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1-振り向きざまに絶対服従
ジ、と煙草の先が染まる。
佐倉が指の間に煙草を挟み、口元に当てていた手を外す。ふうと口から吐かれた煙をぼうっと見ていると、試すように向けられる視線。
「じゃあ手始めに、俺にキスしてください」
「は?」
言葉の意味が最初から最後まで全く理解できなくて、俺は硬直する。会ったばかりのやつとなぜ、キスなんてしなければいけないんだ。
その前に、男同士でキスって何だ。
「忠誠のキスですよ。ほら、早く」
「んなの、できるわけっ……!」
「何を想像してるのか知りませんが、この場合のキスは手の甲にするんですよ」
「手っ!?」
佐倉は何の気も無い顔でしれっと言った。からかわれていることにようやく気づいた俺は、真っ赤になって顔を背ける。
「どうぞ」
煙草を持つ手とは反対側の手が、すっと差し出される。佐倉は本気だった。
「できないんですか?」
「だって、こんなの……」
おかしいだろ、と言葉を震わせる。
「別に、嫌なら辞めてくれたって良いんですよ。小林くんが今すぐ全額払ってくれるならね」
「〜〜っ!?」
それを言われると反論の一つもできない。
俺は佐倉の大切な仕事道具を壊した。貧乏学生の貯金じゃ買えない額の代物だ。弁償する代わりに、佐倉は俺を“犬"にしようとしている。これはそのための儀式なんだと察して、俺は青ざめた。
「色恋でするキスでも無いのに、何を照れてるんです?もしかして初めて?」
「てっ、照れてねーし!初めてでもねえわ!」
馬鹿にすんな!とおまけに付け加える。
佐倉はハァと呆れたようなため息をついた。まだ随分残っている煙草を、ダイニングテーブルの灰皿に押し付ける。焦げた匂い。
「小林くんが想像してるキスは、こういうことを言うんですよ」
覚えておいてください、と紡がれる佐倉の言葉は途中で聴こえなくなる。両の手で耳を塞がれたことにしばらくしてから気づいた。もぞもぞというくぐもった音。
「ん……ふっ……!?」
訳もわからぬままに、唇を塞がれた。
それがキスだとわかるまでに随分時間がかかった気がする。
押しのけようと佐倉の両肩を思い切り押しても、びくともしない。その内、ぴちゃぴちゃという耳障りな水音が頭の中で響きまくった。耳を塞がれているからだ。なんだこれ。
嘘だろ。
頭がくらくらする。
「はっ……はぁ……!」
ようやく解放された頃には、酸素という酸素が足りなくなって目眩がした。苦しくて目尻に涙が溜まる。必死に息継ぎする様が、本当に無様な犬みたいだ。
見上げると、佐倉は笑っていた。
「良い顔するじゃないですか。それ、撮ってもいいですか?」
数時間前は、こんな酷い目に遭うとは思っていなかった。
:::
(やべ……歩けねぇ)
冷酒の酔いは後から回るぞ、とゼミの仲間が言っていたことを後になってから思い出した。
大学の仲間と取り組んでいた大きな課題が一つ終わって、今日はその打ち上げだった。こんなことになるなら終電なんて気にせず三次会の馬鹿騒ぎまでついて行けば良かった。一人よりは幾分マシなはずだ。
(タクシー、つっても金ねえしな)
ふらっと路地裏に入り込んで、薄暗いそこにそっと座り込んだ。酔いのせいで世界がくらくらとまわる。
スマートフォンに手を伸ばすが、すぐに介抱を頼めるような知り合いもいない。
いっそここに横になってしまおうか。そんなことを考えていると、大丈夫ですか、と声をかけられた。
「だ、れ?」
頭の上から降ってきたのは間違いなく男の声だ。
「立てますか?」
揺さぶるように肩に置かれたのは少し無骨な男の指。俺よりも低い体温。
見上げてみるが、視界が歪んでいて顔はもちろん年齢だってよくわからない。ただ、わずかに甘い煙草の匂いがした。
「ああ……無理そうですね。今、車呼びますから」
言葉の割に、困った様子もなく淡々とこなしている。酔っ払いの介抱に慣れているんだろうか、なんて思った。
膝に手をついていた男がタクシーを止めようと立ち上がる。俺は十分な金を持ち合わせていないことに気がついて、慌てて男の腕を掴んだ。
男は目を見開いて、怪訝そうな顔で俺を見下ろす。
「や、あの……ごめんなさい。おれ、大丈夫です」
「……無理しない方が良いですよ」
「いや、本当に。立てます……か、ら……!」
目眩もましになったから、本当に立ち上がれると思ったんだ。でも血液が急に体に回ったせいで目の前が真っ暗になった。
立っていられるわけもなくて、思い切り倒れこむ。コンクリートに顔面をぶつける、と思ってとっさに目を閉じるが痛みは襲ってこなかった。
ドサリ、と重い音。
煙草の匂いが一層強くなったと思えば、そこで意識が途切れた。
「ん……」
ふっと目を開けてみたものの、瞼はまだ重い。
横になっていた体をシーツに押し付けるようにもぞりと動かした。慣れない綺麗なシーツに違和感を感じて、俺は飛び起きた。
同時に頭に激痛が走って俺は眉根を寄せる。
(あ……そうだ、俺、酔っ払って……!)
