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第34話

 細川さんは彼が注文したのであろうホットコーヒーを片手に俺の隣に座ってきた。  突然の乱入者に、日向が尋ねる。 「あのすみません、その人、誰ですか」 「ああ、ええと、雅の家の……コンシェルジュの人なんだよ」 「細川と申します」 「わあ、榎原さんってお金持ちなんですね」  日向ははしゃぐが、俺はいまそれどころではない。 「細川さん、なぜここに……?」  俺が尋ねると、細川さんはふっと笑った。 「もうお気づきかと思いますが、奥方からあなたの首筋の噛み跡が妙だから、少しおふたりを見守ってほしいと頼まれておりまして」 「なるほど……」  細川さんは相変わらず柔和な笑みを浮かべている。  それを見て、背中を嫌な汗が伝っていく。  俺たちは互いに沈黙していた。  お互い、相手の出方をうかがっているようだ。  日向は俺たちを交互に見た後、気まずそうにひとくちオムライスを口に放り込んだ。  店員もただならぬ雰囲気の俺たちを遠くから見つめている。  先に口を開いたのは、細川さんだった。 「先ほどのお話に、僭越ながら少し意見を述べてもよろしいでしょうか?」  俺は顔をひきつらせる。 「どうぞ」 「……本来なら、私は口を出す立場ではないのですが。雅さんがあなたにだいぶ心を許しているようなので……。どうしても、彼を子どものころから見守っていた者として、一言」 「……はい」  細川さんはテーブルを指ではじいた。 「どういう経緯でおふたりの番が成立したのか、どちらが責を負うべきなのか、これはわかりません」 「……はい」 「ですが、のちに再会したときに、あなたは自身が知っている情報を隠蔽して雅さんに番ごっことやらを提案したということですよね」 「……そうなりますね」 「なら、それは悪いことです。契約をするにあたって、片方だけが情報を持っているのはフェアではありません」  ――フェアではない。  その言葉が、胸に重くのしかかる。 「あげくに、あなたはその契約の最中に契約を一方的に放棄して逃げてきた、と」  俺は反論する。  番ごっこを持ち掛けたのは俺の罪だが、いま逃げ出したのは――。 「でも、それは雅のためなんですよ。俺の匂いが雅を……」 「そう雅さんがおっしゃったんですか。あなたの匂いに狂わされているから、どこかへ消えてくれ、と」  言葉につまる。  「でも」と言いかけるが、口をつぐむ。  続く言葉が思いつかなかった。  淡々と、細川さんは続ける。 「あなたは結局のところ、雅さんにそう直接言われて傷つくのが嫌で逃げてきたんでしょう」  心臓が跳ねる。  それは、それは――図星だった。  俺が直視しないようにしてきた、俺の本心だ。  細川さんは俺の心を見透かすように目を細める。 「あなたはフェアではない契約を持ち掛けたあげく、契約を途中で放棄してきて、無責任かつ自己中心的な行動をとっているということです」 「……でも!」  俺は反駁した。 「俺だって、頑張ってきたんです! 雅と聖さんの関係をよくして、それから……オメガ恐怖症だって治してやろうと……!」 「雅さんのオメガ恐怖症は治っていませんよね。それに、今回のことでオメガどころか人間不信になったらどう責任をとるおつもりですか」 「それはっ……!」 「あなたがいまやっていることはただの自己防衛です」 「……!」  ――そんなこと、考えたことがなかった。  雅。  いつでも誠実な雅。  俺に振り回されて、あげくに裏切られて……。  彼は、いまどう思っているだろうか。  泣いているだろうか。  雅は――。  あの置き手紙を読んで、どう思っただろう。  ……今さら、雅の心を想った。  ほんとうに、いまさらだ。 「……すみません」  俺はうなだれる。  俺は自分が思っていたよりもずっと、いい人間ではないらしい。  細川さんの声音は冷たい。 「私に謝られても困ります」 「……はい」  また沈黙が落ちた。  細川さんは腕を組んで、俺は顔を伏せて。  ぴんと張り詰めた空気に、息を吸うのもしんどい。  次に口を開いたのは、それまでずっと黙っていた日向だった。 「待ってください」  彼は小首を傾げる。 「嘘をついて番ごっこをしたのが悪いっていう話、ですよね」  細川さんが尋ねる。 「あなたは?」 「私は通りすがりのオメガです。一応、榎原さんとは盟友です」 「はぁ」  日向は迷いなく言う。 「榎原さんも嘘をついてますよ」  その言葉に、俺も細川さんも、目を丸くした。 「……嘘?」  日向は頷く。 「榎原さんのオメガ恐怖症はもう治っているんです。なのに、治ってないと嘘をついてます」  俺は目を丸くした。 「え? なんで……?」 「オメガ恐怖症が治ったら……治ったら、続ける理由がなくなるじゃないですか。あとは自分で考えてください」  日向は少しだけ言葉を濁した。  俺は膝の上で拳を握る。  つまり、雅が、俺との番ごっこを続けるために嘘をついたということだろうか。  それはつまり――。  日向は細川さんにまっすぐに向き直る。 「細川さん、藤堂さんが嘘をついて番ごっこをはじめたのが悪いというなら、嘘をついて番ごっこを続けた榎原さんはどうなるんですか」  たっぷり二拍。  細川さんは日向の言ったことを吟味するように沈黙した。 「……そうですか」  そして一度頷くと、彼はさっと立ち上がった。 「そういうことなら、今日聞いたことは一度忘れます」  俺は彼をまじまじと見る。 「いいんですか……? ええと、俺……」  困惑する俺に、彼はさらりと言う。 「今日は、あくまで個人的にあなたをつけて来ただけですので」 「へ」 「私、金土祝休みです」 「はぁ……?」  そういえば、今日は土曜日だ。  彼はいま仕事中ではないということで。 「つまり、黙っていてくれる、ってことですかね」  彼は念を押す。 「ひと月だけ黙っておきます。奥様にはひと月後に調査の結果を報告するとお伝えしていますから」 「ひと月……? ……注射なら、1週間くらいでできると……」 「そちらのスケジュールに合わせるためではありません」  彼は言い切る。 「雅さんのためです」 「雅……?」  彼はくすりと笑う。 「雅さんを見くびらないほうがいいですよ。いずれ龍になる子です。あなたの想像なんて、軽く超えてきます」  そう言って、細川さんは店から出て行った。  俺は呆然とその背中を見送った。

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