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第19話
「部長……」
「ほら、雅くんがやっと動いたよ」
そう言って部長は雅たちのいる方を顎で示す。
つられてそちらを見ると、日向が握手を求めるように雅に右手を伸ばしていた。
雅は――差し出されたその手にゆっくりと手を伸ばして……。
「あ……」
思わず、俺は目を逸らす。
見たくなかった。
心臓がばくばくとうるさい。
雅のオメガ恐怖症が治ったら?
雅が日向を選んだら?
そんなの――。
「……」
俺は深く息を吐く。
――俺はいま、なにを考えた?
頭の奥がすっと冷えていく。
そうだ。
俺はもともと、雅と彼の父の関係を改善して、それから彼のオメガ恐怖症を治すまでと決めて番ごっこをはじめたんじゃないか。
なら、いまの状況は、喜ぶべきことだ。
首筋に残る歯型をそっと撫でる。
頭には、出会ってからの雅が次々と浮かんでは消えた。
神経質そうに眉を顰める顔、驚いた顔、喜んだ顔。
はにかむように笑う顔。
「藤堂、どうかした?」
「いえ、なにも」
「雅くん、ちゃんと日向くんに触れてるよ。いけるかも」
「……そうですか」
俺は首を振って、足元に視線を落とす。
落ち着け。
雅だぞ?
悪い奴ではないけど、神経質だし、ぎゃあぎゃあうるさいし。
そりゃあ、いいところもあるけど、雅をそういう相手として見たことなんてないだろ。
言い聞かせると、心臓は次第に通常の鼓動を取り戻していく。
そう。
それでいい。
しかし、俺が平静を取り戻して顔を上げたとき、視界に明るい茶色の髪が飛び込んで来た。
「泰斗さん!」
一瞬、なにが起きたのかわからなかった。
「……雅」
呆然と言ったあと、ようやく状況をのみこむ。
雅は日向の右手を引いて、ここまで走ってきたようだった。
彼も日向も肩で息をしている。
雅は日向から手を離すと、ぐらりと俺の胸に倒れこんできた。
「泰斗さん……」
とっさに彼の体を両手で支える。
俺より頭ひとつ分背の高い雅は、背を丸めて俺の肩に頭を預ける。
耳元で、雅の鼻がすん、と小さく鳴る。
「えっと」
困惑する俺に、日向が後ろから言い添える。
「榎原さん、具合が悪いみたいです」
「えっ」
雅を見る。
彼の頬は高揚して赤くなっている。
「ね、熱か?」
雅は首を振る。
「……あなた以外のオメガは、やっぱり怖くて」
そう言った雅の声は、どこかぎこちなかった。
「あ、ああ、大丈夫か?」
「……少し、このままで」
彼はこちらをちらと見た。
出発前のことを思うと、彼の顔色はずいぶんと良い気がしたが、俺は雅の背を撫でてやる。
雅は呼吸が整うのを待って、部長を見た。
「すみません、北小路さん」
彼は俺に身をあずけたまま言う。
「あなたの計画にお力になれず。水無瀬くんにはもっと別のふさわしいアルファを用意してください」
「……ふぅん」
部長が目を細める。
なにか含みのある顔だ。
俺が何かを問うより先に、雅が俺の首に頭を押し付けてきた。
「泰斗さん」
「み、雅?」
「連れて帰ってくれませんか」
彼は俺のマフラーに顔をうずめて、また鼻をすんと鳴らした。
俺は慌てて彼の体を支えなおすと、部長を振り返る。
「いいぞ。……ぶ、じゃなくて北小路さん、すみません、こいつ連れて帰りますね」
「んー……」
部長は俺たちをじっと見た後、顎を撫でて口角を上げた。
「藤堂」
背を向けて歩き出した俺の背中に、部長が声をかける。
「気を付けたほうがいいよ。アルファは犬じゃないけど、狼だからさ」
「はぁ……?」
「赤ずきんを食べる狼って、案外芝居がうまいんだよねぇ」
俺は振り返ろうとしたが、雅に腕を引っ張られる。
そのとき、ほんの一瞬だけ。
雅が、背後の北小路さんを見た。
その視線は、さっきまでの弱々しいものとは違っていた。
「泰斗さん、早く。僕たちの家に帰りましょう」
――僕たちの家?
