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第42話

「さては、花神、何かにとりつかれているな?」  寝起きに敷居に小指をうち、その痛みに悶絶していたところ蹌踉めいて強かに額を机の角に打ったらしい。百虫翁(ひゃくちゅうおう)の目の上に大きな瘤が鬱陶しそうに腫れていた。  韶華はそれに薬をぬってやりながら苦く笑う。 「まさか。何がとりついていると、言われるんです」 「お前さんがここにきてから、ろくな目に合っていない……」  韶華は少し悩んで口を閉ざす。最近誰かに似たようなことを言われたようだ。  誰だったかな……  記憶を辿っていると、百虫翁は憂鬱に息をつき、自慢の容姿を惜しそうに鏡に映して息をついた。 「もうよい。瓶を持って、さっさと帰れ」  そして百虫翁はいい加減に手を振って二人を玉房閣(ぎょくぼうかく)から追い出してしまった。 「凶界がどこにあるか、知っていますか?」  韶華は押し出されながら百虫翁に訪ねる。  すると彼は、真っ直ぐ頭の上を指し示した。川の上だという。ここは川の下なのだから、上は一体どこのことやら。誠意のない返答だが、韶華は構わず微笑んで老人の手を握りしめた。 「どうもありがとう」  そして槐葉に引っ張られながら玉房閣をあとにした。    ――――――――――――――――  凶界がそこに出現したのは、なお余寒の厳しい春先、歳月改まったばかりのその日だ。  木々を軋ませ、家々をおしてゆっくりと落ちてきたという。切り立った岸壁を持つ、周囲とは隔絶した凶神の城である。流麗な唐草を描いたその壁は大きな筒のようで、遠くから見るとまるで梵鐘のようであった。吊り金具の竜頭にあたる部分に荘厳な城が聳え、僅かな楼閣群がその周囲に点在しているのみである。  凶神のいる方角においてその力は絶大であるから、旅人は勿論、祝い事や新築も凶神のいる方角はみな避け、たまたまその方角に村や町があれば禍が降りかかった。  年が改まるごとに移動する凶界は、今年はどこどこの方角、来年はあちらの方角と、人々の話題から尽きない。  韶華は槐葉とやつでの葉を毟っていた。 「頼みがあるんだ……」  玉房閣を後にして、韶華は槐葉の外衣を強く抱き込みながら悩ましげに顎に手を触れていった。 「そうだな……」  短く唸りつつ、逡巡をめぐらせる。すでに彼を引き留める用事もない。けれどせめて星郎のいる凶界まで彼を連れて行かなければならない。その咄嗟に出た言葉だった。機転は利く方ではないけれど、韶華は捻り出したのだ。 「巻き軸を燃やしてしまったから、かわりに葉っぱに書こうと思うんだ。君も、手伝ってくれ」  瓶を懐にしまった槐葉は大人しく従いながらも、突然やつでの葉を毟りはじめた韶華に戸惑った。さっさと硅女(かくじょ)のところへ戻り、この神性を取り込ませてあげたいとは思うのだが、手伝ってくれといわれ、しかも百虫翁に胸中をかき乱された直後なのだから、韶華のことが心配でとどまってしまった。  そして熱心に葉っぱに書きつけ始めるのだから、余計に困惑する。硅女も古い神ではあるが、韶華ほど周囲を気にしない神ではない。  一通り満足して終えると、葉をくるくると巻いて花の紐できゅっと結ぶ。両腕に抱えてさあ行こうと歩き出す。 「凶界へ行くのなら、近くまでお供します」  やつでの葉をかき集める手伝いはすんだのだ。さっさと立ち去ればよかったものを、自ら進んでそう言ってしまったことを、槐葉は少し後悔しはじめていた。  凶界はあまりにも遠く、雲の中に隠れてしまって少しも見えない。どれほどの長旅になるだろうか。しかも凶界というのだから、そこは凶神の災禍が寄り集まってくる恐ろしい場所なのだ。  韶華はまったくそんなことなど気にもしていなかった。のんびりと歩きながら途中にいくつの町があるだろうかと考えている。  そのとき、 「花神さま……」  乾いた樹木の罅割れのような老人の声に呼び止められた。 「主から、あなたさまのお迎えを頼まれました――」  振り返ると、枯れ葉とつちくれ、霜のにおいのする外套を身に纏う腰の曲がった老人が立っていた。 「巻き軸を見た主が、是非とも全て、買い取りたいと仰っています」  韶華は老人の恭しく頭を垂れる姿に立ち尽くす。やつでの束を抱く腕がわずかに強張った。彼の腰に下げられた従者の印が、韶華の心を震わせている。  ああ……、  どれほど、このときを待っていただろう…… 「……是非とも、君の主のところへ、案内を……」  息の詰まるような思いに瞬きを繰り返した。込み上げてくる感情を堪えようと視線を落とす。  老人の差し出す手に韶華はそっと重ね、槐葉に目配せをした。  老人は二匹の狐を木陰から引いて出てくると、韶華は老人と共に乗り、槐葉がその後に続いた。天を翔る狐はあっという間に凶界の上空へたどり着く。

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