42 / 45

芳名を吊す(六)

羅冴流(ルオフーリウ)、案ずることはない。彼はここにいるからね」  無乃(ウーナイ)はちらりと牀に視線を向けて、思い違いをしていたようだと息を吐く。男に用があったのは、宣彩(シュワンツァイ)ではなかったのだ。わざわざ声をかけてくるほどなのだから、さぞ熱烈な晩景門の悪主座のごひいきかとも思ったのに、どうやらそれも違うらしい。 「けれどこれではっきりした。おそらく三つだ。私と君は今、三つの嵐の目の中にいるらしい」 「家が吹き飛びそうだな」  無乃はなにを的外れなことを言っているのだと眉を下げた。 「羅冴流、本物の嵐ではなく、ここを取り仕切る勢力のことだ」 「それは全く気づかなかった」  目尻を細めて挑発するような羅冴流を、無乃は少し冷たく一瞥した。 「君って厚かましい男だね」  うっかり手加減を忘れた言葉は切れ味が良い。羅冴流が一瞬言葉に詰まって、豆鉄砲を食らった鳩のように目を点にした。無知なふりをする羅冴流が気に食わない。たった一言言い放ったきり無言の無乃に羅冴流がそんな含みを感じ取ると、「癪に障ったか、おかしいやつ」とくずれるように一気に噴き出した。 「何がおかしい?」  無乃の不満な声にも、「くっ、」と喉を鳴らして声も立てず爽やかに笑い通す。羅冴流は目尻の涙を拭って大きな口で言った。 「無乃、俺に厚かましいなんてぬかした相手が、今までにどれほどいたと思う」  予想していなかった。だからそれが、思いも寄らない笑壺に入ったのだ。  腹を抱えて膝を打つ羅冴流に、無乃はふんと小気味よい態度で歩み寄る。 「言い方を変えるよ。図々しいともいう」  そのまま指をぴんと天井に向けて立たせながら、空を混ぜるようにぷらぷらと動かし、ややすると毒を含んで傲慢な態度でたたみかけた。 「私を試そうとするなんて、君は随分自分の能力に自信があって、私の立てた推測の合否まで判定するんだから、なんでもお見通しなんだろうね、実に優秀だよ。それなのに、気づかなかったって?」  無乃はまだ言い足りなかった。勢いのままに素早く息を吸い込む。 「それに言わせてもらうけれど、外をただ、理由もなく見ていた? 一日中男を背負っておいて何も気づかないというのなら、君が今も無傷でここにいるはずがない」  羅冴流はにこにこしつつ壁により掛かり、無乃が必死にまくし立てる様子を面白そうに見おろしていた。いつもより眉をきりりと上げて、はっきりとした口調の、けれどどこか気の抜けるようなのんびりとした声に羅冴流は夢中になっていたのだ。  無乃の叱責などほとんど聞いちゃいない。無乃も最後の方になると、この爽やかな顔の好青年が話しをすっかり右から左へ流して、じっと無乃の顔ばかりを見つめていることに気づき、すっかり怒る気力が削がれていた。 「外を見ていたのは、君と二人きりが気まずかったからだよ」  しんと静まりかえった部屋の中で臆面もなくいってのける羅冴流に、無乃はたいそうな殺し文句だなと心の中で頭を振る。 「晩春をともにし、初夏を隣で過ごして、それなのに私といるのが気まずいというのは、それはそれで傷つくものだよ」  にっこりと腹の読めない笑みを浮かべる羅冴流。その眼差しは気後れするほど優しい。けれど暖かな瞳の奥を覗き込んだ無乃は、それがうわべの物に過ぎないのだと知ってしまった。凍てつくほど冷たく、物憂げなほの暗い光が潜んでいる。あまりにもどす黒くて不快な色だった。その激憤と悲哀の炎が、彼の胸を何年と掻き立て激しい復讐の欲を呼び起こす正体だと知り、無乃は近づきすぎたと後悔した。 「外を見れば、君のように何かわかるのか? あいにく俺にはなにもわからない。誰が、どうして俺たちを狙うのかも」  息を吐く無乃は羅冴流がやはり懲りずに何も知らない素振りをしたので、 「だからそれが厚かましいというんだよ」  と、直前の衝撃をまるで他人事のように素っ気なく呟いた。ざわりと肌を粟立てる、冷たい感情だった。  無乃と羅冴流を繋ぐ縁は決して祝福を呼ぶものではない。憎み嫌い、むごいほどの怨念。それが深泥となって羅冴流をとらえ、剣に吸わせた血と後悔の、薄汚い執着心が無乃を捉えているだけにすぎないのだ。  やはり、全く信用のならない男だ。  無乃は重く息を吐いて筵の上で正座した。 「そろそろ待ちくたびれただろうから、この部屋に彼女を入れてあげようか、羅冴流」  身なりを整えつつ穏やかに微笑んで言った。

ともだちにシェアしよう!