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朱花に染まる(九)
「万物を発する男の血は、死者を蘇らせる力が、女の物より強いそうだ……」
つらそうに息を入れる張浮 の声だった。誰に聞かせるわけでもなく、仕方のないことだと言い訳するように心細くもある。
――血、血というのは、何の話しだったかな……
夢から覚めつつ無乃 はどろりと溶けるような思考を懸命に働かせた。
たしか、人間が魚になるという奇妙な病、それを調べてくれと泣き付かれたのがはじまりだった。
「男は陽を司る。その血も、生を象徴するだろ……」
陽を司る男の血……
ああ、そうかと無乃はぼんやりと目を開いた。
どうりで、魚になったという人たちは皆、男だった。
老僧と共謀して襲ったのは、陽の血を求めていたからか。
張常 を奪われて嘆いた張浮が、奪われた痛みを知らないはずがないというのに、よくもそんな真似ができたものだ。
「無乃、お前に悪いことをしたなんて思っちゃいない。殺したいほど憎かったんだ。俺の人生を台無しにした、胸くそ悪い男だと……」
無乃の視界は瞬きを何度か繰り返してようやくすっきりと見えてくる。葡萄と唐草を描いた模様が目の前に広がっている。耳元では縄の軋む音。その合間に張浮の震えた声が聞こえていた。
徐明 の前で倒れたはずだが、今は彼女の気配は近くにないようだった。眠りに落ちてからそれほど経ってもいない。
起き上がろうとして、しかしその思いに反して身体を少しも動かない。頭の中ではすでに床に下り立ったと錯覚したために、すかっと頼りなく宙に浮いた足が、無乃には穴の底へ落ちていくような嫌な浮遊感に襲われた。
まだ寝ぼけているのだと、咄嗟に徐明にいじめられた傷口に爪をたてる。
「いつまで寝ぼけているんだ……」
自分で自分を叱りながら、目に見えている葡萄と唐草の絵は天井の絵なのだと気づく。
無乃は仰向けに転がされていた。
ぎしぎしと軋む音は頭上で腕を縛る縄の音だったらしい。
しかも寝かせられているのは棺の上。異様なほど目立つ、あのまっ白な棺だ。
棺の中の泥のような人形は張常を象ったものだろう。男の血を集めていたのは再生の力を求めていたからで、その血で張常を蘇らせる気なのだ。
張菫 の部屋にわざわざ運び、この棺の上につなぎ止めたということは、やはり彼は無乃の命を奪うつもりに違いない。
けれど無乃は危機が差し迫っているというのに、羅冴流 に頼んだおつかいのことをのんびりと考えていた。丁寧にとは言ったが、あまり丁寧過ぎても困る状況になってしまった。
ひとまず羅冴流が戻って来る前に聞きたいことを吐かせなければならない。これでは危険を承知で一人で乗り込んだ意味がない。だからもう少しゆっくり駆けつけてほしかったのに。
無乃は愚痴っぽく胸の中で呟いた。
「……私の名前をつけたあの子猫を殺せば、私も死ぬってことかな?」
だからって猫に同じ名前をつけるとは、傍から見たら悪主座の名前を子猫につけた盗賊団の首領、情緒の不安定な男に見えただろう。
「殺す前に、お前の目が欲しい。もう視力もないんだし、義兄にくれてやったっていいだろ」
「残念だけど痛いのはお断りだよ。それに猫もここにはいないようだね」
「猫がいないなら、俺がお前を殺さなくちゃいけなくなる」
「考え直した方が良い」
「この棺をお前の血で染めたら、義兄は蘇る」
張浮が立っているのは失明した眼の方だった。無乃にとっては死角だ。もう少し近づいてくれたら顔色や振る舞いもわかって揺さぶれるのだが……
「君にくれてやる命はないよ」
ふんと張浮が力なく鼻で笑った。
「徐明が人を呪って死なないやつはいなかった。俺もお前も死ぬ。千秋の月日にくらべたら、数年、数ヶ月の違いなんて大した差じゃない」
棺に手をつき、無乃を上から覗き込む張浮に、無乃はよかった、顔が見えるとおっとり微笑んだ。
「羊群 がなぜ財布を盗んでいったのか、君にわかるか?」
「羊群? なぜあいつを気にする」
張浮のわかりやすい顔がすぐさま不機嫌になった。
「彼は私が殺されると思ったから、君が襲撃するはずの船に乗せるのをためらったんだ。でも、我氷津にも脅されていて仕方がなかった。財布をとっていったのは、私が君と出会わないように行動を制限するつもりだったのだろう」
「あいつは根っからの盗賊だ。財布を盗むことに意味はない」
「君と同じだからだよ。臆病で人の言いなり。なのになんとかしようと足掻くんだ。君が張常を生き返らせたくて足掻いているのと同じように。人の心がないわけじゃない。そんな君が、私を殺せるか?」
