16 / 20

第16話

 バートンの邸宅に引き取られて三カ月目、ルーカスに物理学を教える家庭教師がついた。ルーカスは週に三回その先生から授業を受けた。勉強はルーカスの生活に活力を与えてくれた。  そしてその日は、さらにルーカスの生活に変化が起きる日であった。いよいよカルヴァ大学に行くのである。  ルーカスは朝食を済ませると、車に乗り込んだ。いつものように隣にはロイが座る。  ルーカスは朝から落ち着かなかった。ルーカスがこのようにしているのにはふたつの理由がある。ひとつは高揚だ。中等学校を途中で退学した自分がカントット国の最高学府に足を踏み入れようとしているのだ。彼の高揚をひとことで言い表すことはできないだろう。  そしてもうひとつの理由は緊張だ。今日ルーカスは父に哲学を教えていたという教授と会う予定なのだ。  ルーカスが待ち望んだ、父とバートンの関係性を知る手がかりである。ルーカスは意味もなく車の中で何度も鞄を開けたり閉めたりを繰り返した。 「もし、忘れ物がありましたら、私が取りに戻りますよ」  何度目かにルーカスが鞄を開けた時、ロイはそう言った。ルーカスは緊張している自分を言い当てられた気分になって、顔を伏せた。 「すみません」 「いえ……どうかご安心なさってください。なにかあればバートン様にご相談なさればよろしいのですから」 「はい」  使用人はダン帝国人の青い目をこちらに向けている。ルーカスはその青が孕んでいるやさしさがほんものであることを信じ始めていた。  ルーカスは言った。 「今日は挨拶だけですもんね。学長先生に会って、説明を受けて、父に教えていた教授に会って……それで終わり」  使用人は「ええ」と頷く。  ルーカスは深呼吸をした。  学長先生は恰幅のいい妙齢のダン帝国人だった。ダン帝国人らしい青い瞳、髪は年齢のため白くなっている。そしてたっぷりとした顎髭を生やしている。  彼はダン帝国のとある大学の学長を務めていたが、終戦後に招聘されたのである。  彼の目は爛々と輝き、まさに辣腕という異名にふさわしい雰囲気をまとっていた。彼はカルヴァ大学の改革を行っている最中であり、バートンはその最高の支援者である。  彼は校門で年若いルーカスを出迎えると丁寧に腰を折った。 「学長を務めております、バーネットと申します」  ルーカスも慌てて腰を折る。 「ルーカス・ノウです」 「おや」と学長は眉をあげた。 「バートン総司令官のご子息だと伺っておりますが」  ルーカスは少し首をかしげ、それから彼が名前のことを言っているのだと気が付いた。  バートンの子息を名乗ってやってきたルーカスが、なぜルーカス・ハヴォックと名乗らないのか。学長の疑問はもっともであるが、ルーカスにはそれをうまく説明できそうもない。 「えと、その」  ルーカスが戸惑っていると、使用人が進み出た。 「まだ正式に親子となっていないのです。戸籍の処理が終わっておりませんので」  学長はたっぷりある顎髭を撫でながら頷いた。 「ああ、そうでしたか。それは失礼を。私が確認いたしましたのは、学籍簿にお名前を載せる必要がありまして。いかがなさいましょう? もう変えておかれますか? ルーカス・ハヴォックと」 「あ……」  ルーカスは言葉を失った。  カントット国とダン帝国では名前の付け方が異なっている。  ダン帝国は個人の名前の後ろに家族の名前がくるのに対し、カントット国では個人の名前の後ろに父の名前がくる。  ルーカスはノウの子であるのでルーカス・ノウなのだ。それを変えられることは父の存在を否定されたように感じる。  ルーカスが答えられないでいると、使用人が口を開いた。 「学長殿、お気遣い痛み入ります。学内ではダン帝国風の名前を名乗る方がよいのでしょうか」 「そちらの方が都合がよろしいかと思います。学内にはダン帝国軍人の子弟もおりますのでね。交流するにはいい機会です」 「ははあ、なるほど。坊ちゃん、いかがなさいますか」  ルーカスは考える。ルーカス・ハヴォックと名乗る自分を想像する。それは自分ではないなにか別の生き物であるように感じた。 「……ぼ、僕は……その……この名前のままで……」  ルーカスがそう言うと、学長は頷き、書類に何事かを書き留めた。それから背筋を伸ばすと、改めて言った。 「では、さっそくではありますが、学内を案内いたします。その後、学長室へご案内いたします。聴講生の登録はその時に」 「学長先生が案内してくださるのですか?」 「ええ。ぜひ、ルーカス様にはカルヴァ大学をご覧いただき、バートン様によいご報告をお願いします」 「ええと……」  ルーカスはまごつく。