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第2章 引きずり出してやる

打ち合わせ室には、エアコンの小さな音だけが響いていた。 机の上に広げられたロケ候補地の写真は、どれもありきたりで、今の暁斗には少しも響かない。 スタッフが熱心に語る「光の加減」や「構図の安定感」といった説明が、まるで知らない言葉のように耳をすり抜けていく。 (……ピントが、合わない) 暁斗は無意識に、外した眼鏡のフレームを指先でなぞった。 目の奥に焼き付いているのは、先ほどのスタジオでの光景だ。 自分を射抜いたあのギラギラとした野獣の目。 そして、水野を荒く攻めていたレオの、あの激しいほどに美しい腰遣い。 「――蓮見監督、予算案の修正ですが、これで宜しいでしょうか?」 スタッフの問いかけに、暁斗は冷たい顔を貼り直して頷いた。 「ああ。問題ない。進めてくれ」 「……監督、顔色がよくないようですが」 「気のせいだ。少し、考え事をしていただけだ。今日はもう解散にしよう。詳細はメールで送る」 逃げるようにスタッフを帰し、一人残された暁斗は、合成皮革のソファに深く身体を沈めた。 天井の蛍光灯を見上げ、深く、重いため息をつく。 (なぜ、あの日から俺の心はこうも乱されている……。俺は、素材としての彼を見つけただけだ。……あの、最悪で、最高の夜に) 目を閉じれば、記憶は勝手に、あの日へと巻き戻される。 **** 一ヶ月前。 雨上がりの重い湿気が、歓楽街の裏通りにまとわりついていた。 暁斗は、行き詰まっていた。 大手レーベルの「売れるための、型にはまったポルノ」に吐き気がした。 記号的な快楽ではなく、人間の本性がむき出しになる瞬間、抑え込まれた心の奥が叫ぶような、そんな救いとしての映像を撮りたい。 だが、それを見せられる男が見つからなかった。 辿り着いたのは、街外れにある、むせ返るような男の匂いと欲望がこもる発展場だった。 (理想なんて、ここにはない。あるのは、ただの剥き出しの飢えだ……) そう苦く笑いながら、湿った廊下を進んだ時だ。 突き当たりの簡易ブースの、わずかに開いた遮光カーテンの隙間から、その音が聞こえてきた。 肉と肉がぶつかる、くぐもった、しかし生々しく力のある低い音。 「は……あ、っ! ああぁ、っ!」 漏れ聞こえる男の啼き声は、快楽というよりは、めちゃくちゃにされる怖さに近い絶叫だった。 暁斗は、何かに操られるようにその隙間を覗いた。 そこにいたのは、圧倒的な「雄」だった。 逞しい背中に浮き出る汗が、安っぽいネオンの光を受けて鈍く光る。 轟レオは、客の男を四つん這いに固定し、折れそうなほど細い腰をがっしりと掴んで、容赦のない強烈な突き上げを繰り返していた。 (……なんだ、この腰遣いは) レオの動きには、少しのためらいもない。 結合部から響く卑猥な水音は、マイクを通さずとも暁斗の耳の奥を直接叩いた。 レオの太い腕が、客の男の首筋を乱暴に抑え込み、その耳元で低く重い声を出す。 「ナカ、熱すぎんだよ。もっと啼け。俺の一物でナカが掻き回されて、頭の中真っ白になってんのか? ほら、自分から腰振ってみろよ。……最高にエロいメス顔になってるぜ」 暁斗の胸が、ドクンと音を立てて波打った。 それは、監督としての嗅覚だけではない。 もっと原始的な、自分の中にある何かが激しく警鐘を鳴らすような衝撃だった。 その時、レオが不意に、弾かれたように顔を上げた。 獲物を射抜く、野獣の目。 カーテンの隙間に潜む暁斗の視線を、彼は一瞬の迷いもなく捉えた。 (……っ!?) 息が止まった。 普通の男なら、覗き見られたことに動揺するか、あるいは激怒するだろう。 だが、レオは違った。 彼は、薄く唇を歪めて笑ったのだ。 暁斗の目を見つめたまま、客の男の奥をより深く、より激しく突き上げた。 「――見てろよ、お前。俺がこいつを、どこまで壊してやるか。……いい画なんだろ?」 声は聞こえなかった。 だが、レオの唇は確かにそう動いた。 暁斗は慌てて、両手でフレームを作るプロの振りをしたが、指先は小刻みに震えていた。 レオは、客の男が快楽の果てに床へ崩れ落ちるまで、暁斗から一切目を逸らさなかった。 その目は、暁斗の喉元に噛みつき、その仮面の下にある醜い欲望を直接、引きずり出そうとしているかのようだった。 (この男だ。この男なら……俺の理想を、作品にできる) 下半身に溜まった落ち着かない熱を「創作への情熱」という名前に強引に変えて、暁斗はその場を立ち去った。 **** 翌日の深夜。 場末のファストフード店。 黄色いプラスチックの椅子に座り、レオは山盛りのハンバーガーを無造作に口へ運んでいた。 「……で。昨日あんなに熱心に覗いてた監督サマが、俺に何の用だ?」 レオはポテトをかじりながら、遠慮のない視線を暁斗に向けた。 暁斗は、冷めたコーヒーを一口飲み、感情を押し殺して切り出した。 「昨日の、あの発展場での動き……。