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太師青に降す(六)

 雲上の宮殿に迷い込んだのだと無乃(ウーナイ)は立ちすくんでいた。  美々しい朱金の牌楼(ぱいろう)の先に、幾重にも重ねた軒端の波が、清々とそよぐ金葉白樹(きんようはくじゅ)の木々を超して覆い被さるような雄大さであった。まるで一つの町のごとく広大な旅宿。夜府(やふ)と呼ばれる殿閣である。  装飾は白や青を基調にして色彩は鮮やか。贅沢に遇(あしら)われた黒珊瑚や金珊瑚が具に輝き、雲のような霧が足元をまろびほつれては流れていく。  五日後、夜府の眼下は碧色雨水(へきしょくうすい)に満ちて、その様相は湖上の宮殿のごとくである。待ちわびる月下評の会場はこの絢爛な夜府にて行われる。  無乃はこの迫力のある旅宿に圧倒されていた。   あたりをきょろきょろと首をめぐらせて、どれほど美しく広いのか目にとどめておきたいと思いながらも、医者として招かれていることを忘れているわけではない。  威厳たっぷりに堂々と歩いていくが、視線はつい清秋白風に戯れる紗に惹かれ、黄金に染まる桂や銀杏の木々に心は奪われていた。  白雪梅、芳香蘭、清廉柳と、金泥で描かれた草木靡く風雅な絵の硝子扉を何枚も後ろに見送っていた。  夜府に入った新生面(シンションミエン)は一転して無口である。  使用人や従業員が行き違いに挨拶していくが、彼は全て適当に鼻先で返事をするのみだ。  無乃を連れていることさえ忘れてしまったかのように、心ここにあらずと言った様子でぼーっと先へ先へ歩いて行く。  そんな彼がようやく立ち止まったのは、鈴蘭の扉の前だった。硝子扉の向こうに女性の姿が見える。痩せ細った上体を起こし、下女と穏やかに談笑していた。  件の女性だと、無乃はすぐに分かった。天鵞絨(ビロード)に頭は柔らかく包まれて、控えめに微笑むその口元には歯がなかった。  下女と親しく語りあう彼女の姿を、新生面は食い入るように見つめていた。水を差しては悪いと思っているようだと、無乃は最初思った。けれど、眼差しは疑い深く不安に震え、唇は青くなるほど噛みしめている。  苛立ち―― 「……許嫁の黄画静(ホワンホワチン)だ」  新生面は込み上げてくる交々の感情を呑み込むように言った。 「俺と結婚するのが、気に食わないんだよ」  あの女……と消えかかるほど小さな声で呟く。新生面の目は黄画静を見ているようでいて、下女にも向けられているようでもあった。彼女たちの並ぶ姿が、廊下からでは重なって見えたのだ。  新生面は部屋の中に入っていった。するとすぐに、 「……どなたです、ここは客室では――」  と下女の声高な問いかけに新生面がうるさそうに答える。 「新生面だ」  寝台に横座りになっていた女性は蝶番の軋みにハッと怯えた顔をしたが、現れた人物を見ると口元をきゅっと結んで微笑んだ。 「……新生面、帰ってきてたのね」  甘えかかるような目で新生面を呼ぶ。  無乃はそのとき首をかしげつつ、未だにゆっくりと頷いてから顔が上げられないでいた。 新生面が僅かに見せた落ち着かない仕草に引っかかって、出遅れたのだ。 ――焦り? 急いでいるのだろうか? 「昨日は、何をしていた?」  静かで清潔な部屋に、新生面の優しく問いかける声が籠もる。彼は黄画静から一時も目を逸らさず寝台のそばまで歩み寄っていく。  途端に下女は食器を片付け、逃げるように部屋を出て行った。  無乃は彼女に軽く会釈だけして慌ただしげな背中を見送る。彼女が持ち去った食器類に薬の包みは混ざっていない。  どうやら、黄画静は治療に消極的で、投薬も断っているらしい。  無乃はゆったりと病床の二人に近づいた。 「あの下女とどんな話をしてたんだ? 楽しげだったじゃないか」  黄画静の肩を優しく摩りつつ新生面が尋ねている。黄画静は話し難そうにして視線を落とし、中々答えようとしない。新生面はさらに顔を覗き込んで囁くように言う。 「留守の間、君のことが心配なんだ」  黄画静は何度か瞬きを繰り返すとそっと微笑した。俯き加減に顔を伏せたまま、物憂げな顔でゆっくりと答えていく。 「月下評のことで……楽しみねって話していただけよ」 「長く留守にしていて寂しい思いをさせただろう。困ったことはないか?」 「何も。あなたの帰りが、待ち遠しかったくらい」  無乃は新生面の顔色をちらっと盗み見た。