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朱花に染まる(八)
繊細に編んだ糸のように美しい木漏れ日が囁くように揺れていた。
窓を覆う木陰が無乃の身体を一瞬のうちに呑みこむと、不穏な感情に包まれるように目の下のほくろを触れる。瞼の上からゆっくりと眼球のふくらみをおさえた。
「協力とはもしかして……」
この目を差し出せと言うことだったのか?
片眼は今更何も見えないのだから、あってもなくても変わりはしない。けれど取り出されるのは痛いだろう。
「それにしても、まずいな、これは病なんてものではない……呪いだ」
呪いは専門外だよ、張浮 。
協力しろと言っていたから、老僧も知っていて連れてきたのだろう。
無乃は大きく息を吐き出した。また、あなたは同じ過ちを繰り返すつもりなのだね……
それに実は一番心にこたえているのは、張浮のことらしい。
旧き良き友人?
やはり嘘だったのだ。
誰が無乃だけでなく、偽皇子の奇秀を信じるだろう。混乱に満ちた騒ぎの中、唯一の味方だと思っていたあの人でさえ私を裏切った。そんな私に、友人と。
その弱さがいけなかった。優しい響きに一瞬でも力になってやりたいと思ってしまったのだから。何度だって同じ轍を踏むのだ。何度もこのよじれるほど不快な思いを経験して、何度も裏切られる。
「これだから盗賊は嫌いなんだ。義理も人情もない。もし翠致幇 の首魁 、彼が生きていれば、君は八つ裂きだよ」
無乃は棺の中のものをざっと確認すると素早く部屋の外へでた。
憤慨と言わんばかりに足早に歩いていくが、顔つきは残念なことに穏やかでゆったりしているのだから、傍から見ただけでは無乃が怒っているとは思わない。
「さて、この家は大きいからね」
張浮をそそのかした人物がいるとするなら、それは彼の傍にいるはずだ。彼はその人物の言うことをかなり信じ切っている様子だから。
血に染まった張浮の部屋へ飛び込もうとした矢先、ほとんど同時に険相な顔つきで足を引きずった張浮が部屋を出ようとしているのとかち合った。
「無乃……! お前、猫をどこへやった!」
開口一番に怒号を浴びせる張浮に無乃もさすがに怯む。一歩足を引き、落ち着けと肩をおさえながらも歯茎を剥き出しにして迫る張浮の足に、哀れみの含んだ目を向ける。
「それより、君私の目を奪って何をするつもりだった? それに棺の中のものを見たけれど、腐った足はあの人形にくれてやるつもりか? 病といって嘘を吐いたのはどうしてかな」
ハッと今更気づいたように目を見開く張浮の一瞬のすきに、無乃が部屋の中へ押し入った。
「誰が君をそそのかした?」
動物を狩ってきたのだろうか。滴る雫の音が、ぽた……ぽた……、と不規則に床を叩いている。
香を焚いた煙った部屋の中をゆっくりと、机の下や棚の影を隈なく見回した。
「君に人殺しなんてできるはずがないんだ。小心者で、盗賊の首領もおさまらない君に。それに棺の中のもの、一体何をしようとしている?」
砕け散った香炉、ひっくり返った椅子、ぼろぼろにひき裂かれた紗、真っ赤な寝台の、その影――
なにか、動いた。
「……そこか」
無乃は気取らず背に手を組んで、まるで花でも見るようにゆっくりと近づいていく。血に濡れた紗をそっと指先で持ち上げた。布の後ろに、寝台に腰掛けた少女がゆったりと無乃を見上げた。
どうみてもまだ十八ほどの少女。けれど無乃は彼女を見た途端、悪寒が背筋を駆け抜け、その容姿の恐ろしさに言葉を失った。
「……君、」
艶然と、少女らしくない微笑みが無乃の警鐘を打ち鳴らす。彼女は危険だ。けれど後退る間もなく、ふわりと浮かぶように立ち上がった少女が、血に濡れた真っ赤な手で無乃の顔を包み込んだ。
落ちくぼんだ眼窩と目の下の黒い隈、生気のない瞳……
「死相だ」
これではほとんど死者とかわらない。
震える無乃に少女は優しく唇を綻ばせ、伝うように無乃の手を握りしめた。
親指の指輪の下、猫に引っ掻かれ、まだ癒えていないその小さな傷を広げるように爪を立て、少女はおかしそうに目を細める。
キリキリと刺す様な痛み。塞ぎかけたかさぶたが剥がれ、血がぷっくりと玉を結ぶ。そこに、少女の血が混ざり合う。
「血が、混じり合ったわよ、これであなたも呪われた。私のように、死ぬのでしょうね、無乃――」
死ぬだって――?
「猫を殺せば良かったのに、あの人、それを嫌がったから。でも無乃、あなたが来てくれて、良かった。ずっと支度をして待っていたのよ、張常 は、蘇えるかしら。張常を生き返らせるのと引き換えに、あなたを殺すことを選んだの、だって、愛した人を殺した憎い相手だもの」
脳の奥深くに眠っていた本能が無乃を突き動かした。込み上げた嫌悪感に咄嗟に少女の拘束を振りほどく。血が滴る手を大事に抱え、無乃はぞわぞわと恐怖に襲われた。
十八ほどの少女が、口元に指をあてて愛おしそうに肩を揺らして笑っている。少女らしからぬ強い執着と激しい恨み。
「……君、一体」
「徐明 」
香煙がすっかり部屋の中に満ちて視界はかすんでいた。鮮明な血ももう乾いているのだと思うほど。けれどやはり耳には雫の滴る音がいつまでも届いていて、無乃はふと、割れた香炉があったことに気づいた。
「この煙り……」
眠り薬か――
無乃はがくっと膝を落としていた。重く身体にのしかかる睡魔に両手をつき、眠ってはいけないと必死に頭を振る。昨晩夜明かしをしてしまったせいだ。寝ていればまだ少しは這っていく気力も残っていただろう。
ああ……ほら、彼女の歌声が聞こえる。
寂しくて、悲しい、女性の悲痛な歌声……
その子守歌に無乃の瞼はゆっくりとおりていく。眠気には誰も逆らえないのだから、無乃も例外ではなく、溶けていくように意識を手放した。
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