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18.春の日-1
三月のとある日。尊 の自室に、あたたかい陽が射している。窓を開ければ、桜の花びらが泳ぐ様を見られるのかもしれない。
けれど尊には、そんなことはどうでもよかった。季節の移り変わりより、目の前にいる恋人、千歳 が大事だからだ。その千歳はと言えば、花村 家の飼い猫、みたらしと熱心に戯れているのだけれど。
尊のベッドに腰かけ、膝に抱いたみたらしを愛おしそうに撫でている。みたらしもすっかり千歳のことが大好きで、立ち上がってまでじゃれついている。この光景は幸福以外のなにものでもなく、もうどれだけ写真に収めたか分からない。
だが、今日に限っては眺めてばかりではいられない理由がある。
「ちー、もう覚悟決めろ」
「う……」
「みたらし、もう終わりな。ちょっと出てろ」
うみゃー、と鳴いて抗議するみたらしを抱き上げ、ごめんなと撫でながら部屋の外へと送り出す。千歳にこんなに懐いているのは、飼い主の自分に似たのだろうか。ドアをカリカリと掻いた後、諦めて去っていく足音が拗ねたように聞こえる。
今夜はいつも以上にみたらしと遊ぼう。そう決めつつ、ふたりきりになった部屋で振り返る。ベッドの上でちいさく身を縮める千歳を閉じこめるように、シーツの上に手をついた。
「ちーが嫌ならしないけど」
「……嫌じゃないよ。ちょっと怖いだけ」
「まあそりゃそうだよな。でも、決めたんだろ」
「うん……あの、あんまり痛くないようにお願いします」
「了解」
ごくんと喉を鳴らし見上げてくる千歳が、尊にしがみつく。大丈夫だから、と頭を撫でると、安心したように千歳の体から力が抜けてゆく。自分への信頼が見えるようで、こういう瞬間が好きだ。ミルクティー色の髪にキスをして、肩に手を置いて。ぐっと顔を近づける。
ふたりの息が詰まる部屋に、ガシャン! と大きな音が響いた。
おお、と感嘆の声を漏らしながら、千歳は熱心に鏡を眺めている。尊が開けたピアスの穴は、どうやらお気に召してもらえたらしい。
「大丈夫か? 痛えよな」
「思ったより平気! 絶対花村 にやってもらいたかったから嬉しい。ありがとう」
「約束したもんな」
用済みになったピアッサーを処理して、千歳の隣に腰を下ろす。まだ鏡を手放せない様子の千歳を眺めながら、あぐらを掻いて肘をつく。
「穴が安定するのに、一ヶ月くらいかかると思う」
「そしたら違うピアスつけられる?」
「だな。気をつけないと化膿したりすっから、清潔にな」
「分かった」
この春休みにピアスデビューをしようと思い至ったらしい千歳に、「お願い」と言われた時は緩む顔を抑えられなかった。もちろん、ピアスを開けるなら俺が責任を取る、と初めてふたりで出かけた日に言ったことはよく覚えている。それでも千歳から乞われたことに、感情は高ぶった。千歳が望む限り、この傷は一生千歳のからだに残る。大事にしたいとより強く思わずにはいられない。
千歳の手から、そろそろいいだろう、と鏡を奪い取る。こちらを向いた頬をとらえ、ついたばかりの傷に触れたいのを堪えて、反対側の耳に口づける。
「はは、くすぐったい」
揺れるからだを抱きしめて、ふたり一緒にベッドの上に崩れる。シーツは太陽にあたためられていて、沈むからだから力が抜ける。やわらかな雰囲気は、キスをするなというほうが無理がある。
「花村……」
「ん」
触れるだけのキスが啄むように変わり、千歳の下くちびるを食む。ゆっくりと引っ張ると、くちびるの内側同士が当たった。吸いつき合うような湿った感覚と、千歳の喉の奥からやってくる「あ」という短い音が、いとも簡単に尊の欲を引っ掻き回す。キスをしているのにまだ遠い。もっともっと、近くがいい。抱きしめ合ったまま、今度は千歳の首に口づける。熱い肌に頭が眩み、頭上からまた甘い声が落ちてきて。もうこのまま、と先を願ってしまいそうになった時。千歳が弾かれるように起き上がった。
「え、っと! もう行かなきゃ! そろそろ時間だよね」
「あー……だな」
今日は予定がある。こうなることは分かっていた。それでも少し落胆してしまう自分がいる。
