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金露を宿す(九)

 女に興味のない寧太丁(ニンタイティン)。  そして金菊(チンチュイ)の墓には遺体がない。小来(シャオライ)が墓に寄りつかず、遺体のことで突然慌てだしたのは、金菊が男で、しかも寧太丁が好むのは、生きた人間ではないのだ。 「君の、男色の噂を一度も耳にしたことがなかったのだから、すぐに気づくべきだった。君、生きた男にも興味がないんだね」  無乃(ウーナイ)を壁に押さえる寧太丁は項に顔を埋めて舐めるように息を吸い込んだ。はりのある白い肌を包む(あぶら)のその匂い。女のように美しい貌をした男さえ、死後には凄惨なほど強烈な匂いを放つ。それが、寧太丁の心を狂わせてやまない。  無乃はその気味の悪い吐息に身の毛がよだった。髪の生え際、毛穴からしみだす皮脂と、死後の腐敗臭に心を馳せて嗅ぐように、彼は必死に鼻を動かしている。  気色の悪い男だ…… 「つかい終わったら、川に流すことにしてるんです。川は神聖なものだというじゃないですか。命を運ぶもの。新しい命が宿るように、祈りをこめてるんですよ。けれどあなたのことは、中々手放せそうにない」  あの水死体は寧太丁の仕業。しかもあれが金菊だったとは。  ふやけてボロボロになったあの体。今まで何人の男の子を身勝手に殺してきたのだろう。 「私は死体になる趣味はなくてね」  掴まれている腕に寧太丁の太い指が食い込んで赤くうっ血している。首筋に残念そうに息を吐く寧太丁が、腕から手首、そして手の甲に指を滑らせていく。無乃は虫の這っていく感覚に今すぐ手を振り払いたかった。 「晩景門の主座は……」と寧太丁が口を開く。「数々の病を完治させたらしい。しかしその裏では聞くにも耐えがたいえげつない行為を繰り返していたと」 「興味があるね。どんなことをしていたんだ?」 「病人を(かどわ)かして薬を作ったり、新しい治療法だといって殺人を。裏の山には切り接ぎしたような骸が堆く積み上がっているとか。取引をして腕が一本なくなった患者もいるときく。人間をいたぶることに快感を得る悪逆無道の晩景門の主座、無乃」  よくもまあ、そこまで無道無乃について調べたものだと無乃は苦く笑う。しばらく耳にしていなかった噂が、これほど肥大化していようとは呆れるばかりだった。 「私のことを、同類だと思ったのかな」 「まあね。だから、私のことも理解してくれるだろう?」  無乃は苦く口を歪ませる。 「理解? できるはずがないよ。私と君は違うのだから。青菊を連れて帰るけれど、まさか彼女まで殺していないだろうね?」 「どうしてそんなに悠長なんだ? あなたは私に殺されるっていうのに」  無乃はのんびりと花片のような瞼を伏せ、花のような微笑を口元に浮かべた。  殺されるはずがない。青菊をおびき寄せるためにあんな噂まで蒔いたのだから。もうすぐ彼女がここを訪れる。そうすれば鍵を開けてもらって、無乃は青菊を連れて逃げるだけだ。 「君は青菊の容姿だけをみて、好みの男だと思ったんだろう。彼女は確か、男性的な顔立ちのはずだから」  そろそろだろうか。少し身体を横へずらす。 「でかい男は、どうやら気に食わなかったようだね」 「でかい?」  無乃は片方の頬を意味ありげにあげた。 「我氷津(ウオピンチン)のことだよ」 「……あいつか」  寧太丁の苛立ちと焦燥の入り交じった声。またあの男に邪魔をされる前にと、寧太丁が一息に首に手をかけた。その凄まじい力に無乃がもがいたときだ。うーうーと苦しそうなウシガエルの啼き声だと思ったそれが、段々と荒々しい足音とともに近づいてきて、ついにガシャン――ッ、と派手な音が部屋中に響き渡った。 「寧太丁――!」  憤悶に猛る叫び声をあげ、目を赤く充血させ髪を振り乱した人物が、割れた窓からがむしゃらに部屋の中におりたって寧太丁の頭を引き掴んだのだ。「よくも……! よくもあんた、この私を騙したわね――!」  腕や足に噛みつき、甲高い悲鳴の様な怒号をあげ、寧太丁を無我夢中で殴りつけている。床の上をひきずりまわす彼女の想像以上の激しさに無乃はぎょっとして距離をとった。さすがに、広めたあの噂は彼女には刺激が強すぎたようだ。  寧太丁の頭をごつごつと床に打ち付ける青菊に慌てて優しく呼びかけた。 「……ち、青菊、私は無乃と言って……」 「無乃? なんだっていいわよ! あんたも、この男を誑かそうっていうんでしょ! 私、絶対に舟になんか戻らないわよ! 婚約ですって? あり得ないわ、80過ぎのおじいさんよ! あの叔父、年寄りに私の青春を捧げろって言うのよ! 絶対に戻らないわ! 私はここで、この人と幸せになるんだから!」  無乃は苦々しく額をおさえた。 「……青菊、落ち着いて。でも、君は舟に戻った方が良い。この人は非常に危ない人で……」 「あんたも私に、おじいさんと結婚しろっていうの?」  ぎろりと、血の気盛んな瞳が標的を無乃にかえた。まいったな、飛びつかれたら敵わない。無乃は頭を振る。 「そういうことじゃない。ただ、君が舟に戻らないと叔父さんは心配してしまうよ」 「心配なんて、自分の懐だけでしょ。あなた、私のことは死んだことにしておいて。