もの悲しい目元のほくろを見た張浮が口を曲げた。一瞬、張浮の目の中に諦めたような色が浮かんだように思われて、無乃はようやく聞き出せそうだと微笑した。
「……君、翠致幇の遺言について、聞いたことはあるかな」
「遺言?」
「盗賊の前は翠致幇にいたはずだろう。何か知っていると思うんだけど」
「それがどうした?」
「彼らが奇秀を探している目的が知りたい。首魁は死んだ。それなのに遺言に書かれているからって、なぜ奇秀を探す?」
張浮は奇秀という名前を聞くと嫌そうに眉を寄せた。
どこへ行っても奇秀は嫌われるらしい。
無乃は苦く笑う。
「下っ端の俺に分かるはずがないだろ。奇秀のせいで首魁は死んだようなものだ。それに翠致幇にとって首魁の言葉は絶対だ。その遺言に書いてあるなら、奇秀を探すしかない。大方、首を取って墓前に晒すつもりだろ。だが、面白い話しがある。その奇秀というやつが、医者を探してるってさ。そいつの首を取って翠致幇に渡してやれば、一生食うに困らない金をもらえるかもな」
無乃は苦笑をさらに苦いものにした。
「……それは、無理だろうね。それに、どうして奇秀が医者を呼んでいるなんて噂が?」
本物はここにいる私だ。それなのに奇秀が医者を呼んでいるというのはおかしいではないか。
「さあ? 偽皇子さえいるんだから、奇秀なんてどこにでも転がってるんだろ」
「偽皇子か……」
名乗るだけなら誰でも奇秀になれる。しかしその男もまた面倒な名前を選んだものだ。歴代王朝の中でも特に嫌われているのだし、翠致幇の生き残りが今も奇秀を狙ってもいるというのに。
それほど大変な病だということだろうか。一体どんな病だ? その首を翠致幇に持って行けば腐るほどの金銭がもらえるのなら、少し興味があるな。
「張浮、最後に教えてあげる。その呪いは暗示だよ。自分で解ける。君は呪われてなんかいない。足の傷ももし腐敗を止めたいなら羅冴流に言って切ってもらおうか」
棺を指先で叩いて憂い顔だった張浮が唇を結んだ。
「……お前、俺に言ったよな? 俺の不幸は誰のせいでもないと。それなら、俺は幸せになる道が、残っているのか?」
気が抜けたように座りこむ張浮に、無乃はふふ、とやわらかく微笑みかける。さて、そろそろ羅冴流が凄まじい剣幕で乗り込んでくるに違いない。
「どうかな。君次第だよ」
瞼を伏せ、静かに答えた直後だった。
「無乃……!」
眉をつり上げた羅冴流が、無乃の予想通り戸を蹴破って入ってきた。えらく怒気を押し殺して近づいてくると、無乃の胸ぐらを掴もうとした手で激しく肩を揺さぶった。
「丁寧にだと? 俺を追い出して二人で話しがしたかっただけか? あの老人、剣の話しに小一時間も……! まさか知っていたわけじゃないだろうな?」
「終わるのを待っていたのか? 君も律儀だね。縄を切って、それからついでに彼の足も切ってあげてくれないかな」
涼しい顔で羅冴流の怒りを受け流す無乃だった。
「簡単に言ってくれる」
羅冴流が神妙な顔つきになる。座りこんでいる張浮に視線を落とし、おや、と眉を寄せた。
「……どこかで見たことのある顔だが」
「ああ、翠致幇にいたから、きっと君も一度は――」
無乃は顔色を変えず何事もなかったかのように言葉をのみ込んだ。その一瞬の迷いに違和感を覚えた羅冴流が口を開く前に、にこりと微笑む。
「縄を頼むよ、羅冴流」
無乃は笑顔の裏で焦っていた。
いらないことを口走った。羅冴流がそこをほじくり返したら困るな。
その懸念どおり、不敵な笑みを零す羅冴流が、無乃の両腕の縄を鮮やかに切り落とす。
「見事な剣さばきだ」
とりあえず褒めておいて素知らぬ顔で起き上がる。手の埃を叩いて衣服をただしていると、羅冴流が指先でつ――、と顎の先をおさえ、唇が触れるほど近くに顔を寄せた。目の前の艶やかな瞳が無乃の心の奥まで食らい込むようだ。
「君は秘密が多いな。……何を知っている?」
羅冴流は声を出さず、唇の動きだけでそう聞いた。
にこにこと冷や汗を背中にだらだらと流す無乃にふっと目を細め、「そのうち暴いてみせるさ」と上機嫌に離れていく。
羅冴流が張浮の足の傷を見ているうちに額の汗を拭い、無乃は、
「私は小舟を借りてこようかな……」
と逸る鼓動を抑えて颯爽と部屋を出て行く。
一体何重の仮面を被っているのか。もしやあのおっとりした性格も偽りか? そんな疑い深い羅冴流の視線を背に受けながら、無乃は「やれやれこれはうっかりしてしまったな」と失言を悔いていた。
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