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芳名を吊す(一)
「君が悪いよ、羅冴流 」
緑陰にしたたる光の筋を浴びながら、無乃 は穏やかな笑みを浮かべて容赦なくぴしゃりと言った。
鼻歌交じりに舟を操る羅冴流がふと、棹を右から左へ持ち替えたとき、握っていたそれを勢いよく頭上の枝の中に突き上げたために、舟がすっと通り抜けた直後、枝に引っかかっていた何かが背後で飛沫を上げて落ちたようだった。
激しい波に少しの間小舟が揺れ、無乃は思わず振り落とされかけてしがみ付く。すぐさま船尾まで大股にやってくる羅冴流が危うげな無乃の腰をしっかり支えたまま川の上へ身を乗り出し、ぷかぷかと浮いているそれを見て呆気にとられた。
「人? まさか、あんなところに引っかかっているとは誰も思わないだろ」
棹に突っつかれた所為で意識を失ったのか、羅冴流に突き落とされたのは生白い首の、体つきはまだ年の若そうな男だった。うつ伏せになったまま反応がない。
無乃は羅冴流とお互い支え合ったまましばらく男が息を吹き返すのを食い入るようにして待っていると、小さな気泡がふつふつと浮かび、がはっと男が飛び起きた。けれど勝手が違ったのだ。手足が地面に着かず水を掻いて溺れ、混乱気味に叫んで藻掻いていた。それも長くは続かず、またすぐにだらりと身体の力が抜け、水面は一切の波が立たず静かになった。
お、大人しくなった、と無乃はのんびりとこの男を検分してから、つくづく、予定どおりとはいかないものだと息をつく。
「引き上げよう。羅冴流、手を貸してくれ」
男に騒がれて事態が悪化するよりは、気絶したままの方がやりやすい。
羅冴流が水飴を巻き付けるようにくるくるっと男の身体を引き寄せた。無乃は袖をまくり上げ、逆に引きずりこまれそうなほど重い身体を二人がかりでなんとか舟の中に引っ張り上げる。足元に寝かせてからやはり気が進まないながらもにこにこと男の脈をみた。
奥歯が欠けている。ひどく顔を殴られたようだ。手首に縄の編み目が食い込んでいるから、無抵抗に近い状況だったはず。衣服の下は顔よりもひどく、殴打のうっ血痕が痛々しく残っていた。指も何本か折れている。それに、一番恐ろしいのは打撲の痕に交じって鋭い引っ掻き傷と、獣に噛まれた痕があること。
この辺りでも虎が出るのだろうか?
もしそうなら、この男を殴った相手よりも言葉が通じない獣とかち合ってしまう方が物騒だ。それに彼の傷は襲われてから時間もそれほど経っていないようだった。まだ近くにいるかもしれない。
なにせ川に浮かぶ男の身体に、まだ固まっていない血がまつわっていたのだから。無乃は腹部に引っ掻かれた獣の傷痕をなぞり、ふぅと息を吐いてから羅冴流にあっけらかんと告げたのだ。
「羅冴流、君が悪いよ」と。
なにせ突っつき落としたのは、羅冴流だ。それに、面倒な男を見つけてしまったのだから。意識を失っている素性の分からない人間、しかもどうやら訳ありの男を連れて歩くわけにもいかない。
近くの村へとりあえず男が目を覚ますまで預かってもらうほかないだろう。
それにしてもまたもや目的地への邪魔が入ったようだ。無乃はもう一度息を吐いていた。
「見てしまった以上、見捨てることもできないからね。彼を運ぼう」
落胆しつつもてきぱきと男の傷を拭い、彼の衣服を勝手に裂いて水に濡らすと、腫れている患部に宛がった。それを見た羅冴流がくっ、と喉を鳴らして笑った。
「彼、起きたら自分の衣が裂けてるんだから、驚くかもね」
「私も自分の衣服が大切だからね。むしろ助けたことに感謝してくれなくては困るよ」
舟が水草を押し分けて一条の通り道をつくっていく。吹きこぼれる花の樹に縄を結び、二人は岸辺に降り立つとのんびりと民家を探して歩いていく。
のんびりとはいうが、傷だらけの男を少しでも早く落ち着ける場所に寝かせてやりたいのだから、無乃はいつもより早歩きのつもりだった。牛の歩みより遅いと羅冴流に言われてはどれほど急いでいても大して変わらない。
すぐにふっふっと息を切らして顔を真っ赤にさせ、顎の下へと伝う汗をしきりに拭う無乃はにっこりとした羅冴流の笑みと目があった。
「これでも、急いでいるんだ……」
無乃はなんとなく責められている様な気持ちになってまだ何もいわれていないうちから弁解していた。
成年男子らしく突き出た喉の骨から、鎖骨の間へ。視線を追う羅冴流が油断のならない顔を赤くさせて軽く瞼を伏せた。
「あとで俺が拭ってあげるよ」
――拭う?
「……君を、信用していいものだろうか?」
何を企んでいるのかちっとも分からない男。無乃はさて? と小首をかしげて、うーん……、と目一杯、しばらく悩み通していた。
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