叔父さんに言っておいてよ」  無乃は「えっ」と狼狽えた。優男だと思われていいように使われ、問題が起きなかったためしなど一つもないのだから。どうせ、我氷津には人さらいだと声高に叫ばれるに決まっている。  情けない、断るのに勇気がいるなんて……  無乃は大きく息を吸い込んだ。 「悪いが、自分でいってくれ……」 「死人がどうやって自分の口でいうのよ! 馬鹿ね、あなた」  寧太丁を散々痛め付けてすっきりした青菊が、床にのびた寧太丁どっしりと腰掛けた。乱れた髪を掻きあげてフンと鼻をならす。無乃の薄汚れた姿をぼんやりと眺めた。 「私も、どこか旅でもしようかしら。あなた、お金ある? 旅装束を揃えるのと、馬を買ってくれない? 私が大商人になったら何倍にもなってかえってくるわよ」  ふふんと満足そうに笑う青菊だった。無乃はその向かいでゆっくりと腰を下ろしていく。心の底から漏れ出す息を吐き出しきって、無乃は疲れたように微笑んだ。  寧太丁の脅威もさり、青菊も無事で、どうやら腰が抜けたらしい。何より青菊が生きていてくれたことがどれほど安心したか。そんな安堵は心の内にとどめて、無乃はにこりと微笑んだ。前向きな彼女に引っ張られるように無乃も同調する。 「丈夫な馬を選んであげるよ。私は馬を見る目があるからね」 「本当? 嬉しい。叔父さんには、自分で言うわ。怒ったらお腹がすいてしまったわね。あなたお金あるんでしょうね? 何か美味しいご飯が食べたいんだけど」 「なら、ここの店の卵炒めが美味しいよ」 「食べに行きましょう。京果はあるかしら」  青菊が割れた窓から軽やかな身のこなしで外に出ると、無乃もよっこいしょと不慣れに飛び越えようとする。すたすたと先へ行ってしまう青菊に無乃は少し急いでいた。けれど裾が割れたガラスに引っかかっているし、手の置き場が中々定まらない。外へでようにも飛び降りる運動神経などない。  しまった、これでは身動きがとれない。 「……手伝いは、必要か?」  大量の汗をひやひやと掻きながらどうしたものかと一人慌てふためく無乃の頭上に、外から温かな影が落ちた。忘れていたとばかりにその声に顔をあげる。 「我氷津……?」 「羅冴流(ルオフーリウ)で構わない」  訂正してから、羅冴流が苦い顔をくしゃりとさせて笑った。 「ここまでひどいことになるとは思わなかった」  割れた窓と、床に伸びている寧太丁を目にしながらしげしげと羅冴流がいった。無乃は膝を抱えて窓枠に座ったまま羅冴流の機嫌のいい顔をさっとみつめて瞼を伏せた。ふっくらとした唇や目元は血の気があり、身体もふらふらしているわけでもなさそうだ。  倒れたというのは、寧太丁の嘘だったのだ。 「……青菊とご飯を食べに行くところで、君を今から呼びに行こうと思っていたんだ」  部屋に閉じ込められたのだろうか。きっと突破するのに苦心したのだろう。短い髪がぴんぴんとあちこちに跳ねて乱れている。その乱れた髪の先にそっと手を触れて、無乃は微笑んだ。 「よく、働いてくれたね」  羅冴流が自ら差し出すように頭を垂れた。その、思いがけず甘えかかるような行動を自覚した羅冴流が直後、大胆にも首筋を真っ赤に染めあげた。無乃はぱっと手を離す。直接触ってはいないのだから、これくらいなら大丈夫だろう。ニコニコしながらも不安なのだった。 「……働きぶりを、正当に評価してくれよ」  どうやら彼は、お駄賃がほしいようだ。ここで一番価値があるものといえば、ご飯の他にない。 「鶏卵炒め三つでどうかな」 「羽振りが良いね。どこで食べる?」 「ここの店のが、美味しくてね」 「お嬢さんは先に行ったか?」 「私は後から行くから、君も先に行くと良い」  困ってなどいない。そんな風に胸を反らす。女の子の青菊がおりられたのに無乃がおりられないでは格好がつかない。そんな焦りを背中に滲ませる無乃に、羅冴流がニコニコしながら立ち去った。  それから少しして、南京錠の落ちる重い音が聞こえたかと思うと、部屋の戸が開いた。指先に鍵をぶらぶらさせた羅冴流が廊下で何か言いたげな笑みを浮かべている。無乃は少しの間くつくつと笑う羅冴流と微笑みあった。 「無乃、先に行っているよ」  柔らかな草の影と優しい風に包まれた日没の庭先に羅冴流が消えていく。湖の上をきらきらと散っていた金の輝きは風に吹き上げられ、寧家の木の下にちりばめられたようだ。射しこむ夕日がこぼれる、細かな金色の木漏れ日の痕だった。その木漏れ日の下を、部屋から難なく出られた無乃が颯爽と横切っていく。  爽やかな風のようなこの男を改めて提灯の明かりの下で見た青菊は、中々美しい男だと気がついて一緒に旅をしようと持ちかけたものの、馬を強請り旅装束を強請り、ついには飯まで強請った相手があの無道無乃だと知った途端、噂されているひどい事件の首謀者に軽々しくたかってしまったことに気が遠くなり、それも食事の席で発覚したため、かみしめていた豚の肉に強い身の危機を覚えてついにはひっくり返ってしまうのだった。 「そんなことができるなら、寧太丁のこともとっくに切り刻んでいるよ……」  無乃は呆れてぽつりと呟いていた。

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