一瞬だけ、その言葉が胸に残った。
しかし彼に促されるまま、一歩を踏み出す。
背後で、部長が笑った気がした。
日向の横を通り過ぎるとき、日向に会釈をされた。
「せっかく来てもらったのに、悪かったな」
俺が言うと、彼はにっこりと笑う。
「いいえ」
日向は、いわば雅に袖にされた形になったというのに。
「榎原さん、お大事に」
彼は雅に向かって胸のあたりで小さく手を振った。
俺の肩に頭を預けた雅が、それに応えて笑った気がした。
雅は俺にもたれ掛かったまま歩く。
俺は公園を出たところで尋ねる。
「雅、どうする、タクシー呼ぶか?」
「いえ、歩きます」
「……歩けるのか」
「オメガから距離をとったので、もう大丈夫なんです」
彼はそう言うと、姿勢を正して歩き出す。
「北小路さんのこと、悪かったな。こんな強引な方法をすると思ってなくて」
「いいですよ。泰斗さんのせいではありません。彼がどんな人なのか、十分わかりましたから」
しかし、数歩歩いたところで、彼はまた立ち止まる。
「雅?」
今日何度目かわからない呼びかけをすると、彼はゆっくりと振り返る。
雅は少し迷うように視線を落としたあと、ためらいながら口を開く。
「……手をつないでくれませんか」
そして俺に向けて手を伸ばす。
「ん? あ、ああ。まだ足元おぼつかないか?」
俺はその手をとる。
「雅、冷えてるなぁ」
俺はその手をそのまま俺のコートのポケットにつっこんでやる。
それをしてから、しまった、雅はこういうの嫌がるかもしれないと思ったが、意外にも彼はすんなりと受け入れた。
「……あなたはあったかいんですね」
「俺はもともと体温高いからな」
雅はゆっくりと目を閉じる。
歩き出す気配はない。
「雅?」
彼はつないだ手に力を入れる。
「泰斗さん」
「なんだよ」
「北小路さんとは手をつないだことはありますか」
予想外の言葉に、俺は目を丸くする。
「は? ないけど」
「そうですか」
雅はふっと笑うと、上機嫌になって歩き出した。
12月の東京駅。
イチョウ並木は葉を落とし、イルミネーションの飾りが施されている。
たくさんのカップルがその下を歩いている。
そこで手をつないでいる俺たちも、まるでカップルのようだ。
俺は先ほどの胸の痛みを思い出す。
雅が日向に手を伸ばすのを、見れなかった、見たくなかったあの痛み。
雅の手は次第にぬくもりを取り戻していく。
反対に、俺はあのときを思い出して手が冷えていく。
雅はしっかりした足取りで歩いている。
それでもどちらともなく手をつないだままでいた。
駅のホームまで来たとき、雅が俺の耳元で言った。
「泰斗さん。お願いがあるんですけど」
「なんだよ、改まって?」
「僕のオメガ恐怖症は、重症です」
「……そうみたいだな」
「だから、リハビリが必要だと思いませんか」
「リハビリ?」
「ええ。少しずつオメガに触れるリハビリです」
雅は俺をまっすぐに見据える。
「僕は、あなたになら触れます」
「ええっと?」
雅がぎゅっと俺の手を握る。
その手はもう熱いくらいだ。
「そのために」
雅は少しだけ目を伏せた。
「僕とこのままいっしょに暮してくれませんか」
「……それは」
俺は躊躇う。
もしあの胸の痛みを知らないままだったなら、俺はあっさり頷いただろう。
なんなら「任せておけ」と胸を張ったかもしれない。
でも、いまは、少しだけ不安があった。
あの胸の痛みに名前がついたとき、俺は俺のついた嘘につぶれてしまうかもしれない。
俺が沈黙すると、雅は懇願するように続けた。
「お願いします。いま僕が受け入れられるのはあなただけなんです。番ごっこだって、最初は僕のオメガ恐怖症を克服するのが目的のひとつでしたよね?」
雅が必死に言う。
彼にもらった自由を思う。
俺が返さなければならない恩、彼についた嘘。
そして、俺の胸の痛み。
俺は悩んで悩んで、結局――。
「いいけど」
つぶやくと、喜びと後悔が同時に押し寄せた。
これでいいのだろうか。
俺たちは、嘘に嘘を重ねて。ここまできた。
俺はまだ迷う。
でも。
「じゃあ、これからもよろしくお願いします」
いまは雅が嬉しそうなので、悩むのはひとまず後にしよう。
ホームにアナウンスが響くと、電車が滑り込んでくる。
「帰りましょう。――僕たちの家へ」
雅の言葉に、俺は頷いた。
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