あれを、俺のカメラの前でやってほしい」 「はあ? AVに出ろってか。面倒くせぇな。俺はあそこで小遣い稼ぎができれば十分だ」 「小遣い稼ぎで終わらせるには、惜しい才能だ」 暁斗は身を乗り出し、レオのギラギラした瞳を正面から見据えた。 「俺は、ただのポルノを撮るつもりはない。人間の抑え込まれた本性を暴き、心と体を完全に解放する……そんな救いとしての映像を撮りたい。お前なら、それができる。俺の専属男優になれ。報酬は、望むだけ用意する」 レオはハンバーガーを飲み込み、喉を鳴らして笑った。 「救い? 傑作だな。あんなエロい目で俺を見てたくせに、ずいぶん立派な理由を並べるじゃねぇか」 「……何が言いたい」 「お前の目だよ。昨日、俺に犯されてる男の顔を見てる時、お前のピントはどこに合ってた? 作品のクオリティか? それとも、俺の一物が、その男のナカをどう抉ってるのか……お前自身のナカで想像してたんじゃねぇのか」 暁斗は眉一つ動かさず、冷たく言い返した。 「プロとしての観察だ。誤解しないでほしい」 「誤魔化すなよ」 レオが不意にテーブルに手を突き、顔を近づけてきた。 汗と、安っぽい芳香剤と、圧倒的な「雄」の匂いが暁斗の鼻を突く。 「お前さ、その黒縁眼鏡の奥で、どれだけエロいこと考えてんのか……俺には丸分かりだぜ。お前、理想論を語りながらさ……本当は、俺に暴かれたくてたまらねぇんだろ?」 心臓が、跳ねる。 「……うぬぼれるな、轟。俺は、お前という素材に惚れ込んでいるだけだ。最高の素材を使って、最高の作品を撮る。それが俺の唯一の欲求だ」 「へえ。……いいぜ。その『ビジネス』、乗ってやるよ」 レオは不敵に笑い、暁斗の手元にある契約書を指先で叩いた。 「ただし、条件だ」 「……なんだ」 「お前の望む『傑作』が撮れたら……次は、お前が俺の被写体になれ」 「……何?」 暁斗の喉が、かすかにこわばった。 レオは声を落とし、甘く、しかし残酷なトーンで囁く。 「俺が、お前のその綺麗な理想も、プライドも、全部まとめて俺の一物で引きずり出してやる。俺の前で、カメラの後ろに隠してるその『本性』を晒して、泣きながら啼かせてやるよ。……それが契約の、本当の『裏側』だ」 暁斗は絶句した。 本来なら、その場で席を立ち、この失礼な男との関わりを切るべきだった。 だが、暁斗の口から出た言葉は、自分でも驚くほど、熱を帯びていた。 「……いいだろう。お前が、俺の理性を超えるほどのパフォーマンスを見せられるというのなら、考えてやってもいい」 (……な、俺。今、何を言った……?) レオは、満足そうに目を細めた。 「交渉成立だな。楽しみにしてるぜ、監督。お前がいつまで、その安全なカメラの後ろでいられるか。……お前のその震える指先、最高に『画』になるぜ」 暁斗は震える手で契約書にサインをし、万年筆を置いた。 レオのギラギラとした視線が、すでに暁斗の黒いシャツを通り抜けて、そのナカの敏感な場所まで入り込んでいるような錯覚を覚える。 (……ただの契約だ。俺は監督で、あいつは道具だ。作品のためなら、どんな危険な橋でも渡る。……そう、すべては、作品のためだ) そう自分に言い聞かせる暁斗の耳元で、冷めたコーヒーの匂いと共に、レオの低い声がいつまでも残り続けた。 **** 不意に、コンコンと打ち合わせ室のドアが叩かれた。 暁斗は、弾かれたように顔を上げ、乱れた呼吸を整える。 「監督、お忘れ物です。……あの、大丈夫ですか? 顔が赤いですけど」 アシスタントの青年が、心配そうに暁斗を見つめている。 「……なんでもない。空調が効きすぎているだけだ」 暁斗は素っ気なく応じ、差し出された資料を受け取った。 「先に行け。俺は少し、ここで構成を練る」 「はい。失礼します」 スタッフが去り、再び静けさが訪れる。 暁斗は、机の上に置かれた自分の指先を見つめた。 あの日、契約書にサインした時と同じように、指先はかすかに、しかし確かに震えていた。 (……引きずり出してやる、か) 記憶の中だけのはずだった声が、耳元で生々しく蘇った。 暁斗は無意識に、自分の黒いワークシャツの首元を緩めた。 ボタンを外したわけでもないのに、そこが、ひどく熱く、窮屈に感じられた。 (……俺は、救いたいだけだ。男たちの本性を。……その中に、自分自身の姿を見ていたなんて、そんなこと……) 否定しようとすればするほど、レオのギラギラとした視線が、暁斗のナカでピントを合わせていく。 暁斗は眼鏡をかけ直し、モニターの電源を入れた。 映し出されたのは、最新の編集データ。 そこには、レンズ越しに自分を笑うように、牙を剥く轟レオの姿があった。 「……カットは、させないぞ」 暁斗は、独り言のように呟いた。 それが、映像の編集についてなのか、自分自身の崩れていく理性についてなのか、今の彼には、まだ判別がつかなかった。

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