40 / 40

第40話

 翌朝起きたら、もう雅はキッチンに立っていた。  彼の手元を覗き込む。 「フレンチトーストか、うまそう」  食欲をそそる、甘い匂い。  雅は笑う。 「泰斗さん、パン派ですからね」 「……ああ、それは……」  実は米派なんだよ、と言いかけて、俺は言葉を飲み込んだ。 「いや、そうかも。俺、パン派かも」 「なんですか、それ」 「嘘から出た誠ってことだよ」  雅が毎日フレンチを作ってくれるおかげで、いまではすっかりパン派だ。  完成したそれを皿に盛って、ダイニングへ行く。  ダイニングテーブルには、サラダ、フルーツ、ヨーグルト、おまけにはちみつまで用意されている。  俺が作る朝食とは大違いだ。 「いただきます」  ナイフで切り分けて口に運ぶと、バターの香りが鼻に抜ける。 「うまっ」 「それはよかった」  雅はゆっくりとコーヒーを飲んでいる。  なんてことない、いつもの朝だ。  違うのは、雅がこちらを見る目が甘いことと、俺の足腰に力が入りにくいことくらいだ。  窓の外を見ると、うっすらと雪が残っている。  外は寒いだろうに、俺たちを取り巻く空気は、どこかぽかぽかしていて――あたたかい。  俺は照れ隠しに頬を掻いて、雅が淹れてくれた紅茶を一気に飲み干した。  フレンチトーストを半分ほど食べすすめたところで、俺は尋ねた。 「そういえば、なんでお前、俺の実家の場所がわかったんだよ」 「細川さんが連絡をくれたんです」 「……ああ」  あの人、いつまで俺のことをつけていたんだろうか。  知りたいような、知りたくないような。  雅は肩をすくめる。 「でも、最寄り駅だけですよ。教えてもらったのは。あとは自分で探しなさいって細川さんに言われました」 「はぁ……」 「でも、駅で降りたら……すぐにわかりました。匂いがしたので」 「……匂い」  発情期のオメガが放つ、アルファを誘う匂い。  それを頼りに、雅は俺を見つけてくれた。 「オメガってのも、やっぱり悪くないな」  俺が笑うと、雅も笑った。 「その匂いって、いまもすんの?」 「します」  俺は首を捻る。 「なんで発情期以外でも匂うんだ……?」  対照的に、雅はとろけるように笑う。 「いい匂いですよ――それを僕が独占できるだなんて、最高です」 「……そっか」 「そうですよ」  雅は幸せそうだ。  彼はゆっくりとフォークを置く。 「泰斗さん」  そして、俺の手に手を重ねる。 「結婚してくれますか」  彼が差し出したのは、銀色に光る――指輪だった。  俺は目を丸くした。 「びっくりした。……心臓が飛び出そう」 「……そんなにですか?」 「ああ。あの堅物の雅が。プロポーズは夜景の見えるディナーでしかしないものかと」 「……相手に合わせる、ということを学んだのです。ディナーがご希望なら、やり直しますけど」 「いや」  俺はその指輪を受け取る。 「最高のプロポーズだ」  俺の左の薬指に、それはぴったりだった。  それから、ずっと雅とくっついていた。  ソファに座って、隣の雅にもたれ掛かって、だらだらとテレビを見る。  クリスマスを終えて、世間は今度は一気にお正月ムードだ。  来年はいっしょに初詣に行こう、とか。  カップルらしい会話をした。  そうして過ごしていると、俺のスマートフォンが鳴った。 「泰斗さん、鳴ってますよ」 「んー……」  液晶には「八王子病院」の表示がある。  俺は飛び起きて自室に駆け込み通話ボタンを押した。 『藤堂泰斗さんのお電話でお間違いないですか?』 「はい」 『依頼されていた注射ですけど、28日に完成しそうです』 「ああ……はい。ええと」 『どうかされましたか?』 「その、やっぱり……注射、しないことにして」 『そうですか。その場合、廃棄にも同意が必要ですので、一度来院をお願いします』 「はい。では、ええと、28日に行きます」  予約を取って電話を切る。  なんとなく、頬が赤くなる。  そうか。  俺と雅は、正式に番になったのだ。  その事実を、ゆっくりと噛み締める。  昨日噛まれたうなじが、じんじんした。  リビングに戻ると、雅が尋ねてきた。 「なんの電話でしたか? 