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月の戯れ(八・終)

 老僧が細い腕で棹をつき、朝靄のかかる柳の樹影に、すぅっと舟をくぐらせていく。  無乃(ウーナイ)は連々と続く木陰の下で足をゆったりと組みながら、何も知らない顔をして微笑んでいた。  目が覚めたとき、羅冴流(ルオフーリウ)はいなかった。  あの剣客が簡単にしてやられるはずがないのだから、心配するようなこともない。  この際流れに身を任せようと黙って景色を眺め、たっぷりとうねる水面に手を浸ける。白濁とした川にそそぐ陽ざしを集めようと川をかき混ぜていた。舟の行く先はまさか、水の果てにのぼる蜃気楼とでもいうのだろうか。  その困惑を深めるように、水路はますます細くなり、舟がすれ違うのも難しいほど窮屈になっていく。  どうやら果歩ではない。  あまりにも静まり返っていた。  水路脇に並ぶ家屋はどこも異質な静けさに包まれて、人がいなくなってかなりの日数が経っているようだ。  風雨に汚れた洗濯物が枝に絡まり、まるで剥がれ落ちるように翻って家の中は暗く人気がなかった。昼ののどかなひとときに、突然なにかが住民たちを襲ったようだ。逃げ散ったその痕跡が、無乃の心にもまるで得体の知れないなにかが追ってくるような焦りを抱かせた。 「誰もいないみたいだけれど、私をどこに運んでいくのかな」  無乃は頬杖をつきつつ、焦りを内にしまい込んでたずねていた。無人の町、無人の家屋、そこにどうして病人が住んでいるのだろう。  すると老僧が淡々という。 「この先に、屋敷があります。長い間、ひっそりと人を捕まえておりましたのは、その人の病を抑えるためです。けれどやはり、病状はあまりよくなく……」 「どの人かな? あなたの病とは違うようだけれど」  老僧の寿命もあまり長くはない。それをまさか指摘されるとは思わなかったようで、老僧は少し意外そうに無乃を振り返った。 「なぜ、私に病があるとおわかりになるのですか」 「魚になったまま病死する手はずだったのだろう。自分の正体を隠すためとはいえ、君はまるでそのまま姿を消しても良いといいたげだ」  いいながら無乃は大きく息をついた。毎朝池の魚に餌をやっていた彼だから思いついたことだろう。 「魚になったと人の目を誤魔化せば、疑いの目はまず自分にはむかない。そして気づかれず、罪を償わずして穏やかに眠れる。死期の近いあなたが自ら髭の長い魚を用意して、さらに若い僧侶に言い含めたのは探されると困るからで、共犯にしてしまえばこの秘密を誰にも明かすことなどできなくなる。自分が魚になって町の人をさらうなんてよく考えたものだ」  老僧は諦めたように息をついた。失意に重く肩を落とす。そのからだは泥水のように舟の底に座りこんでいた。 「私は結局、何も変わることができなかったのです。弱い心のまま。疲れ果ててしまいました……」 「まさかあなたが泉下寺にいるとは、思わなかったよ」  無乃は背中を丸めて前屈みになる。五年前、最後に会ったときはまだ恰幅が良く、丸顔の気の弱そうな男だったというのに。その老僧の変わり果てた細い身体にはどれほどの苦労が降りかかったのだろう。  針のような無乃の視線に老僧は居心地が悪そうに身じろいだ。舟を漕ぎながら、ぼそぼそとまるで言い訳をするように彼は呟いた。 「あの日から絶え間なく罪悪感と使命感に駆られ続けていました。夢にまであなたをみました。あなたの顔に傷を与えた、あの日から」 「……傷か」  目元の、このほくろのことを言っているのだ。  額に刻まれるはずだった刑罰の刺青である。どうしても無乃の顔に墨を入れることができなかったこの男が、胡麻のように小さな点をやっと目元に落とした。  無乃はそれを撫でつつ、やはり嫌な手触りだなあと微笑する。 「終わった話しだよ」 「いいえ、あなたは、責められるべきお方ではなかった。私はわかっていたのです。十年前、本当は、あなたが、本物の奇秀(チーシウ)さまだと……」  ざわりと胸の奥を突き立てる激しい感情をぐっとかみしめて、次第に増していく目の痛みに瞼を伏せる。無乃はすぐさまなんてことないように微笑んだ。 「奇秀は死んだよ。ここにいるのは、無乃だ」 「あの男とは一刻も早く縁を切り、離れるべきです」  無乃は困った顔で首をかしげた。あの男、とは羅冴流を指しているのだろう。確かに危ない男ではあるものの、首をしめられたのは寝ていた彼に迂闊に近づいたせいで、むしろ無乃を連れ去っている老僧のほうが危険ではないだろうか。 「なぜそんなことを?」  それを悟ったような老僧の、切羽詰まった声であった。 「あの男は晩景門の主座を追っています」  棹を置き、やはり言うべきだと素早く向き直った老僧は縋り付くように無乃の足元に跪いた。 「奇秀さまを殺した、その復讐をするために」  じくじくと、目元に走る焼きつくような痛み。  奇秀を殺した、復讐――  あれほど晩景門の主座かと確認していた理由は、復讐のためか。  乱れかけた心をこらえ、「ならば……」と無乃の顔色はいっそう悪くなる。  自分の正体は尚更隠さなければ。  晩景門の主座、悪逆無道の無乃は偽皇子騒動の主犯。  そして誰もが信じなかった前王朝のたった一人の生き残り、奇秀本人でもあるのだから。 「彼には決して、いわないでくれ……」  人生を懸けて追い、恨み続けた悪主座が本当は死んだはずの奇秀だと知ってしまったとき、彼の衝撃は一体どれほどのものになってしまうのだろう。想像もつかないほどの絶望に苛まれてしまうはず。 「私が晩景門の主座だとわかれば、彼もそれで満足するはず」  (はらわた)の奥が重く引きずり出されるような苦々しい声だった。  老僧の深い悲しみのため息が、朝の清々しい川に不釣り合いなほど暗澹とした苦みを滲ませた。  重苦しく言葉を飲み込む二人はやがて舟を下りていく。  真っ青な朝顔の絡みつく壁の向こうに、町の閑散さからは想像もつかないほどの賑わいが、まるで幻の城があらわれたようにその先に広がっていた。

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