体に触れ合ったのは、付き合いはじめた日が最初で最後だ。甘い雰囲気になっても、なぜかはぐらかされてきた。キス以上のことをしたくたって、ふたり同じ気持ちじゃなければ意味がない。好かれていることは分かっている、だから待つことしかできないのだ。
約束の駅前、ファーストフード店。入店すると、待ち合わせているふたりとすぐに目が合った。ケンスケとナベだ。尊と千歳は手を振って、レジへと並ぶ。同じバーガーのセット、ドリンクは尊がサイダー、千歳はミルクティー。それぞれにトレイを持ってケンスケたちの元へ向かうと、腰を下ろすより先にふたりがハイタッチを求めてきた。
「いや、これ持ってっから」
「はーやーくー」
「あーもう。はいはい」
「三上 も! イェーイ!」
「はは、イェーイ!」
「ちーにはありがとうだろ」
「それはそう! 三上、本っ当にありがとう!」
「おかげさまで三年生になれます!」
二学期からきちんと授業を受けるようになった尊は、出席日数こそギリギリ足りていたが、勉強はどうしても不得意だった。赤点を取る教科もままあり、心配した千歳が一緒に勉強しようと提案してくれたのだ。それならばケンスケとナベにも教えてもらえないか、と頼んだのは尊だった。
毎日のように放課後は誰かしらの家に集まって、学年末のテストで無事に全員の進級が確定した。今日はその祝勝会だ。
「オレも教えながら勉強になったし、こちらこそありがとう」
「……三上が神様に見える」
「俺も〜。三上様~」
「はは、大袈裟だよ。……花村? ポテト食べないの?」
「多い」
「んー……はい」
「……あー」
三人の会話を横目に、自分の分のポテトを千歳の容器にこっそり移していると、すぐに気づかれてしまった。ポテトも食べたくてセットにしたのだが、どうにも多い。だが千歳から口元に差し出されると、つい口を開けてしまう。揚げられたばかりで塩加減のちょうどいいそれを味わう尊に、友人たちから生ぬるい目が向けられる。
「……あんだよ」
「あんだよ、じゃねえよ。相変わらず仲がいいことで」
「わりいかよ」
「いや全然。尊が楽しそうで嬉しいっつうか、ほっとしてるっつうか。なあ?」
「そうそう。尊さ、三上がいなかったら多分マジで留年してたよな」
「かもな」
遅刻なんてザラで、授業もまともに出ていなかった。留年したらそのまま、退学の道を選んだのかもしれない。
中学生になったくらいから、容姿のせいか必要以上に目立ち、それに寄ってくる人間の浅はかさに辟易した。順応は難しく、少しずつ落胆をくり返したら、無気力な自分ができ上がっていた。半径一メートルにあるものたちが、ただ健やかにいてくれればいい。そうやってのらりくらりと、生きていくのだと思っていた。
けれど今は、日々が楽しい。なにかに努力するのもなかなか良い。学校も、少なくとも苦ではなくなった。全て千歳と出逢ったからに他ならない。
「あとはクラス替えが怖え!」
「なー! 俺またこの四人一緒がいい!」
「うん、オレも」
「だよな三上! 尊もそうだろ?」
「だな」
新しい春のはじまりは、終わりと共にやってくる。もしも、を考えると恐れまで抱きそうな自分に、本当に変わったなとしみじみ思う。冷めはじめたバーガーに齧りついて、ふと千歳と目が合い笑って。どうか叶えばいいと、柄にもなく誰かに祈ってみたりした。
得体の知れないものに、今の自分を全て託すような願い事などしなければよかった。無情な結果に、尊は途方に暮れる。せっかく進級できたのに、本当に退学への一途を辿ってしまうかもしれない。
「尊~、大丈夫……じゃねぇな?」
「先生たちってちゃんと見てねぇのな!? 尊は三上と一緒にしなきゃ駄目だろ」
「花村……」
「…………」
ケンスケとナベ、それから千歳は三年A組。尊はC組。ケンスケの言う通りだと、心の中で激しく頷く。出席率の変化やクラスの様子をよく観察していれば、今の尊が千歳によって形成されていることは明白なはずだ。留年も退学もひとりだって出ないほうが、学校としてもいいだろうに。
友人たちになんと返せばいいか。うっかりすれば弱音が零れてしまいそうで、尊は口を噤むことしかできない。
「尊お前、頼むからもうサボんなよ!? 絶対一緒に卒業すんだからな!」
「…………」
「尊~!」