仕事の電話ですか?」 「んーまぁ……」  俺が言葉を濁すと、雅が眉をつり上げた。 「まさか、また北小路……」 「違うって。お前、部長のこと、悪く思いすぎだぞ」  そんなに悪い人ではないのに。  雅は手を叩く。 「そうだ。北小路には水無瀬くんを勧めておいてくださいよ」 「え? なんで? どういうことだ?」  目を丸くする俺に、雅はしれっと言う。 「そういうことです」 「そういう、こと?」 「はい」  俺が詳しく問うより先に、雅が話題を戻す。 「それで? 何の電話だったんです?」  観念して、俺はもごもごと答える。 「ええと、その、注射……?」 「注射?」 「その、番解消の……」  ――このときの雅の顔を、俺は生涯忘れないだろう。 *  28日、俺はいいと言い張ったのに、雅は病院までついてきた。  俺が受付で注射の破棄について相談していると、後ろから肩を叩かれた。 「注射、破棄すると聞きました。なにかありましたか?」 「あ……」  ふりかえると、そこには例の医者がいた。  俺は横に立っている雅を見て、それから医者に向き直る。 「その、紹介します。こっちが、榎原雅です。昔、俺のうなじを噛んだアルファで……俺の番になることになって」  雅が頭を下げる。 「はじめまして」  医者はそんな雅をまじまじと見て、ぽつりと言う。 「ああ、注射がいらなくなったのは……そういう、こと?」 「……はい」  なんだか照れ臭い。  しかし、彼はずっと俺の心配をしてくれていた。  こうした報告ができるのは、嬉しい。  俺がもじもじとしていると、医者は「そういえば」と切り出した。 「あれから、いろいろと調べたのですが」 「え?」 「発情期でないオメガの匂いがわかる、という件です」 「ああ」  そういえば、彼は調べておいてくれると言っていたか。  彼は続ける。 「いまオメガの抑制剤の治験をはじめているのですが、まったく効果が出ないパターンがあるとかで」 「ええと……」 「遺伝子的に相性のいいアルファとオメガがいるということがわかったのです。たとえ抑制剤を服用していたとしても、相性のいいアルファはオメガの匂いを感知するようです」 「……相性」 「しかもね、その場合、発情期前の、一般的にはもう匂いが収まっているはずの時期にもオメガの匂いを感知するみたいで」 「……」 「一部の医者は、その現象をもう医療では説明できない、まさに【運命の番】と呼んでいるんですよ」 「……へぇ」  俺は笑う。 「でも、俺たちは運命なんてものじゃないんですよ」  俺たちは、自分で選んだのだから。  病院を出ると、俺たちはその足で東京駅に向かった。  東京駅、16番ホーム。  切符は名古屋までだ。  俺はうんと伸びをした。 「ほんじゃあ、行くかね。雅のご実家」 「そうですね。きっと細川さんから報告が入ってるはずです」  1泊2日の予定だというのに、雅は相変わらず馬鹿でかいスーツケースを引いている。  俺はといえば、前回の反省を踏まえてリュックに着替えが入っている。  雅は少しだけそわそわしている。 「両親に、最初に何て言いますか?」 「そんなの、決まってるだろ」  俺はそんな雅の緊張をほぐすように、軽口を叩く。 「ラブラブになりました、だ」 「なんですか、それ」 「雅は立派な龍になりました、でもいいぞ」 「もう、真面目に考えてくださいよ!」 「真面目だよ、大真面目。殴られるくらいの覚悟を決めてきた」  俺は頬を撫でる。  嘘をついていたのだから、それくらいやられても仕方がない。  雅は胸を張る。 「そうなったら、僕が守ります」 「ほんとかよ」 「信じてくださいよ」  雅の目はゆるがない。  俺は頬を掻いた。 「なんですか」 「ん? いやぁ……」  俺はゆるむ口元をとめられなかった。 「あの雅が、立派になっちゃって、って思って」 「……そうですね。父に怯えていた僕はもういません」  雅が、俺の手にそっと触れる。  年末年始。  ホームには人があふれている。  俺たちは一瞬だけ唇を重ねた。 「愛してます」 「ん」    新幹線の到着を告げるアナウンスが聞こえる。  俺たちは一歩踏み出した。

ともだちにシェアしよう!