学長はルーカスのことを「ルーカス様」と呼ぶ。  どういう態度で学長と相対すればいいのかわからなかった。  困り顔のルーカスをよそに、学長は使用人に言った。 「使用人の方はここまでで」 「はい」  使用人は当然のように頷く。ルーカスは驚く。 「え!?」 「大学構内に付き人は入れません」 「そうなんですね……」 「もしご不安なら、特例ということで……」  学長の言葉を最後まで聞かず、ルーカスは両手と首を激しく振った。 「だっ、大丈夫です! 僕、大丈夫です」 「そうですか」  ルーカスと学長は連れ立って歩き出した。  カルヴァ大学は首都カルヴァの南に本部を置く国立大学である。  創立は古く、いまから220年前に最初は王族や貴族たちの子弟のために作られ、やがて庶民の秀才にも門戸が開かれた。  10の学科が置かれ、戦前はαを多く受け入れ国の学術研究の中心地となっている。  戦争が終結した今はカルヴァに駐屯しているダン帝国士官や外交官、行政官の子弟と入試によって選抜されたカントット人を受け入れており、カントット国の貴族については入学を保留にしている状態であった。  ルーカスは学長とともに広大な敷地を歩いてまわった。 「学生たちは勉強熱心で、私も腕が鳴るというものです」  彼は案内の最後にそう言い添えた。大学の敷地は広く、また緑豊かで、そこを行き来する若者は皆賢そうな顔つきをしていた。ルーカスは彼らを見てまったく自信をなくしてしまった。 「不安です。ついていけるかどうか」  ルーカスがぽつりと言うと、学長先生は豪快に笑い飛ばした。 「大丈夫ですよ。学ぶ意思のある者に門は開かれるのです。どうか、お父君にも学生たちのがんばりをよろしくお伝えください」  ルーカスは苦笑した。決してルーカスはバートンの代理として視察に来たわけではないのだが、まるでそのような扱いを受けている。  ルーカスは学長先生に礼を述べて別れた。  次は父に教えていたという教授に会いに行くのだ。  教授がいるという研究棟へと向かう道すがら、ひとりの学生がルーカスに声をかけた。 「やあ」  話しかけてくれたのはルーカスと同じく黒髪黒目の――カントット人の外見の――青年であった。 「見ない顔だね」 「え、あ、ああ……えっと、今日から入学で……」  ルーカスがあたふたしながら答えると、相手はぐっと顔を近づけて声を落として尋ねた。 「試験を受けていないよね?」 「あ…………その、ダン帝国の人に……入学できるようにしてもらって……」  ルーカスの声はしぼんでいった。相手の青年は眼鏡をかけ、切れ長の目でこちらを観察している。ルーカスはすっかり尻込みしてしまっていた。  眼鏡の青年はさらに尋ねる。 「誰の後ろ盾だい?」 「え、あ……?」  どういう意味、と問うより先に青年が答えた。 「俺はカミリア中尉が後ろ盾さ」 「え?」 「姉さんがね、うまくやってカミリア中尉といい仲なのさ。それで、俺もここに」  ここまで聞いて、ルーカスはようやく「後ろ盾」が指し示す意味を理解した。後ろ盾――試験を受けないカントット人がカルヴァ大学に入学するために手助けした人物。  青年はルーカスに返答を促す。 「で? 君は?」  ルーカスは答えに窮した。ここでバートンの名を出してよいものかどうか判断できなかったのだ。ルーカスがまごついていると、相手はぱっと身を引いた。 「ま、誰だっていいや。俺たちははみだし者なんだ仲良くやろう」  ルーカスは尋ねた。 「はみだし者って?」  青年は答える。 「大学には3つの派閥があるんだよ。ひとつは正規の試験ではいってきたカントット人、次はダン帝国の子弟、そして、俺たちみたいなダン帝国の軍人にひいきにしてもらっているカントット人さ。カントット人には売国奴とののしられ、ダン帝国子弟にはしっぽを振る犬だと思われている。まあ、事実そうさ。贔屓にしてくれているダン帝国人を怒らせたら俺たちなんて明日には浮浪者の仲間入りする可能性があるんだ。慎重に、うまくやろうぜ?」  そう言って、青年はルーカスに握手を求めた。 「ケイ・タムだ。ここでもう1年ほど聴講生をやっている」 「あ……えと…ルーカス・ノウです。なんで、僕が試験を受けていないってわかったんですか?」 「このご時世、あんな車で乗り付けてくるカントット人なんていないんだよ。いるとしたら、俺たちのお仲間さ」 「そっか……」 「どの講義を受ける予定だ?」 「……哲学……」 「哲学なら俺も受ける予定だ。今日は帰るのか? このあと、少し話せるか?」 「いえ、ちょっと、約束があって……教授のところに……」  ルーカスは逃げるようにその場をあとにした。

ともだちにシェアしよう!