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第43話 完
韶華は禍の中心にそびえ立つ厳めしい凶神の城の中を、年老いた従者に連れられて歩いていく。
おぞましさを想像していた城の中は息をのむほどの美しさである。すずしげな紗が幾重も部屋の中を横断し、天井から美しく吊り下げられてまるで天蓋のように翻っている。風を帯びてゆったりと揺らぐその一幅の布を手にしたとき、思いがけず大きな目を見開いた。
古びながらも神々しい紺の布地に流麗な金字が美しく並び綴られていたのだ。草花のつるむような美しい字と、春気をはらんだ布。
間違えるはずがない。すべて韶華の暦帳だ。
吉祥を綴ったその紗に紛れて、安っぽい墨で書き付けただけの粗末な白い布までが、かすみのように漂っていた。韶華が星郎について物語ったもの。それらすべてが部屋中に垂れ絹のようにして飾られ、爽やかな風が充ちているように部屋いっぱいに美しくたなびいていた。
見蕩れていた韶華は不意に腰を抱かれた。
「若者はそこに。花神さまは、こちらへ……」
低く押し殺した声だった。案内役の老人も、いつの間にか背が伸びたようだ。腰に回す腕にひかれ、韶華は背後から熱くにぎり込まれた手に支えられながら部屋を移っていく。
金泥の華やかな戸が背後で閉められた。麝香 の香りがたちこめている。艶めかしい寝台の、奥深い閨室 。
赤く塗られた寝台に韶華は胸が高鳴った。背後の人物を確認するまでもなく、掻き込むような両腕に後ろから抱きしめられる。
「韶華……」
痛々しいその声……
項に押しつけられた冷たい唇。胸のときめきと、身体の高揚を誘う、あまい口づけ。
星郎……
「あなたに、会いたかった……」
耳元の囁きは絞り出すようで、不安げにかすれていた。
力強い腕に抱きすくめられながら、韶華は震える指先で星郎の輪郭を辿る。焦がれ続けた星郎。最初から、覚悟はしていたはず。彼が特別な感情を、善と吉祥の罪人に向けることはないのだと。
それでも欲して止まないこの感情が、傲慢にも星郎に受け入れて欲しいと願ってしまっている。なんて思い上がりだろう。手元に、触れられるところにいるだけで、満足なのに。それ以上求めてはいけない。それなのに、
「……星郎、私のところへ」
帰っておいでと、韶華は告げる。
「俺は凶神だよ……あなたに、禍をもたらしてしまう」
「君さえいれば、禍など……」
熱い口づけが、言葉の途中でかわされた。そそるようなその甘い痺れに韶華ははっと顔を背ける。袖に縋る星郎の指先は、幼い頃のあの一幕のようにかすかに震えていた。見つめる瞳の熱っぽさと、崇拝の情を越えた執念深い瞳。韶華は自らの欲望が優しく愛撫されていくように思われた。やはり、百虫翁の言葉は全て偽り……
「……欲しいと、言って。命令して、従わせて、韶華。あなたにだけ従いたい。あなたのして欲しいこと、なんでもしてあげる」
絹の下、まだ誰にも犯されていない聖域に、その手で乱されたいと韶華は焦がれていた。絹ごしの熱い手のひらと、這うような星郎の唇が、足先を割っていく。敏感な肌をとらえながら、したの生え際を伝う。たまらないほどの疼きを秘めた硬い蕾が花香をちらし、ゆるく立ち上がっていた。
星郎を求め、星郎の手で感じてしまうこの気持ちは、なんだというのだろう? 顔を真っ赤にさせながら、韶華はこれ以上たえられないほどの陶酔に浸っていた。
「韶華、欲しいといって」
「き、君が……、」
「約束をまもってくれた。俺を、欲しがって、追いかけてきてくれた……」
いつのまにか、身体は寝台に押し流されている。暗がりにみえる星郎の健気な微笑みが胸をしめつける。乱れてよれた寝台の上、星郎は韶華の衣を手に絡めるだけで、決して肌に触れようとしない。それが余計に身体の深いところを擽る。
「君が、ほ、欲しいんだ……もう君を、手放したくはない……」
ほとんど消えかかる小さな悲鳴だった。
滴るほど赤い唇をきゅっと結び、瞳を潤ませる韶華に、星郎は赤らんだ顔を思わず隠す。胸をつく愛おしさに今すぐその柔らかな四肢をいやというほどしがみ付かせたい。けれど善と吉祥の、神々しいほど神聖なこの神を乱すなんて……
星郎は胸を押さえつつ、ゆっくりとじれったいほど韶華の手を握りこむ。それだけで可憐な顔は気持ち良さそうにとろけて、清廉さを香らせるというのに、いやらしいほど、麻の、その艶めかしい茎が、色香をおび、淫らな液を滴らせていた。
星郎はその甘い蜜をなめとって、じっくりと吸い付き、分厚い舌先で溶かすようにねぶった。
星郎だけに許された、あられもないその姿。
韶華の吹きこぼす春情は純粋な願望を歪ませるらしい。花開いていく春の眺めを、季節が一つ過ぎるまで堪能し、しっとりと濡れた胸元の蕾や果肉の甘さを、星郎は背徳の美とともに味わい尽くした。
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「北神が、金神の呪いを解いたのだと思うんだ。彼しか扱えないしね」
丸一日ぐっすり眠って気持ちよく目覚めた韶華は白い肌に痣や噛み痕、さらには熱い口づけの情欲の印など全く知らずにさらしたまま、目覚めるなりいきなり寝台の上で自信満々にいった。
「けれどその前に、槐葉があれを吉祥の暦帳だと誤解して盗んでいた」
着崩れた星郎は恍惚な笑みを浮かべて床に膝をつき、寝台に枝垂れかかって韶華の目が覚めるのを一分一秒と途方もなく待っていたらしい。
韶華の起き抜けの眼差しがうっとりと星郎を見つめたとき、彼は高ぶる感情を抑えるのに必死だった。
「灑女 からも、暦帳を盗んだのは槐葉だと教えてくれたよ。だから槐葉をここまで連れてきてくれたんだ? 愛しい俺の為に……」
韶華の白い足を抱くように星郎はもたれていた。その柔らかな髪を優しく撫でながら、韶華はにこにこと微笑む。けれど内心、少し困惑している。
確かに星郎は暦帳の文字を肌が埋まるほど刻みたいといっていた。だがまるで孤独を埋めるかのように両腕や下腹部、しかも一部は臀部にまでその文字の列が隙なく刻まれていたのだ。
全身、韶華の瑞祥の言葉をまとう彼を目にして、韶華は彼の強い思いになおさら触れることになった。いつか肌が墨で真っ黒になってしまうな、と想像して少し健気に思ってしまうことさえ、どうしようもなく恥ずかしい。。
砂糖菓子のような韶華の手にすり寄って、星郎は瞼を伏せる。
「韶華、見せたいものがある……」
その自慢の入れ墨だろうか?