黄画静の頬を優しく撫でるのに夢中な彼は、黄画静のどこか歪な態度に気づいていないようだ。  ――無理もない。  毎日傍にいて、彼女の様子を知っているわけではないのだから。  新生面は義に厚い男だな、と無乃は息を吐いた。不気味な病を患い、悪い噂まで広まっている彼女を、このまま婚約者として受け入れるというのだから。愛情深いわりに黄画静の態度にも気づかないなんて、恋は盲目とはよくいったものだ。 「医者を連れてきた。もしかしたら病の原因が分かるかもしれない」  黄画静はそれを聞くと一瞬悲しげな目をして、新生面の手を優しく握りしめた。 「今度こそ、良くなる気がする」  そっと新生面の体に寄り添う黄画静の、迷うような表情だった。  無乃は早速許可が出たので椅子を引っ張って黄画静の隣に座る。 見た目よりも彼女の病は軽そうだった。下女が素早く片付けた食器は全て綺麗に平らげられていたし、内側に残った香辛料や汁物の痕をみると、量が少ないというわけでもない。  食欲もあり、顔色の艶も良い。目元は張りがあって夜もぐっすり眠れているようだ。病だというのなら、彼女は一体何に困っているというのだろうか? 「黄さん、私の手を握ってください」  黄画静は無乃が堂々と近づいて遠慮なく隣に座ったので驚いたらしい。どれほど高齢な医者だろうと配慮というものは忘れなかったのに、この薄汚れた若い医者は遠慮を知らず隣に腰掛け、しかも手を握れという。無礼に一瞬身を竦めたが、無乃が瞼をうっとりと伏せて、まるで連れ出そうとするように手を差し出すので、黄画静は言われたとおりに手を重ねた。  黄画静の手を無乃はじっくりと見る。爪の先まで美しく、細く長い指だった。 手のひらの中央を明堂という。普通は落ちくぼんで特に色はない。しかし彼女の明堂は僅かに黒ずみ、手の線は血の気がなく関節は硬い。どうやら臆病で頑固、保守的な一面があるらしい。 「薬はどうしていますか?」 「もらっていない。どれも効かないからな」  黄画静の返答を期待していた無乃は、新生面が答えたのを和やかにしながらも首をかしげた。 「体調に変化はありますか?」 「良くも悪くもならない」  無乃は立ち上がっていた。 「食事は、一日何度ですか」 「……間食を含めると、四度くらいかしら」  これには新生面ではなく黄画静本人が恥ずかしそうに言った。無乃はゆるく頭を振る。 「運んでくるのは、さっきの使用人ですか」 「そうよ」 「体は、動けないほど悪いですか」 「……そうではないけど」 「あまり長く起きていると悪化する。そうだろう、先生」  無乃はにこりとして新生面を見上げた。「大体分かりました」と黄画静の手を離す。 「手を握っただけで、何がわかるんだ?」 「手はその人の情報が詰まっているんだよ」  人の性質から内部の善し悪しまで一通り。情熱的な気質、はたまた飽きっぽいのか。不吉な星の巡り合わせか、運勢は良いか。体質から運命に至り、さらには夜戦においての戦術の巧みさに攻め方、長さや太さといったところまで多岐にわたる…… 「大きさは鼻でわかるというじゃないか」 「鼻ではなく手を見るんだよ」 「手? ……長さはどうやって知る?」  いけないな、興味を持たれた――  と無乃は内心苦く思う。 「指だよ」 「本当か?」 「君は拳があまり大きくないから、大体想像はつくよ」  横目に新生面を見ると、彼はひくりと口元を震わせていた。 「拳の大きさで、分かるのか?」  と興味津々に尋ねながら自分の拳を眺めたりなでさすったりしている。 「違うよ」 「なんだよ、教えてくれよ」 「知らなくていいことだ」  教えてしまえば無乃の個人情報だって知られるはめになる。それはご免だ。 「ずるいぞ、自分だけ他人の物を知るなんて!」  と地団駄を踏む新生面に無乃は目眩がした。 「知りたいはずがないだろ」  わざわざ他人の手を気にしてそんな事を考えていてはただの変態だ。無乃は頭を悩ませてゆっくりと部屋を出た。 「……とりあえず、君は今夜、私と一緒にいるべきだな」 「長さの確認をしようってのか?」 「――新生面、君、婦女との交際には気をつけた方が良い。何事も忍耐というものが必要だよ」  新生面は思い当たるところでもあったのか、カッと顔を赤らめて悔しそうに歯がみした。唾をため込んだ口で何かうるさく喚いていたが、無乃はさっさと歩き出していた。

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