36 / 37

番外編 ある昼、青菊の憂鬱

「羅冴流、もしお腹が空いたら隣の家の女将さんが食べ物をくれるというから、もらってくるといい」  まだ日も出ていないうちに慌ただしく襟を整えた無乃が、突然やってきた使用人に急かされるまま、けれど微塵にも焦っている顔は見せずおっとりとした足取りで宿を出て行った。それを見送るのは下穿きだけつけている羅冴流だ。  凶悪な蛇の刺青を身体に巻き付け、悪人面の寝起き顔で無乃の声をぼんやりと追っていく。昨晩は無乃の気配を探って眠りにつき、今朝は無乃の気配を辿って目が覚めたらしい。一緒に寝ているのかというと、どうやらそうでもないようだ。  二人の危うげな気配は時々感じるが、はっきりとその証拠を掴んだことはないのだから青菊は少しほっとした。  そんな無乃は昼には戻るといいながら少し早めに依頼を終わらせて、大量の汗を額に浮かべてにこにことしていた。羅冴流がわざわざ寝癖を整えなかったのは、無乃に触ってもらうためらしい。頭の上でぴんと跳ねているその毛を、整えるように無乃が優しく触れたのだから。 「羅冴流、すっかり目が覚めたようだね」  羅冴流はというと青菊や万紅雪には見せたことのない爽やかな笑顔で無乃を出迎えた。無乃の姿はおかげで山のような羅冴流の影に隠れてしまって、青菊は少しも目にすることができない。あの美男子を独り占めしたいのは、羅冴流だけではないというのに。内緒話をするようにわざわざ腰まで曲げて羅冴流は顔を寄せている。  青菊は「やんなっちゃうわ」と息を吐き出した。 「青菊も、待たせてしまったね」  けれど青菊だってどうしても無乃を諦めきることができない。一緒にいられるだけでも十分だとは思うのだけれど。  なぜなら巨船にやってきたどんな客よりも、それにどんな水夫よりも、くわえて荷華幇のすれた人たちよりも、これほど美しい男なんて存在しないのだから。  まるで天上の玉から生まれた白鳥か、もしくは挿絵の美しい皇子がそのまま抜き出てきたような美しさ。  羅冴流が囲って無乃を見せたがらないのも理解できてしまう。 「待ってはいないけれど、今度からは鬱陶しいからその男も連れて行った方が良いわ」  無乃を医者として朝早くに呼んだのは、たった数軒先の商人の家で、子どもが熱を出したので見て欲しいということだった。それが、羅冴流はまともに衣服も身につけず、窓際を陣取って一分一秒と憂い顔だったのだ。これほど無乃に執着しておいて、いざ無乃を前にすると興味もないとばかりにあっさりとした視線を向けるのだから、おかしくて仕方がない。 「栗をもらってきたんだ、おいで、私が剥いてあげるよ」  ほくほくの焼きたての栗を包み紙から覗かせる無乃に、青菊はもう一つ息を吐く。  それにこの男はどうやら、女の扱いに長けている。目をみてにっこり微笑んで、青菊が少し焼き餅を焼いていることを見抜くと優しく呼び寄せてくれるのだから。それもそのはず。色男を放っておく女などいない。一体何人の女性を陥落させてきたのだろう。それに、寧太丁はかなりずれていたけれど、あからさまに熱っぽい視線を投げかける男子も、なんて多いものか。  敵は多いのだわ。羅冴流だけでも強敵だというのに。 「午前中は何をしていた? 羅冴流」  と、青菊は剥いてもらった栗を一つずつ口に運びながら、羅冴流に問いかける無乃をじっとみつめた。  今もまた、無乃が「羅冴流」と呼びかけたので、指はあわせて十本、綺麗にたっている。 「なにも。君の帰りを大人しく待っていた」  さらりと言ってのける羅冴流に、無乃が目元の艶をますように微笑んだ。 「君は本当に口がうまいね。寺院では楓が見頃だそうだよ、羅冴流。今度見にいこうか」  帰りを大人しく待っていたのは事実だけれど、無乃はそんな言葉を全く真に受けていない。それよりも青菊は立てた指をまた一本ずつ折って戻していく。  吹き抜けていく秋の風は涼やかだった。桔梗も薄も、樹木はいっそう秋色に憂いて、ひらひらと落ち葉は軽やかに舞っている。  どうやら「羅冴流」が無乃の口癖らしいと気づいたのは、そんな秋の齢も浅い頃。少し肌寒さを覚える秋月の夜に、寝言でも「るお……」ときこえてくる始末。それを当の羅冴流がこらえきれずに身体中真っ赤にさせて、大きな手で口元を隠しながらもすっかりかみしめているということは、青菊だけがしっている。この色男はなんて罪作りなのだろう。羅冴流だって男前だというのに、そんな男の心さえ射貫いてしまうのだから。  もし無乃の「羅冴流」という口癖が数え切れないほどになったら、教えてあげるべきかしら。  きっと彼の口癖は麻袋一つだけではおさまらなくなるのだろうし、笑みの裏で無乃が何を考えているのかも、そのときようやくわかるようになるのかしら。  青菊はそれを楽しみにして、「羅冴流……」と、無乃がまた無意識に呼びかけたその声をひっそりと胸の中で数えていた。

ともだちにシェアしよう!