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第1章 待っててやるよ

第1章 待っててやるよ スタジオの片隅。 ひび割れた遮光シートの隙間から入り込む、夕暮れのくすんだ街明かり。 それが、セットの中央に落とされた赤黒いスポットライトの強い赤みと混ざり合い、ひどく落ち着かない色合いを描いていた。 空気は、湿った汗と男たちの熱の名残で重くこもっている。 蓮見暁斗(はすみ・あきと)は、使い古された三脚に固定された大型カメラのファインダーに、しっかりと片目を押し当てていた。 黒縁眼鏡のブリッジを、長い指先が神経質そうに押し上げる。細身の長身を包む黒のワークシャツは、ボタンを上まできっちり留められ、露出した肌は首元と手首だけだ。 その無駄のない立ち姿は、インディーズのゲイビ業界で「冷たい完璧主義者」と恐れられる監督そのものだった。 「……水野、視線が泳いでる。カメラを意識しすぎるな」 インカムの向こうへ、低く、硬い声を響かせる。 レンズの先、赤い光が這うベッドの上では、轟レオ(とどろき・れお)が元アイドルの水野ヒカル(みずの・ひかる)を圧倒的な重みで押さえつけていた。 レオの浅黒く逞しい筋肉が、照明を受けて獣の背中のように浮かび上がる。 その容赦のない、重い腰遣いが引き起こすベッドの軋み。 結合部から響く、粘り気のある卑猥な水音が、マイクを通じて暁斗の耳元に直接流れ込んできた。 (……そうだ。この音だ。この生々しい体のぶつかり合いだけが、仮面を外す) 暁斗はファインダーの枠の中に、水野の顔を冷静に捉え続ける。 最初は「ビジネスだ」と強がり、元アイドルのプライドを貼りつかせていた男の顔が、今やすっかり崩れていた。 ぼんやりした目が虚ろに上を向き、唇の端から一筋の涎がこぼれ落ちる。 「声のトーンを落とすな、水野。感じているなら、その屈辱ごと喉を鳴らせ。お前が今まで抱えてきた薄っぺらいプライドが、レオの熱に奥からほどかれていく……その瞬間を、レンズの前に見せ続けろ」 (いい。最高にエロいイキ顔だ。視聴者が自分でも認められずにいる欲望をまっすぐ揺さぶる……) 胸の奥が、わずかにざわついた。 快楽にほどけきった水野の顔が、一瞬、暁斗自身の未来のように視界の奥へ焼きついた。 (……いや、気のせいだ。俺は撮る側、支配する側だ。被写体の熱に飲まれるな) 「レオ、フォーカスをナカの動きに合わせろ。奥を狙って、何度も攻めろ。言葉を奪え」 暁斗の冷静な指示に応じるように、レオが低く喉を鳴らして笑った。 角度を鋭く変えた、獣じみた腰遣い。 「あ……っ! うあ、あ……っ! レオ、さん……そこ、だめ……っ、頭、おかしく、なる……っ!」 水野の身体がビクビクと大きく跳ねる。 「いいテイクだ。ほら、もっとカメラに向かって啼け。自分がどれだけ深く沈められたか、その乱れた呼吸で視聴者に教えてやれ」 指示を飛ばす暁斗の指先が、カメラのハウジングを強く握りしめる。 その時だった。 ベッドの上のレオが、汗に濡れた前髪の隙間からふと顔を上げた。 ギラギラとした、暗闇で獲物を射抜く野獣そのものの目。 それは、視聴者を煽るための「カメラ目線」であるはずだった。 だが、そのレンズ越しの視線は、明らかに――向こう側にいる暁斗の存在を、正確に、深く射抜いていた。 ただの演技とは違う、確かな熱。 まるで、暁斗だけは逃がさないと告げるような、強烈な独占欲。 暁斗の心臓が、ドク、と乱暴に脈打った。 (……あの目。また、これだ。レオの視線は、カメラという壁を通り抜けて、俺のいちばん見られたくない場所を抉ってくる) 息が、わずかに詰まる。 ファインダーという絶対的な安全な場所に隠れているはずなのに、レンズを通してレオの男としての熱が、自分の身体の奥底までほどきにくるようだった。 (動揺するな。疲れのせいで見た錯覚だ。俺は監督だ。プロとして、この熱量をフィルムに収めることだけを考えろ) 暁斗は強引に考えを切り捨て、インカムのボリュームをわずかに下げて声を乗せる。 「……レオ、そのまま奥を叩け。水野、感じている顔をモニターの真ん中に置け。目が完全にイッているその表情こそ、最高の画だ。