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第17話
ノウとバートンに哲学を教えていたという教授はその名をソンク・ニットというらしかった。ルーカスは広い研究室棟の中から「ソンク・ニット」と表札を掲げた部屋を見つけ出すと、恐る恐るノックした。
少しすると扉が開き、中から老人が顔を出した。
老人は髪が白くなったカントット人である。ルーカスが「ソンク・ニット教授ですか?」と尋ねると、彼は矍鑠とした様子で頷いた。
バートンからすでに連絡を受け取っているらしいソンク教授は「君がここの学生になるというなら、たとえ誰の息子であったとしても私は敬語を使わないけれども、それでよいのなら入りなさい」と切り出した。
ルーカスはもとよりそのつもりだったので、頷いた。
「はい。その、僕、そっちの方が、ありがたいです」
教授は扉を大きく開いた。彼の研究室は白を基調とした部屋である。壁の両側には天井にまで届く大きな本棚があり、真ん中には革張りのソファが2つ、木のテーブルをはさんで置いてあった。教授はルーカスに座るよう促した。
ルーカスが入り口側のソファに腰かけると、彼はぶつぶつとひとりごとのように話し始めた。
「ノウのことを聞きに来たのだったな……ああ、よく覚えている。少し病弱なきらいはあったが……優秀な学生だった……教え子の死はいつでも無念だ」
教授は、そう言いながらルーカスにお茶を出した。彼の声はしわがれ、手は木の幹のように硬く、ひび割れている。しかし、本棚に並んだ多くの本が彼の知的好奇心は老いていないことをさし示していた。
ルーカスは尋ねた。
「どうして父が大学を辞めたのか知っていますか?」
「さて。急なことだった、としか」
教授はルーカスの前に座ると、目を細めて話し出す。
「もうそれは、それは、驚いたよ。何か悪いことに巻き込まれたんじゃないかと……慌ててノウくんの実家に手紙を書いたよ。当時はね、連絡する手段というのがそんなにある時代ではなかったし。返事は来なかったね」
ルーカスは落胆する。
しかし、訊きたいことの本命はそれではない。
気を取り直して質問をする。
「あの……バートンさんと、父は……教授から見て……どのような関係に見えましたか? その、恋人に、見えましたか?」
勇気を出してルーカスが尋ねると、教授は少しだけ首を傾げた。
「なぜ私にその質問を?」
「あ……えっと、その……」
ルーカスはうまく説明できない。自分がバートンの子ではない可能性を探っているのだ、とは言いにくい。
「まあ、いいだろう。2人は、仲は悪くなかったよ。あるときから急に隣に座って講義を受けるようになってね。ノウがΩであることを隠していなかったら、恋人だと思ったかもしれない」
沈黙が落ちた。
教授は湯呑を二度すすった。
研究棟の外では講義開始を告げる鐘が鳴った。
ルーカスは膝の上で左手の甲に爪を立てた。ルーカスが望んだ回答ではなかった。
――そっかぁ……。
ルーカスの心に失望に似た感情が広がる。いや、実際に自分がバートンの息子であるなら、喜ぶべきだろう。金に、名誉に、権力。バートンはすべてを持っている。そんな男のひとり息子。栄誉なことだろう。
しかし、ルーカスは落胆していた。
脳裏には美しいバートンの横顔が浮かんだ。彼がルーカスを抱き上げてくれた時の匂い、柔らかな笑み。
ルーカスは胸が苦しくなった。
ルーカスの心を知らないソンク教授はゆっくりと話し始めた。
「……バートンくん……ああ、いまはバートン総司令官か。彼がこの春にやって来たときも驚いたよ。まさか総司令官になって戻って来るとはねぇ。しかも、ノウくんを探していると言うじゃないか。……私がノウくんがマイトレの近くの村に住んでいると教えてあげたんだよ。そして君の存在も伝えたら、司令官が「私の子だ」なんておっしゃるもんだから、また驚いたよ。……まさか総司令官の子だとは……」
教授の回顧を聞いて、ルーカスは目を丸くした。
「僕のことを知っていたんですか?」
「ファンくんから聞いていたからね」
「ファン?」
「ファン・リーくん」
ファン・リー。ルーカスはその名前を舌の上で転がした。ルーカスはその名前を知っているような気がした。ルーカスがそれを思い出すのを待たず、教授は話し続けた。
「ファンくんはノウくんと総司令官の同級生だ。彼がね、終戦後に私に手紙をよこしたんだ。これから大変な時代になるから、ノウくんに短剣をくれてやってくれと」
「短剣?」
「うん。ほら、これ」
そう言って、教授は木箱を取り出した。
年季の入った箱をあけると、中から黒い短剣が出てきた。
教授がその短剣の柄の金色を見せて説明する。
「ファンくんから預かったんだ。ノウくんに、と。売ればそこそこの金になる。送ってやりたかったが、郵便は混乱していたし、それに……これを持っていることが君にとっていいことかどうかわからなくて……遅くなってしまった」
ルーカスはじっとその短剣を見た。
柄は金色で、複雑な模様が彫られている。鞘には貝が人魚の形を模して象嵌されていた。装飾が多く、実用というよりも鑑賞を目的に作られた剣だ。
ルーカスは首を振った。
「これを貰う理由がわかりません。父は死んでしまいましたし」
「ファンくんはノウくんと君に、と言っていた。彼は君のことも気に掛けていたよ」
ルーカスはまた驚いた。
「気に掛ける……? 僕を?」
「ノウくんとファンくんは親しくしていたから、何かしら事情を知っていたのかもしれないね」
そう言われて、ようやくルーカスはその短剣を手に取った。短剣はずっしりと重い。
ファン・リー。
ルーカスはまたその名を舌の上で転がす。父と親しくしていて、事情を知っているかもしれない人物。
ルーカスは顔をあげた。
「その人はいまどこにいますか? 会いたいです」
ニット教授は眉根をきゅっと寄せて、声を落とした。
「なかなか難しい時代だから……会うのは難しい……」
「そうなんですか……」
ルーカスはそれ以上訊くことができなかった。終戦間もない今、出兵した兵士の復員もまだ終わっていない。人の所在を問うことの難しさをルーカスはよく知っていた。
教授はお茶をすすったあと、ソファに凭れて天井を見上げた。
「それにしても、ノウくんがΩか……」
Ω。その言葉に背中に冷たいものが走る。ルーカスはゆっくりと顔をあげ、教授を見て尋ねた。
「……劣等種だと、思いますか」
教授は首を振った。
「いやいや、そうは思わない。αβΩという第二の性の本質は優劣のためではないだろう」
「本質……?」
「ああ、そうだ。それはけっこういい教材だ。――『第二の性の本質は何なのか』それを哲学講義の君の試験問題にしよう」
ルーカスは彼の言う意味がよくわからなかった。ただ、何か大切なことを言われた気がした。ルーカスはただ善良な学生らしく頷いた。
「……はい」
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