半ば千歳に引きずられるようにして、放課後は三上家へと直行した。極端に口数の少ない尊を千歳が抱きしめ、肩の上で頭を撫でられる。背中に添えられた手は、トントンとリズムを刻んでいる。子ども扱いみたいだと思いはするのに、尊はただただしがみつく。
「お昼は一緒に食べようね」
「……ん」
「休み時間も会いに行っていい?」
「……ん」
「花村……」
抱擁が解かれたかと思うと、今度は両頬を包まれる。潤んでいる瞳は、まるで尊の代わりに泣いているみたいだ。下まぶたに触れるとくちびるが重なった。慰めるようなキスをくり返して、頬をくっつけて千歳がささやく。
「ねえ花村、オレも寂しいよ」
「ちー……」
「一緒のクラスになりたかった」
朝からずっと、拗ねたような態度を取ってしまっている。こんな風に気遣わせて、恥ずかしい姿を見せてしまっている。分かっている。それでもそれを千歳が汲んで一生懸命心を砕いてくれることが、尊の胸をいっぱいにする。嬉しい、なんて言ったら困らせるだろうか。
「クラス替え決めたヤツは腹立つけど、卒業はちゃんとする」
「うん」
「ちー」
「ん?」
「もっと。キス」
「うん」
ふ、と微笑んだままのくちびるが再び近づいてくる。付き合いはじめてからこっち、もう何度もキスをしてきたが、甘やかされるようなのは初めてだ。今まで以上に体が熱くなり、千歳の背に腕を回して後ろに倒れこむ。驚いた千歳が慌ててシーツに手をついて、それを見上げてさらに乞う。
「ちー、もっと」
「っ、うん……」
千歳がきゅっと眉を寄せる。オレも堪らない、と言われているみたいだ。丸い息を吐きながら舌を伸ばすと、答えるように千歳もそうしてくれて、眩んだ目を閉じる。離れないでほしい。千歳の髪に指を忍ばせ、深く絡ませる。ふたり分の短くて荒い息で部屋は満ちて、腹の奥がぐるぐると熱を持つ。千歳もそうなのだと、張り詰めたそこがぶつかり合って分かった。
明日からひとりの時間がぐっと増えるのかと思うと、いつも以上に触れられたくなる。けれど――と考えるのはもちろん千歳の気持ちだ。はぐらかされるのが悲しくても、ちゃんと待ちたいと思っている。今もそうだ。
ああ、でも。堪えるように瞳を眇める千歳に、今日は賭けてみたくなる。
「ちー、触りてえ」
「っ! 花村……」
「俺のも、触ってほし……嫌か?」
「っ、嫌なわけ、ない!」
ぎり、とくちびるを噛む様に息を飲む。嫌なわけないのか、嬉しい、嬉しい。気の急くままに千歳のベルトに手をかければ、尊のそれも引き抜かれる。以前みたいに触りあって、キスをしながら擦ればあっという間だった。忙しなく上下する胸に千歳が崩れ落ちてきて、なんだか泣きそうな想いで抱きしめる。
「ちー、気持ちよかった」
「オレも……あ、手拭かなきゃ」
慌てて起き上がった千歳がお互いの手を拭いて、それから身なりを整えようと尊の制服に手を伸ばす。その手首を尊は思わず握ってしまった。ここで終わりにしたくない。そう言ってしまおうか。躊躇っていると、傾げた首を戻した千歳が促すように微笑んだ。
「……あのさ」
「うん」
「あー……いや、なんでもない」
「……そう?」
もっとしたい、という言葉が喉のすぐそこまで上がってきて、だが尊はそれを飲みこんだ。久しぶりに触れ合えただけでも進展したのだ。先を急いで千歳に嫌がられたら、当分立ち直れそうにない。
それでもいつか、と願わずにはいられない。
千歳からの告白を待つ間に、男同士のセックスを調べた。知識を得たことで、以前なら考えもしなかった欲が芽生えた。欲しがられたい、触れられたい――ちーに挿れられたい、抱いてほしい。ひとりで慰める時だって、もうずっとそんな妄想ばかりしている。
「ちー、こっち来て」
「うん。今日は甘えただね」
「……嫌か?」
「嫌じゃないよ!」
「マジ?」
「うん。甘えてもらえて嬉しい……大好き」
「ちー……」
シングルのベッドにふたりでぎゅうぎゅうに寝転がって、胸元に抱き寄せられる。あたたかくて、千歳の優しさが心強さになる。大丈夫だ。恋人同士なのだから、その瞬間はいつか必ず訪れる。ふたりの気持ちがちゃんと重なる時が。その瞬間を迎えるのは、きっとそう遠くはないはずだ。そう信じて、千歳の胸にすり寄る。
想像以上に待つことになるなんて、尊は露ほども思わなかった。
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