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第25話
その次の日、ルーカスが目を覚まして窓を開けたら、どんよりと曇った空が見えた。中庭では使用人たちが木に添え木をしたり、鉢植えを部屋に運び入れたりと忙しそうに働いている。ルーカスが首を傾げて彼らを見ていると、ロイがやってきて「嵐がくるそうですよ」と言った。
秋の終わりを告げる嵐である。一年中比較的気候が穏やかなカントット国であるが、秋の終わりは激しい雨が降るのである。
そして雨が止むと、風が冷たくなり冬の足音が聞こえ始めるはずだ。
「あれ」
庭の奥に、車が3台停まっていることに気が付いた。1台はいつもルーカスが乗るアーモンドの形をした車、もう1台は上級使用人が何かの使いのときに乗る車、そしてもう1台はバートンが使う車だ。いつもは2台しか停まっていないそこに、今日は珍しくバートンの車が停まっているのだ。
これは珍しいことだ。
ルーカスはロイに尋ねた。
「もしかして、バートンさんって、今日、お仕事お休みですか?」
「ええ」
使用人の返事を聞いて、ルーカスは喜んだ。
「会いに行ってもいいと思いますか?」
しかし、使用人は渋い顔だ。
「……実は、体調を崩されていまして」
「え?」
「医者を呼んで休まれていらっしゃいます。坊ちゃんも、温かくして今日は早く眠りましょう。お体を冷やしては大変です」
ルーカスは肩を落とした。バートンに会いたい気分だった。しかし、彼は「はい」と従順に答えて、ゆっくりと窓を閉めた。
昼前には雨が降り始めた。
ルーカスは長椅子に横になりながらその音を聞いていた。はじめはやわらかい音であったそれは、やがて激しい音となった。風を伴って不規則に窓を叩くその音はルーカスの頭を空にしていった。そして空になった頭にケイの言葉が響いた。
――羨ましいよ。大事にされているんだな。
この言葉を聞いたとき、ルーカスの心にはよぎったのは優越感だった。
カントット人には食べられない食事、きれいな衣服、恭しい使用人、そして学問。すべてはバートンの子だから与えられたものだ。
しかし、それに優越感を抱くのは、ルーカスの心と乖離しているはずだ。
「大事にされてはいるけど、違うんだよ。そういう風に大事にされたいんじゃないんだ」
ルーカスはケイの言葉を否定する。大事にされていないわけではないが、ケイが思うバートンの「大事」はルーカスの希望する「大事」とは異なっている。
ルーカスの心は内側からルーカスの感情によって焦がされている。
ルーカスはわかっていたのだ。バートンがルーカスを大事にしてくれるのは、ルーカスがバートンの子だからだ。ルーカスだからではない。わかっている。わかっているからこそ、自分の胸の奥でひっそりと燃えている恋が目障りだった。消えてしまえばいいのにと思えば思うほど、炎は存在感を増した。
ルーカスはきっと自分が前世で悪いことをしたのだろうと思った。
そうでなければ、父を名乗る人物に恋に落ちるなど、尋常のことではない。
いや。
「僕はバートンさんの子どもじゃない」
自分にそう言い聞かせる。まだ決まったことではない。バートンが一方的に主張しているだけだ。証拠などない。しかし、もはやそう思っているのは自分だけかもしれない。もしかしたら、そのうちダン帝国人として市民権を得ることになるかもしれない。
そこまで考えて、ルーカスは激しく頭を掻きむしった。
バートンの子ではないと言うのに、与えられた贅沢を享受しているのはなぜだ。
カントット人たちの非難の声が聞こえる気がした。
ルーカスの思考はぐるぐると回ってどんどん下へ、下へ、ほの暗い方へと落ちていく。
もういっそのこと、恋なんて諦めてバートンの息子として贅沢に暮らしてやればいいじゃないか。バートンはそれを許すどころか歓迎するだろう。ルーカスが望むのなら、甘やかしてくれるにちがいない。
貧困、飢え、不自由。それらは敗戦したカントット人に与えられた苦しみであって、ダン帝国人になってしまえば関係のない話だ。バートンの息子ではないと言い張って何の得がある? それでバートンの心はお前のものになるのか? バートンの息子であることを受け入れれば、このままいい暮らしができるじゃないか。そもそも、もう自分にはカントット国に残してきたものなどないはずだ。
