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朱花に染まる(八)
木の葉のざわめきが無乃 の胸を不穏に掻き立てた。
目元のほくろを撫でつつ、伏せた瞼の上から眼球の膨らみをなぞる。
「協力とはもしかして、この目のことを言っているわけではないだろうね」
そんな不安に襲われたのだ。
差し出せと言っていたのか?
確かにすでに視力を失ってはいるがまだ痛覚は残っている。取り出されるのは痛いだろうな……
「それにしても、困ったね。これは病なんてものではないよ……呪いじゃないか」
呪いは専門外だよ、張浮 。
無乃は大きく息を吐き出した。
老僧は知っていてここまで連れてきたのだろう。
また同じ過ちを繰り返すつもりなのだね……
それに実は無乃の心を一番に苦しめているのは、まさに張浮のことらしい。
ことらしいというのは、無乃でさえ胸の痛みの原因がはっきりとしないためだった。ただ一つ大きく息を吐いて複雑な思いに沈ませるのは、張浮の言葉を思い出したからだ。
旧き良き友人?
友人にこんな仕打ちをするだろうか? 彼の言葉はやはり嘘なのだ、と。
誰もが偽皇子の奇秀を信じなかった。混乱に満ちた騒ぎの中、唯一の味方だと信じていたあの人でさえ私を裏切った。そんな私に、友人と。
優しい響きに一瞬でもどうにかしてやりたいとさえ思ってしまった。張浮の言葉に揺れた自分の弱さのせいだ。
無乃は自分のせいだと思いながらも、ため息の中に張浮への恨みを隠しきれない。
「これだから盗賊は嫌いなんだ。義理も人情もない。もし翠致幇の首魁、彼が生きていれば、きっと君は八つ裂きにされていただろう」
棺の中のものをさっと目視すると素早く部屋の外にでた。
憤慨だとばかりに早足に廊下を歩いているが、顔つきは残念なことに穏やかで足取りもゆったりしているのだから、傍から見ただけでは無乃が怒っているとは誰も思わないだろう。
「さて、この家は大きいからね」
張浮をそそのかした人物がいるとするなら、それは彼の傍にいるはずだ。
血に染まった張浮の部屋へ飛び込もうとした矢先、ほとんど同時に足を引きずった張浮の険悪な顔とかち合った。
「無乃……! お前、猫をどこへやった!」
扉を開けたそのすぐ目の前に、開口一番に怒号を浴びせる張浮に無乃もさすがに怯む。一歩足を引き、落ち着けと肩をおさえてたしなめる。
「質問に答えろ! 無乃!」
しかし歯茎を剥き出しにして張浮はさらに迫った。無乃はのんびりと彼の足に哀れみの含んだ眼差しを向けた。
「それより君、私の目を奪って何をするつもりだったのかな? それに棺の中のものを見たけれど、腐った君の足は、あの土人形にくれてやるつもりか? 病といって嘘を吐いたのはどうしてかな」
見抜かれたことにハッと目を見開く張浮に、今度は無乃が彼を押しのけ、部屋の中へ入っていく。
「誰が君をそそのかした?」
問いかけながら、その耳に滴る雫の音がぽた……ぽたた……と不規則に床を叩いていた。気味悪さに鳥肌を立てながら、獣を狩ってきたばかりなのだろうと無乃は思い込もうとする。
香の焚かれた部屋は煙っていて、ゆっくりと机の下や棚の影を隈なく見回した。
「君に人殺しなんてできるはずがない。小心者で、盗賊の首領も務まらない君に。それに棺の中のものについて教えてくれるかな。一体何をしようとしている?」
砕け散った香炉、ひっくり返った椅子、ぼろぼろにひき裂かれた紗、真っ赤な寝台の、その影――
なにか、動いた。
「……そこか」
無乃は気取らず背に手を組んで、まるで花でも見るようにゆっくりと近づいていく。血に濡れた紗をそっと指先で持ち上げた。布の後ろには隠れもせず、寝台に腰掛けた少女がゆったりと無乃を見上げた。
まだあどけない十八ほどの少女だった。
けれど無乃は彼女を見た途端、悪寒が背筋を駆け抜け、その容姿の恐ろしさに言葉を失った。
「……君、」
艶然と、少女らしくない微笑みが無乃の警鐘を打ち鳴らす。
なんて危険な気配をまとう少女だろうか。
ふわりと浮かぶように立ち上がった少女が寝台の上から手を伸ばす。迫り来る小さな手に無乃は身動きができなかった。まるで石にでもなったように指一つ動かない。
逃げなければ――
そう思いながらギリギリと歯を食いしばっていた。
少女の冷たい手が青ざめた無乃の頬を両手で包み込む。
乾いた唇からこぼれる震えた吐息を、彼女のまっ白な唇が吸うように顔を近づけた。
落ちくぼんだ眼窩と目の下の黒い隈、生気のない瞳。
「死相が……」
ほとんど死者とかわらない不気味な貌。震える無乃に少女は優しく唇を綻ばせ、肩から腕へと伝うように無乃の手を握りしめた。
親指にはめた指輪の下、猫に引っ掻かれてまだ癒えていないその小さな傷を、彼女の爪が深く食い込む。
少女のおかしそうに細める真っ黒な瞳が、無乃を見ているようで見ていなかった。
キリキリと刺す痛み。塞ぎかけたかさぶたが剥がれ、血がぷっくりと玉を結ぶ。そこに、少女の血が混ざり合う。
「血が、混じり合ったわよ、あなたも呪われた。私のように、死ぬのでしょうね、無乃――」
死ぬ――?
「猫を殺せば良かったのに、あの人、それを嫌がったから。でも無乃、あなたが来てくれて、良かった。ずっと支度をして待っていたのよ、張常 は、蘇えるかしら。張常を生き返らせるのと引き換えに、あなたを殺すことを選んだの、だって、愛した人を殺した憎い相手だもの」
脳の奥深くに眠っていた本能が無乃を突き動かした。
込み上げた嫌悪感に咄嗟に少女の体を突き飛ばす。振りほどけた手から自由になると、血の滴る手を大事に抱え、無乃はぞわぞわと恐怖に侵されていた。
十八ほどの少女が、口元に指をあてて愛おしそうに肩を揺らして笑っている。少女らしからぬ強い執着と激しい恨み。
「……君、一体」
「徐明 」
香煙がすっかり部屋の中に満ちて視界はかすんでいた。
張浮が狩ってきたばかりの獣の血も、もうすでに乾いているのだ。それなのにやはり耳には雫の滴る音がいつまでも届いていて、無乃はふと、割れた香炉があったことを思い出していた。
「この煙り……」
覚えがある――
「眠り薬か」
独特な香りの正体を言い当てると、無乃の体はがくっと膝を落としていた。
重く身体にのしかかる睡魔に両手をつき、眠ってはいけないと必死に頭を振る。昨晩夜明かしをしてしまったせいだ。寝ていればまだ少しは這っていく気力も残っていただろうか?
ああ……ほら、彼女の歌声が聞こえる。
寂しくて、悲しい、女性の悲痛な歌声……
その子守歌に無乃の瞼はゆっくりとおりていく。眠気には誰も逆らえないのだから、無乃も例外ではなく、溶けていくように意識を手放した。
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