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9 救いの手
雨が去ったのは、明け方になってからだった。
雨が止むとすぐ、ディーウィットは着ていた服を脱いで絞り始める。手足の冷えは酷く、大きく震えながらの作業だったが、日が上ってきたお陰もあり、少しずつ震えは収まってきた。
散々冷えたというのに、何故か頭部だけが異様に熱を持っているように感じる。震えはもうないが、鳥肌は立ったままで寒気がしていた。
ディーウィットはふらつきながら、なんとなく行きたい方向に足を向ける。視界はぼんやりとして定まらず、焦点を合わせてもすぐにぼやけていた。思考も纏まらず、何も考えられない。これは発熱したかもしれないと気付いたが、だからといってどうしようもなかった。
このままこの場に留まったところで、ただゆっくりと死に向かうだけだ。
「今日こそ人を見つけなければ……」
声に出すと、まるで老人のような嗄れ声が聞こえてきた。
通った場所にバッテンを付けることすらも忘れ、ディーウィットは導かれるように奥へと歩いて行ったのだった。
◇
直感など当てにならない。
行けども行けども、前方に広がるのは密林ばかりだ。自分が今どこにいるのか、どちらから来たかも分からなくなっていた。
目の前に浮かぶのは、自分を嘲笑う家族の笑顔や、昨日自分を襲ってきた兵士の欲情した顔ばかり。幻聴までもが、ディーウィットに襲いかかってきていた。
『愚図なんだから。本当に使えないよね。こんなのが兄だなんて、僕って可哀想』
『このクズが! 一体何をしに来た! 陰気な顔を見せるなと言っているだろう!』
デアーグと父の言葉は、実際にディーウィットが浴びせられたものだ。
双子だから、当然ながらディーウィットとデアーグは同じ日に生まれている。毎年盛大な誕生会が開かれる度、祝われるのはデアーグだけだと知っては勝手に傷付いていた幼い日々が思い出される。
『お前は呼んでいないだろう。何故来た』
『嫌ねえ。浅ましいったらないわ。お前には何もあげないわよ』
兄と母の言葉は、幾つの誕生日の時に言われたものだったか。
政務を丸投げされた十五歳からは、忙しすぎて顔すら出せなくなったのがまだ救いだった。
いつだったか、アルフォンスに「参加されなくてよいのですか」と聞かれたことがあった。あの時ディーウィットは、苦笑だけで返した記憶がある。
誰も祝ってくれない誕生日などなんの価値があるのか。そんな思いが顔に出ていたのだろうか。成人を迎えた二十歳の誕生日、国はそれは盛大な誕生祭を開催した。勿論、デアーグのだ。
アルフォンスには、「経費の無駄遣いだから僕の分は不要だと言ってある」と尤もらしい嘘を吐いた。生誕祭当日も、ディーウィットは執務室に籠もり仕事に追われていた。するとアルフォンスが突然、『夜の光石』が付いた首飾りを贈ってくれたのだ。
あまりにも予想外で、驚きすぎて言葉を失っていたディーウィットに、アルフォンスは「ご生誕及び成人おめでとうございます、殿下」と微笑みながら言ってくれた。
ああ、こんな自分にも、生まれたことを目出度いと思ってくれる人がいたのか。
そう思った瞬間、感動のあまり涙が滲み、慌てたアルフォンスにハンカチを渡された、優しい思い出。
胸元の『夜の光石』を握り締める。これだけは、一生宝物として大事に持っていよう、と心に決めていた。
一時だけだったとしても、自分を大切に思ってくれた人がいたという証だ。それだけで、この先どんなに辛いことがあろうとも耐えられると思った。
――だが。
重度の疲労に、度重なる心労。その上、雨に降られて熱まで出てしまったディーウィットは、自分で思っている以上に限界に近かったらしい。幻聴と幻覚のせいで、自分の目の前に何があるかすらもう認識できない。
すると、唐突に視界が開ける。急に明るくなったことで分かった。だが、視界は変わらず大きく揺れ、焦点が定まらない。ここはどこだ。微かに煙の匂いがするということは、人里に辿り着いたのか。
「人里……は、はは……」
認識した瞬間、一気に気が抜けてしまった。意識がフ、と遠のいていく。
「☆&$■!?」
男のものらしい声が聞こえたが、さっぱり理解できなかった。部族の言葉か、と消えゆく思考の中で思う。
このままでは、地面に身体を打ち付けてしまうだろう。痛いのだろうなあ、せめて頭を打たなければいいが、と呑気なことを考えたディーウィットだったが、一向に痛みは襲ってこず。
ふわりと身体が浮く感覚の後、ディーウィットの意識は今度こそ途絶えた。
◇
……誰かがディーウィットの頭を優しく撫でている。
ディーウィットを撫でてくれる存在など、生まれてこの方いなかった。ということは、これは夢の中の出来事なのだろう。
ディーウィットは常に自分に言い聞かせてきた。甘えてはならない。寄りかかる相手を見つけたと思った瞬間に決意は揺らぐから。救いの手を求めてはならない。もう十分に分け与えて貰えたのだからと。
ディーウィットに慈悲が与えられたのは王族であるからであって、もしディーウィットの血が彼らにとって価値がないものだったら与えられなかっただろう。
彼らの慈愛はこの身体に流れる血に対して与えられたものであり、ディーウィット個人に対するものではない。思い上がってはならないのだ。
だが、いつになく弱り切った心には、この手は温かすぎた。嬉しくて、だが分不相当な気がして心苦しい。
「何がそんなに悲しい? 泣かないでくれ、見ているだけで切なくなる」
低く聞き心地のいい男の囁き声が、夢の中にいるディーウィットに語りかける。
――僕は泣いているのか……? 何故……。
「『ムウェ・ラデ』。泣くな。傍にいるから――」
……『ムウェ・ラデ』とはなんのことだろうか。不思議に思いながら、男の声と手の温かさを感じている内に、ディーウィットは今度は悲しくない夢の中に落ちていったのだった。
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