星郎は名残惜しく閨室を出て行った。甘い香りの残り香がみやびに燻る天井をぼんやりと見つめ、戻ってくるのをしばらくまつ。
すると彼は後ろ手に何かを隠しながら現れた。
「……みて」
そして胸の前に取り出されたそれは、一匹の亀だった。
「不吉な暦帳を回収するようにいった陰氷のおじさんがいたでしょう、その人が、あの亀をこっそり匿ってくれたんだ」
安堵と、力の抜けるような喜びに韶華は言葉を失った。はにかんだ笑みを浮かべる星郎が愛おしい。
「戻っておいで、星郎」
星郎は亀を下ろして韶華の手をさらった。睫に雫がつくほど感極まった星郎が、赤みを帯びた韶華の膝に唇を触れる。あたたかな吐息に肌がしめり、かすかな情の灯火を呼び起こす。
「……もっと、俺を望んで、韶華」
韶華は連日寝台で繰り広げられた星郎の破廉恥な睦言を思い出し、わっと叫んで立ち上がった。星郎の手をいい加減に握り締めて、真っ赤な顔でこれ以上は身が持たないと話しを切り上げる。
「君がいれば、私はうまくいくんだろう? 槐葉を北神にあわせなければ」
麝香がいけないのだ。いつまでも官能をくすぐる香りに包まれているから、身体が熱をもてあます。
韶華は外で待っていた槐葉を急いでつれだし、夜偏城へ向かった。
――――――――――――――――
槐葉は案外すぐに許された。
北神の前で裁定を待っていた槐葉は直前の張り詰めた緊張が一気に緩み、やや拍子抜けしたようだ。彼は確かに天界に何か問題を起こしたわけでもないのだし、盟神探湯にかけるほどのことは何もしていない。
瓶を抱えて足早に硅女のところへ戻っていった。
そもそも金神の封印を解いた時点で、北神も槐葉を責められる立場ではない。
韶華は池の周囲をのんびりと歩きながら、遅れてついてくる北神の、優しげな顔を見る。
「なぜ、金神の封印をといたんだ?」
鶏明がこの場にいれば怒り狂ったに違いない。彼の耳にだけは入らないと良いのだが、と北神の身を案じる。
北神はしばらく言葉を濁していた。眉が情け無く垂れ下がっている。それほど言いにくいのだろうか。韶華は北神が言い淀んでいるあいだに、問いかけのことなどすっかり忘れて帰ろうとしていた。
すると息を吐いた北神が小さな声で言う。
「……君を、もう一度金神に、会わせたかったんだ」
そのようやく聞こえた北神の声はほとんど遠い。すでに池を背にしていた韶華はあまりよく聞き取れなかった。
「私の力が及ばず、金神を封印することになって、しかも君を投獄した。どうしても何かせずにはいられなかったんだ。それが、騒ぎが段々と大きくなってしまって……」
「君は昔から、間が悪いからね」
どうにか聞き取れた北神の、あたふたとした声にゆっくりと返す。
城門の影に星郎の姿を見つけていた。心はすでに、そちらに向いている。
松葉の清廉な青い影を宿した星郎に、韶華は微笑んでいた。そのかぐわしい笑みを独り占めするように、星郎は韶華の肩を抱き寄せ、夜偏城を後にした。
その少し後、北神が思い立って眉を凜々しく整えようとしたところ、うっかり手が滑って眉を剃り落とすという災難に見舞われたらしい。
さらには百虫翁の楼閣では灯籠が壊れ、多くの妖鬼が逃げ出し陰氷にこっぴどく詰られたそうだ。
善と吉祥、花の神、韶華に関わった神はろくな目に合わない。そんな風説がしばらくの間根強く囁かれた。
はたして、韶華は凶神の守護を受け、韶華に執着する凶神が彼を守っているためともいわれているが……
〈完〉
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