だるい体をひねって、部屋の中を見渡す。
綺麗に片付いている部屋だ。大判の本が何十冊も並んでいるでかい本棚が目に付いた。見覚えの無い景色。
「どこだよ、ここ……」
ベッドから降りようとした時、カチャ、と何かが開く音がした。びくりと肩を揺らす。
入ってきたのは例の男だった。金色にグレーがかかった不思議な色の柔らかそうな髪の毛、手足が長くすらりとした体型。黒いハイネックとベージュの細身スラックスというシンプルな格好がとても似合っていた。
もちろん、名前なんて知らない。
「ああ、起きましたか」
男は手に持っていたミネラルウォーターのペットボトルを俺に渡して、自分は椅子に腰掛けた。個性的なデザインの、高級そうな椅子だった。
「飲まないんですか?」
ペットボトルを手にしたまま、思わず男をじっと見つめてしまっていた。ハッとしてぺこりと頭を下げる。
「すみません、俺……なんでここに……」
「路地裏で酔っ払って、倒れていたのでタクシーに乗せたんですが、住所も言えないようだったので仕方なく俺の家に」
淀みない口調ですらすらと言われ、俺は呆気に取られてしまった。
男の表情が真顔のままだったので怒っているのかと思ったが、どうやら違うらしい。もともと表情の変化が少ないようだ。
「ごめんなさい。あの、俺、もう帰ります」
「もう少しゆっくりしていったらどうです?」
「大丈夫です。もう歩けますんで」
「そう言うわけにもいかないんですよね。残念ながら」
意味深な男の言葉に、立ち止まる。
彼はテーブルの上に置いてあった煙草のケースから一本取り出して、それを部屋の隅に向けた。
つられて視線を向けると、そこには黒い機材の塊が放置されていた。
それはカメラ。
しかも業務用の本格的なものだと気づくのに数秒。
レンズが割れてボディにもヒビが入っていると気づくのに十数秒。
全身の血の気が、引いた。
「酔っ払ったキミのふらつく足に蹴られて、落としました」
「なっ!?」
「その後、踏まれました」
「えええっ!?」
信じられなかった。俺は壊れてしまったおもちゃのように、頭を下げ続ける。
「す、すみません!弁償しますから!」
「そうしてくれるとありがたいですね」
「あの……金額は……」
すっと差し出された男の手、両手合わせて立てられた指は六本だった。
咄嗟に息を飲むが、途方も無い数字ではないことに安堵する。
「ろ、六十万円ですか」
「惜しい。桁が一つ違います」
「ろっぴゃくっ……!?」
男が嘘をついているようには思えなかったし、専門では無いにしろ映像系の学科に所属している俺は察した。
レンズだ。この手のカメラは、レンズが馬鹿高いのだ。
終わった。俺の人生は終わった。大学を辞めて明日から働かなければいけない。奨学金も返せていないのに、どうするんだ。
「ほ、本当に申し訳ないんですが、俺、分割じゃないと返せそうになくて」
完済に何年かかるかわからない分割だとは、とても言えなかった。
「良いですよ。お金で返してくれなくても」
「えっ!?」
一瞬、この男が大金持ちか何かと想像して助かったと思った。けれど何となくおかしい。お金“で"ってどういう意味だ。
「俺、仕事でオランダに居たんですけど、ようやくこっちに帰ってきたんです」
「はあ……」
「だから、お金の代わりに俺のところで働いてくれませんか?」
なるほどそういうことか。一応は疑問系だが、俺に選択権は残されていない。
きっとこの男の仕事とはカメラマンなのだろう。
途方も無い借金を背負うことに比べれば、アルバイトくらい格段に悪い話じゃないと思った。
「わ、わかりました」
二つ返事で了承すると、男は「良かった」と呟いた。
「ちょうど、何でも言うこと聞く“犬"が欲しかったんですよ」
俺は耳を疑う。
「い、ぬ?」
「そう。犬」
瞬きをする。完全に思考停止する直前、男は「俺は佐倉です。佐倉創介(さくらそうすけ)」と言った。
男が背にしている壁には写真が飾られている。
泣きたくなるほど綺麗な外国の風景だった。
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