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第20話(雅視点)
家に着くまで、泰斗さんは僕の手を握ってコートのポケットの中に入れてくれていた。
彼のポケットにはくしゃくしゃに丸めたレシートかなにかの紙くずが入っていた。
僕はそれに呆れつつも、彼らしいと思ってくすりと笑った。
家に着いてすぐ、僕は尋ねた。
「泰斗さん、今日は何食べたいですか」
彼は僕の額を弾く。
「馬鹿。体調悪いんだから、寝とけよ。夕飯は俺が作ってやるから」
「卵かけご飯は嫌です」
「贅沢者め。……肉うどんでいいか?」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
「すぐ食べるか?」
時計はまだ4時にもなっていない。
それでも僕は頷いた。
ひどく疲れていた。
コートをハンガーにかけて、ソファに座る。
泰斗さんのお気に入りのソファだ。
キッチンからは軽快な包丁の音が聞こえる。
まさか、自分がオメガと同居を望む日が来るとは。
僕は目を閉じた。
すると、僕の人生がゆっくりと瞼の裏に映し出された――。
「榎原家の跡取りなのだから」
それが父の口癖だった。
そして次に続く言葉はこうだ。
絶対に――。
完璧に――。
完全に――。
それらの言葉は僕を強くもしたし、積み重なって僕の重荷にもなった。
でも、恐れはなかった。
僕にはできる。
その自信が僕を前に進めていた。
その自信が揺らいだのは、20歳になって第2性の検査を受けたときだ。
周囲の予想通り、僕にはアルファの診断が下された。
しかし、僕はその診断が信じられなかった。
2年間悩んだ。
ひそかに病院にも言った。
しかし、状況が好転することはなかった。
そして、大学を卒業した日、ついに父にすべてを打ち明けた。
「オメガの匂いが、わからない……?」
父は信じられないといった顔で首を振る。
オメガは発情期が近づくとフェロモンを発し、その匂いでアルファを誘う。
しかし、僕はその匂いがわからなかった。
僕は2年間の葛藤を吐き出すように話した。
「第2性の検査を4回も受けました。それでも、僕はアルファだそうです。鼻も、どこも異常ありません。きっと、出来損ないのアルファなんです」
声が震えた。
それでも、もうこれ以上周囲を騙してすごすことなどできない。
僕は父をすがるように見上げた。
父に許してほしかった。それだけだった。
しかし。
「そんなはずはない。雅、お前は私の子どもなんだから」
父は僕が出来損ないであることを、ついに受け入れてはくれなかった。
父は次々とオメガを家につれてきた。
国の許可のもとそういうことを仕事としているオメガが中心だった。
彼らに体を触れられると、嫌悪感が体中を駆け巡った。
「情けない」
寝室から逃げ出し、庭で嘔吐した僕を見て、父はそう言った。
「すみません」
小さな声であやまる。
絶対に――。
完璧に――。
完全に――。
幼いころから掛けられていた言葉。
それがいまは怖い。
絶対でなくなった自分。
完璧でなくなった自分。
完全でなくなった自分。
父は、いまの僕にどんな言葉を掛けるのだろうか。
「はぁー……」
父は――小さくため息をついただけだった。
しかし、その失望が、どんな言葉より、痛い。
そうしたことを繰り返すうちに、僕は完全にオメガを受け入れられなくなった。
僕は、間違いなく、出来損ないのアルファだ。
僕は逃げ出すように家を出た。
子どもの頃は父の跡を継ごうとも考えたこともあったが、それは自分などにはできない夢物語だった。
僕は大学院に進学して、そのまま技術職を選んだ。
僕はもう父のようにはなれない。
父から逃げ回った。
父をこれ以上失望させるのが怖かった。
自分をここまで壊してしまった、オメガが、怖かった。
***
それから数年後、少し甘くて、どこか懐かしい匂いのする人と出会った。
名前は藤堂泰斗。
彼はオメガだった。
発情期が近かったのだろうか、僕は生まれてはじめてオメガの匂いをかいだ。
不思議と、恐怖心はなかった。
こんなことははじめてだった。
彼と接したのは、ほんの1時間にも満たなかったというのに、彼の匂いが頭にこびりついて離れなかった。
これがオメガの匂い。
これがオメガのフェロモン。
これがオメガ。
――それを欲するのが、アルファ。
僕のなかに、急にアルファとしての本能が首をもたげた。
僕はそれを何度も否定した。
僕のような出来損ないが望んではいけないことだ。
だから、彼から『飯でもどうですか』とメールが届いたとき、僕は動揺した。
彼に会いたい気持ちと、会ったら自分がまたオメガに壊されるのではないかという恐怖。
天秤は、前者に傾いた。
それにしても、番がいるというのに、アルファを食事に誘うなど、彼はなにを考えているのだろうか。
食事の席にやって来た彼からは、またいい匂いがした。
そして食事の最中に彼の番について聞き出した。
「藤堂さんの番さんは、どんな方なんですか」
僕が尋ねると、彼は眉間に皺を寄せた。
「んー…」
「踏み込んだ質問でしたら、すみません。正直、この業界でオメガが働いているのを見たことがなかったので……番さんは嫌がらないんですか?」
「雅はどう思う? 番が激務をこなすエンジニアだったら、嫌か?」
「僕ですか? 僕は、別にいいと思いますけど」
「なら、そういうことで」
なんとなく、彼の言葉には熱がこもっていないような気がした。
そう。まるで番ではなく、他人について話しているようだ。
「実はオメガが怖いんです」
これを打ち明けるには、勇気が必要だった。
自分が出来損ないのアルファだと公言しているようなものだ。
「オメガが、怖い?」
案の定、彼は目を丸くしている。
「はい」
「え、俺は? 俺もオメガだけど」
「僕は20歳のときにアルファと判明したのですが、オメガのフェロモンがわかったことがないんです。いろいろ治療したんですけど、どれも駄目で。でも、そんな僕を父は許してくれなくて。ある日、家にオメガの、その、そういう夜の仕事の人を呼んで、それで……。それから、オメガが怖くて……オメガ恐怖症とでもいうんでしょうか」
拳を握る。
彼はどんな反応をするだろうか。
出来損ないのアルファだと嗤うだろうか。
「でも、俺に会いにこれたじゃん」
彼はそう言って笑っただけだった。
それは落胆の言葉でも、励ましでも、同情でもなかった。
そのなんとも気の抜けた言葉で、僕は体から力が抜けていくのを感じた。
途端、よからぬ言葉が、また頭をよぎる。
――また会いたい。
僕は口を開いた。
「あの、またこうして会ってくれませんか」
手が震えた。
「リハビリってこと?」
「はい……すみません。番がいらっしゃるオメガに、とても失礼だと思うんですけど」
少し会話しただけだが、もうこの藤堂泰斗という人物がやさしい人物なのは明らかだ。
きっとこう言えば、彼は断らない。
「リハビリ」というのは、僕らしくない、卑怯な言葉だ。
しかし、僕はそれくらい切羽詰まっていた。
彼とつながった細い糸を、断ち切りたくなかったのだ。
僕の心にあるのはそれだけだった。
だから――。
「なぁ、俺と番ごっこをしてみないか?」
そう誘われるなど、まったく予想していなかった。
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