温められた馬車の中は温かい。ふあ、と小さなあくびをしてから、レーシュは馬車が動き出すのを静かに待った。
十年続けている、なんら変わりないいつもの朝だ。
――レーシュと別れたラツィエルが、やけに険しい表情をしていること以外は。
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