父は戦死し、故郷は焼けた。いったい何に義理立てする必要がある? 恋だとか好きだとか、くだらないことは忘れてしまえ。
気が付くと、ルーカスは涙を流していた。苦しくてたまらなかった。頭の中はぐちゃぐちゃで、罪悪感と、優越感と、それからバートンへの恋慕と、この状況を引き起こした父への憎悪に似た感情が渦巻く。
「バートンさん……」
バートンから貰ったダン帝国の小さな旗を取り出す。戦場でバートンとともにあったというその旗は、まるでバートンという男の魂そのものが染み付いているようだった。ルーカスはそれに顔をうずめた。バートンの匂いがした気がした。
*
バートンは体調を崩して臥せっていた。妙に体が火照り、眩暈がするのだ。もう一カ月ほど続いている。最初この症状が現れたとき、バートンは例の頭を打った後遺症のひとつなのだと思った。
いつものことではあるが、何か妙だと思い、ルーカスの疾病にあわせて休みをとったが、昨夜ついに耐えかねて医師を呼んだ。
しかし、どんなに検査をしても肉体には異常がなかった。医師は肩をすくめて、激務ゆえの精神的なものだろうと言った。思い当たるふしがない、とは言えない。それで仕方なく、使用人たちや部下の勧めもあり、今日一日さらに休養をとることにした。
午前中は溜まっていた個人的な手紙の返信を書いたり、カルヴァの文豪たちの本を読んだりして過ごした。食欲はあった。午後になると少し昼寝をして、それから銃の手入れをした。使用人たちからルーカスの様子を聞き、料理人と献立の打ち合わせをした。
そして夕刻になって、ついにすることがなくなってしまった。
使用人たちを退出させ、ただぼんやりと庭を見つめた。バートンの部屋は三階建ての邸宅の一番上にある。そこから庭にできた大きな水たまりに雨粒が落ちる様子を見続けた。
バートンは雨の匂いが好きだった。濡れた土と木の匂い。しかしそれはもう遠くなってしまった。
昔、バートンはやんちゃな青年だった。
治安の悪い遊び場に出入りして、酒を飲んだマフィアたちの喧嘩に巻き込まれた。
マフィアのひとりが放った銃弾はバートンの右肩を貫通した。病院に運びこまれて治療を受けると、肩よりも、倒れて打ち付けた頭のほうが深刻な状況であった。
その日から、バートンは雨の匂いも、花の匂いも、Ωの匂いもわからなくなってしまった。
前線に初めて立ったときは、嗅覚の喪失はむしろ幸運だとさえ思った。火薬や油の不快な臭いをかがなくて済む。しかし、いまこうして平和な時間を過ごすと、その喪失がようやく絶望を伴って実感させられた。
空いた時間ができたせいで、バートンはなんとなく感傷的な気持ちになった。
ことり、と小さな物音が部屋に落ちたのはその時だった。
バートンが物音のする方を見ると、部屋のドアからルーカスが顔を出していた。
まだ幼さの残る顔。ノウによく似たその青年。彼は胸にダン帝国の旗を握りしめている。
バートンは立ち上がって、ルーカスを出迎えた。
「どうしたんだい?」
「お見舞いに……」
いじらしい言葉を聞いて、思わず笑みがこぼれる。両手を広げ、彼を呼ぶ。
「おいでルーカス」
「もう平気なんですか?」
かわいい子が腕に納まる。もう十八歳だというのに、ルーカスは痩せて小柄で、いつまでも抱きしめておきたくなるほどかわいらしい。
「ああ。ルーカスの顔を見たら、元気になったよ」
バートンはルーカスの頭を撫でる。そして、顔を顰めた。
「ルーカス?」
すん、とバートンの鼻が鳴る。バートンは目を見開く。
「え?」
まずい、と思ったはずだった。しかしその思考は行動を伴う前に霧散した。
はるか昔に失ったはずの嗅覚が蘇る。脳髄に濃密なΩの香りが叩きつけられる。
バートンが健康な嗅覚を持ったαであったなら、これほどの匂いを放つΩをここまで近づけるという愚行はしなかっただろう。
しかし、いまのいままで、彼の鼻は機能していなかった。そして、最悪のときにその機能がもどった。
ルーカスは頬を赤らめ、荒い呼吸を繰り返しながらバートンにしがみついている。かちり、と二人の目が合う。ルーカスはもう欲望に濡れた目をしていた。
それはバートンの理性を失わせるには十分すぎた。バートンはルーカスの腕をつかんでベッドに引き倒した。
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