カットするな」 水野が最後の理性まで快楽に塗り潰され、床に崩れるような甘く乱れた声を上げた瞬間、レオが低く唸りを上げて身体を離した。 結合部から溢れた白い熱がベッドを汚し、水野は放心したままかすかに身を震わせている。 「……よし、カット。いい出来だ。スタッフ、水野のケアを」 暁斗が機材の停止ボタンを押すと、機材の赤いランプが静かに消えた。 ドッと押し寄せる疲労感。それ以上に、下腹部に溜まった説明のつかない熱に、暁斗は心の中で舌打ちした。 「監督、お疲れ様です。次回のロケハンについての打ち合わせ、会議室でプロデューサーがお待ちです」 「わかった。すぐに行く」 入ってきたスタッフに短く応じ、暁斗が手早くカメラの記録メディアを抜き取っていると、背後から荒くて強い気配が近づいてきた。 汗を拭うこともせず、逞しい胸板から熱気を立ち上らせたレオが、すぐそばで影を落とす。 「おい、暁斗」 低く、しかし逆らわせない声が耳に響いた。 暁斗は振り返らず、メディアをケースに収めながら冷たく返す。 「なんだ、レオ。今日のテイクなら文句はない。お前の表現力は、こちらの期待通りだったよ。水野の崩し方も完璧だ」 「そんなビジネスの話をしてんじゃねぇよ」 レオがさらに一歩、距離を詰める。 野性的な汗の匂いと、強い男の気配が、暁斗の背中に直接触れるほどに近くなる。 「他の現場に行くのはやめろって言ったろ。お前はもう、俺専用のカメラマンだ。俺以外の男に、そのレンズを向けるんじゃねぇよ」 暁斗はゆっくりと体を向き直らせ、黒縁眼鏡の奥の冷たい目で、レオのギラギラとした瞳を正面から睨み返した。 「仕事の選び方に口を挟むなと、何度も言っているはずだ。お前はただの専属男優だ。俺の絵コンテ通りに動き、最高の画を見せてくれればそれでいい。お前に俺をとやかく指図する権限はない」 「盛り上げてやってるだろ、お前の思い通りのクオリティでさ」 レオは薄く唇を歪め、暁斗の耳元に顔を近づけて低く囁いた。 「だがな、お前が他の男をファインダーに収めて、カメラの後ろで熱い息を吐きながら興奮してると思うと、吐き気がするんだよ。俺の身体はな、お前の作品のためだけに動くように出来てんだ。……いや、お前のためだけに、な」 暁斗の頰が、自分の意志とは無関係にわずかに熱を持った。 言葉が少しきつくなったことに気づき、小さく息を吐き出して視線を外す。 「……言い過ぎた。お前のおかげで、消費されるだけのポルノとは違う、人間の本音を暴く作品が撮れた。今日のテイクには感謝している。……もういいだろう、スタッフが待っている」 機材ケースを手に、逃げるようにスタジオを出ようとする。 背中に、焼き付くようなレオの重い視線が突き刺さるのを感じながら。 **** 入り口の陰で、コードを片付けていたアシスタントのスタッフたちの小さなささやきが漏れ聞こえてきた。 「また轟さん、蓮見監督に突っかかってたね……」 「あれ、マジで監督のことしか見てないよね。撮影中のカメラ目線、完全に視聴者じゃなくて監督個人を殺しにいってるもん」 「あの視線の熱さ、普通じゃないよな……。本気で惚れてるって噂、マジなんじゃない?」 暁斗は歩調を緩めず、聞こえないふりをして廊下を歩き続けた。 だが、耳の奥がじわじわと熱く痺れ、胸のざわめきは増すばかりだった。 (……あの目だ。いつから、あの男の視線ばかりを意識するようになった? 俺はただ、ファインダー越しに彼という『最高の素材』を見ているだけなのに……なぜ、これほどまでに胸が騒ぐ) 背後を振り返ることはしなかった。 だが、スタジオの奥から、低く、しかしはっきりした響きのように、レオの声が暁斗の背中に届いた。 「いつでも言えよ、暁斗。お前が本気でその『撮る側』の安全な仮面を剥ぎ取られたくなるまで、俺はいくらでも待っててやるからな。お前がその高いプライドを捨てて、俺の熱を欲しがって啼く瞬間を……ちゃんと待ってるからよ」 廊下の曲がり角を曲がっても、その低い声の余韻は暁斗の耳の奥にへばりついて離れなかった。 胸の動揺は、冷たい編集室に向かう歩みを進めても、まったく収まる気配を見せなかった。

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