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第1話

 俺は20歳のときにうなじを噛まれたらしい。  らしい、というのは、そのとき高熱で入院していて、意識がなかったからだ。  起きたら、うなじが痛かった。  その他に異変はなかった。  それでも、うなじにはくっきりと歯型が残った。  これを得られたのは、正直かなりラッキーだった。  だって、これのおかげで俺はこんなに自由なのだから。 *  昼休み。  俺は自席でうんと伸びをした。  途端に目に黒い前髪が入る。  そろそろ切らないといけないが、めんどくささが先だって美容室に行けていない。  俺は億劫に思いながら前髪を払った。  デスクの向こう側から部下が言う。 「藤堂さん、午後の商談資料送っておきました」 「おーう。さんきゅー」 「お相手、アルファがふたりらしいです。ご丁寧に、もしオメガがいるなら遠慮してほしいってメールが来てますけど、どうします?」  部下の言葉に、俺は苦笑する。 「人手不足だし、例外ってことで」 「わかりました」  事情を知る部下はくすくすと笑った。  藤堂 泰斗(とうどう たいと)、30歳。  主任で、趣味は海釣り。  まずまず充実した人生だ。  オメガとしては、このうえないほどに――。  人間には第2の性がある。  ひとつ目は生まれながらに持っていて、性器の形で男女に分ける。  第2の性は20歳頃に判明し、人間をアルファ、ベータ、オメガに分ける。  8割以上の人間はベータであり、ベータは第二性による特徴を持たない。  一方、アルファは抜きんでた才能を持つ者が多い。  そんなアルファはオメガと番う。  オメガは発情期と呼ばれる時期になるとフェロモンを発し、アルファを誘う。  アルファは伴侶を定めるとオメガのうなじを噛んで「番」として縛る。  番を得たオメガのフェロモンは他のアルファを誘惑しなくなり、同じくアルファは他のオメガのフェロモンの影響を受けなくなる。  一昔前はそんなオメガの発情を抑える抑制剤が出回り、オメガの社会進出が進んでいた。  しかし、その薬が人体に有害であると認められて禁薬となったのが30年前。  以来、保護の名目のもと、成熟したオメガ――一般に20歳以上――は就労と移動を制限されるようになった。  しかし、何事にも例外もある。  例えば、番となるアルファがいて発情フェロモンが他のアルファに影響を及ぼさない状態である、とかだ。 「いやぁ、20歳の時にうなじを噛まれておいて、よかったなぁ」 「藤堂さん、オメガの制限を受けたことがないんですもんね」 「俺はラッキーヒューマンなんだよ」 「なんですか、それ」  俺たちがにやにやとしていると、話を聞いていた部長が、丸めた書類で俺の頭をぽんと叩いた。 「ふつうは思い悩むところなんじゃないの~?」  俺は肩をすくめる。 「ほんとうに、誰が俺の番なのかさっぱりわからないんですから。思い悩んだって仕方ありません」  年若いオメガたちによると”色気がやばい”らしい部長は、片目をつむって悪い笑顔を向けて来る。 「じゃあフリーってことで、ボクが口説いちゃおうかな?」  俺は苦笑した。  彼に口説かれたらきっと後ろから知らないオメガに刺される。 「えー……部長じゃあ、ちょっと……」 「かわいくないねぇ~」  確かに、部長――北小路 先達(きたこうじ せんだつ)――のシャツの隙間から覗く鎖骨や、喉仏、とんでもなく長い脚なんかはセクシーなのかもしれない。  おまけに彼は仕事もできる。  噂によると、彼を一目見た番を持たないオメガは皆彼に惚れてしまうのだとか。  しかし、生まれてこのかたアルファのフェロモンを感知したこともなければ、アルファに惹かれたこともない俺は彼とはいたってふつうの部下と上司の関係を築いている。  部長が尋ねる。 「ほんと、ちゃんとした番、いらないの?」  俺は苦笑した。 「アルファの番がいたらいたで、大変らしいじゃないですか」 「まぁねぇ~。ボクだったら番のオメガを家から出せないかも~?」  俺はうなじの小さな歯型をなぞる。  思わず笑みがこぼれた。  これのおかげで、俺はこんなに自由だ。 「俺にはこれがあって、番がいない。いいところどりってやつですね」 「ほんと、かわいくないねぇ」  自分でも、そう思う。  午後、商談先に出向くと、2人の社員が待っていた。  ひとまず形式通りに彼らと名刺を交換する――はずだったが、そのうちひとりが名刺を差し出したまま硬直した。 「あの?」  彼は信じられない、といった様子だ。 「あなたは、オメガ……?」 「そうですが、俺には番がいるので、安心してください」 「番? 番がいて、こんなにフェロモンが……?」  慌ててカレンダーを確認する。  前回の発情期から考えるに、次の発情期はそろそろだ。しかし。 「匂います? おかしいな」  俺が言うと、硬直するその人物の隣から声があがる。 「私もアルファですが、匂いませんよ」 「ああ、よかった」  彼は硬直する人物の肩を叩く。 「すみませんね、彼、ちょっとオメガの匂いがわかりにくい体質なんですけど」 「……ふだんは、まったくわからないんです……」 「働きすぎかもしれませんね」  ふたりのやり取りを聞いて、俺は目を瞬かせた。  オメガの匂いがわからないアルファが、俺の匂いだけわかる……?  もしかして、と口を開く。 「あの、20歳くらいのとき、八王子の病院に入院したことありますか?」  それは俺がうなじを噛まれた場所だ。  彼は戸惑いながら頷く。 「……ええ。それが、なにか……?」 (ああ……)  俺は目を細めた。  そうか。このアルファだったのか。  貰ったばかりの名刺をちらと見る。  ――榎原 雅(えのはら みやび)。  その名前を口の中で繰り返す。  知りたかったような、知らないほうがよかったような。 「あの……?」 「いえ」  彼が何かを言ってくれるのではないかと期待して待つが、彼はこちらをぽかんと見るばかりだ。 (気が付かないのか? 俺のこと…) 「なんでもありません」  俺は感傷を断ち切り、平静を装った。 「では、商談をはじめましょうか」  商談がはじまっても、彼はずっと俺を見ている。 (そんなに熱心に見るなよ)  俺は淡々と資料を読み上げる。  彼も、入院していたということは、病気だったのだろうか。  俺が熱にうなされていたように、彼もまた前後不覚になって病院をさまよって――。  首筋に歯型が残った俺と違って、彼は自身がなにをしたのか、知るすべがなかったのだろうか。  ――いや、よそう。すべては推測だ。  彼を盗み見する。 (俺より、ちょっと年下、かな)  いまわかるのは、彼が俺の番の可能性があって、それに彼が気がついていない、ということだけだ。  このまま商談をまとめて、それでお別れ。  そうなるのが、お互いにとって一番いい。  でも――。 『飯でもどうですか?』  商談を終えて会社に戻ると、俺は彼の名刺に書かれていたアドレスにメールを送った。  送信ボタンを押すとき、少しだけ指が震えた。  でも、俺は押した。  俺がラッキーだと喜んでいた陰で、彼は苦しんでいたのかもしれない。  それはフェアじゃない。  彼がどう思っているのか知りたかった。  返事は、すぐに来た。 『ぜひ』  俺は深く息を吐いた。 「ラッキーもここまでか」  番を解消するためには、それ専用の注射を打てばいいんだったか。  簡単だ。  ただちょっと、俺が不便になるだけで。  俺はうなじに残る歯型を指でなぞった。  彼の返事次第では、これとお別れになる――。  それは少しだけ、寂しいことのように思えた。

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